窮鼠
私はJ。大学の基礎医学研究室に籍を置く中堅研究者だ。日々の業務は、遺伝子改変マウスの作製や、それらを用いた様々な実験、そして得られたデータの解析といった地道な作業の繰り返しである。臨床医の先生方のように、直接患者さんと向き合う機会はほとんどないが、この仕事がいつか何らかの形で医療の進歩に繋がるのだと信じ、単調とも言えるルーティンをこなしている。神経変性疾患のモデルマウスを主に扱う私たちの研究室では、動物実験施設に出入りするのは日常だ。
その日も、私は深夜まで実験が長引き、必要な試薬の補充と翌日の準備のため、人気のない動物実験施設へと向かった。施設の廊下は、管理区域特有の消毒薬の匂いと、空調の低い唸りが支配している。いくつかの飼育室の扉の小窓からは、薄暗い赤いランプの光が漏れ、その中で無数の小さな命が眠っているか、あるいは覚醒しているかしているのだろう。そんなことを考えながら歩いていると、施設の最も奥にある特殊飼育区域準備室の灯りが点いているのに気づいた。こんな時間に誰だろうか、と訝りながらそっと扉を開けると、そこには初老の男性が一人、黙々と作業をしている姿があった。施設の管理を一手に担っている、ベテラン技術員の佐々木さんだった。
「佐々木さん、お疲れ様です。まだ残っておられたのですね。」
声をかけると、佐々木さんはゆっくりとこちらを振り返った。皺の深い、温和な顔。しかしその瞳の奥には、長年この特殊な環境で働いてきた者だけが持つ、どこか達観したような、それでいて時折鋭い光が宿ることがある。
「ああ、J先生。ええ、少し片付けが残っておりまして。来週で私もここを退職するものですから、後任に迷惑をかけんようにと思って。」
そういえば、佐々木さんが長年勤め上げたこの施設を去るという話は、以前耳にしていた。彼は、私がこの大学に来るずっと以前から、この施設の「主」のような存在だった。どんな癖のある研究者よりも動物たちのことを熟知し、その扱いも丁寧で、私たちは皆、彼に全幅の信頼を寄せていた。
「それは、お寂しくなりますね。皆、佐々木さんには本当にお世話になりましたから。」
「いえいえ、私も好きでやってきた仕事ですから。ただ。」と言葉を濁した佐々木さんは、ふと、作業の手を止めて私を見つめた。「長いことこの仕事をしておりますとね、先生。時には、科学では割り切れんような、不思議なこともあるもんです。」
彼の口調には、いつになく真剣な響きがあった。私は黙って次の言葉を促した。薄暗い準備室の隅では、オートクレーブが周期的に蒸気を吐き出す音がしている。それがまるで、これから語られる物語の不気味な伴奏のように聞こえた。
「もう二十年以上も前の話になりますかな。当時、うちの大学に新進気鋭の、それはそれは頭脳明晰な、しかし少々強引なところのあるN先生という方がおられましてな。」
佐々木さんは、古びたパイプ椅子に腰を下ろし、遠い目をして語り始めた。N先生は、記憶や学習能力に関わる新しい遺伝子を発見し、その機能をマウスで徹底的に解明しようと野心的な研究プロジェクトを立ち上げたのだという。彼の仮説は大胆で、もし証明されればノーベル賞も夢ではないと囁かれるほどだった。
「N先生の研究では、特殊な遺伝子操作を施したマウスを使っておりました。元々、他の系統よりも利口で、警戒心が強いことで知られる系統だったんですが、先生の『改良』で、それがさらに研ぎ澄まされたような印象でしたな。そして、そのマウスたちに、非常に過酷な環境下で複雑な課題をクリアさせる、という実験を繰り返しておられた。」
その実験の詳細を、佐々木さんはあまり語りたがらなかったが、曰く、マウスにとっては極度のストレスに長時間晒され続けるような、追い詰められるような内容だったらしい。「窮鼠猫を噛む、と申しますがね。」と佐々木さんは呟いた。「あの時のマウスたちは、まさにそんな状態だったのかもしれません。」
異変に最初に気づいたのは、やはり日夜マウスの世話をしていた佐々木さんだった。
「ある時期から、N先生の実験群のマウスたちの様子が、どうもおかしいと感じるようになりましてな。ケージの前に立つと、それまでは怯えて隅に固まっていたり、あるいは無関心に餌を食べていたりしたのが、じっと、こちらの目を見返してくるようになったんです。それも、一匹や二匹じゃない。ケージの中のほとんどのマウスが、まるで何かを値踏みするかのように、こちらを観察している……そんな気配を感じるようになったんです。」
その群れの中に、一匹だけ異様な存在感を放つマウスがいた。片耳の裂けた、群れより大きな、雄のマウスがいた。佐々木さんは、密かに彼を「片耳」と呼んでいた。彼は常に群れの中央に位置し、まるで他のマウスたちを統率しているかのように見えたという。
N先生にそれとなく伝えても、「それは素晴らしい!私の仮説通り、彼らの認知能力が飛躍的に向上している証拠だ!」と興奮するばかりで、佐々木さんの抱いた不気味な感覚は全く意に介さなかったそうだ。
「そして、ある日のことでした。N先生が、それまでの実験の集大成として、数日間に渡る最終試練をマウスたちに課すことになったんです。私はその準備のため、例のマウスたちを実験室の特殊な装置にセットしました。片耳も、もちろんその中におりました。」
その夜、佐々木さんはどうにも胸騒ぎがして、普段はしない実験室の見回りに向かった。実験室の扉を開けると、内部は計測機器の微かな作動音だけが響き、奇妙なほど静まり返っていたという。普段なら、マウスたちの立てる物音や、時折聞こえる鳴き声がするはずなのに。
「装置の中を覗き込んで、私は凍りつきました。」
佐々木さんの声が微かに震えた。
「マウスたちが、数十匹、身を寄せ合うようにして固まっていたんです。しかし、それは寒さや恐怖で縮こまっているのとは明らかに違いました。全匹が、寸分違わず同じ方向を向き、じっとじっと、実験の様子を記録するモニターカメラのレンズを見つめていたんです。まるで、レンズの向こう側にいる誰かに、何かを訴えかけるように。そして、その集団の最も前、カメラレンズの真正面には……片耳が、まるで仁王立ちのように立っておりました。」
その光景はあまりに異様で、佐々木さんは声も出せずに立ち尽くした。やがて、片耳がゆっくりと首を巡らし、佐々木さんの存在に気づいた。そして、他のマウスたちも、まるで号令でもかかったかのように一斉に佐々木さんの方を向いた。その無数の小さな黒い瞳が、暗闇の中でぎらりと光ったように見えたという。
「あれは、動物の目ではありませんでした。何か、人間の、それも深い怨念のようなものが宿っている。そう感じました。私は、生まれて初めて、腰が抜けるという経験をしましたよ。」
翌朝、佐々木さんがN先生と実験室に入ると、装置の中のマウスは全匹、息絶えていた。外傷もなければ、苦しんだ様子もない。ただ、まるで眠るように、しかしあの晩佐々木さんが見たのと同じように、全匹が一つの方向を向いたまま、冷たくなっていたという。片耳だけは、集団から少し離れた場所で、まるで何かを睨みつけるかのように目を見開いて死んでいた。
「N先生は、原因を突き止めようと躍起になっておられましたが、結局何も分かりませんでした。ただ、あの出来事以来、先生はまるで人が変わったように憔悴し、研究への情熱も急速に失っていかれた。そして、程なくして大学を去られました。あのマウスたちの死が、先生の心に何か大きな影を落としたことは間違いありません。」
佐々木さんは、それきりN先生の行方を知らないという。
「科学では説明できない、と申しましたが」佐々木さんは、古びた流し台に置かれた実験器具に目をやりながら、静かに言った。「私はね、先生。あのマウスたちは、自ら死を選んだのではないか、と今でも思っているんです。追い詰められた彼らが、最後の最後に、研究者に対して示した、精一杯の抵抗だったのではないかと。あるいは、あの片耳が、仲間たちを道連れにしたのか。どちらにしても、あの小さな頭で何を考えていたのか、私には、想像もつきません。」
佐々木さんの語りが終わると、準備室には空調の微かな唸りと、周期的に吐き出される蒸気の音だけが戻ってきた。私はその場に立ち尽くしながら、先ほど語られた情景を、研究者としての理性と、どこかもっと曖昧な感覚との間で反芻していた。
実験動物。言葉を持たず、記録にしか残らない命たち。
我々は彼らを「モデル」と呼び、必要とされるだけの苦痛を与える。だが、それは本当に「必要」だったのか?
佐々木さんの言葉が、胸の奥でじくじくと疼いている。
科学という光のもとで照らしていたはずの私たちの行為は、いつの間にか、その“灯の外側”に何かを置き去りにしてはいなかったか。
そんな考えが、いつまでも頭を離れなかった。
佐々木さんは、やがてゆっくりと立ち上がると、「さて、そろそろ本当に最後の仕事にかかりますかな」と寂しそうに笑った。「J先生も、あまり根を詰めすぎんようになさってください。」
その背中を見送りながら、私はN准教授の野心と挫折、そして佐々木さんが垣間見た「窮鼠」たちの最後の抵抗に思いを馳せていた。私たちの研究室にも、数え切れないほどのマウスがいる。彼らのつぶらな瞳の奥に、我々が決して知ることのできない感情や知性が隠されているとしたらどうだろうか。
その夜、私は自分の研究ノートに記された無機的な実験計画を眺めながら、佐々木さんの言葉を何度も思い出していた。「窮鼠猫を噛む」。だが、もしその「噛む」という行為が、物理的な反撃ではなく、もっと静かで、しかし決定的な形で現れるとしたら、我々はどう対処すれば良いのだろうか。そんな答えの出ない問いに、私の心は息苦しさを感じるのだった。
そして息苦しさのあまり科学が沈黙する時。
我々に残されるのは、あの小さな瞳の奥にあった、名もなき意思だけなのかもしれない。