小さくて可愛いもの
ずっと頭の中には白い靄が掛かっているかの様に……
空っぽで何も無かった。
気が付くと……
少しずつ色んな事が出来る様になっていった。
自分はこのシルフィード帝国の皇太子であり、家族は父親である皇帝陛下と母親である皇后陛下の3人だけだと聞かされた。
それが何かを理解をするのには時間は掛かったが。
この広い宮殿を歩き、両陛下や皇宮の臣下達と接する事で少しずつ認識して行く事が出来た。
日常生活が出来る様になった頃。
自分には婚約者がいて、2ヶ月半後に結婚式を挙げる事を聞かされた。
ずっと何かを探している様な気がしていたが。
その何かはその婚約者なのかと思った。
その何かは……
小さくて可愛くて。
その小さくて可愛いものは……
程に会いに来てくれるサリーナなのかとも思ったが、彼女は何時も媚びる様な目をして見つめて来ていて、他の女性達と同じにしか思えなかった。
だけど……
彼女が聖女で自分の側妃になると聞かされてからは、彼女に好意を持つ様になった。
いや、好意を持たなければならないと思った。
自分の妃になるのだからと。
サリーナの話す話では……
自分と彼女は何年も前からの恋仲の様に思われた。
しかし……
皆は私と婚約者が学園時代からの恋人同士で、その頃には婚約をしていたのだと言うのだ。
皆は婚約者に会えば分かると言い、あまり詳しくは話してくれなかったが、サリーナだけが自分との過去の話をしていたのだった。
アルベルトの頭はここで完全に混乱した。
誰の言葉を信じて良いのかが分からなくなった。
いや、誰の言葉も信じられなくなった。
こうなってしまう事から、昔の話をしない様にと言われていた筈なのに、サリーナはその忠告を全く聞かなかった。
アルベルトに寄り添う事などをせずに、自分の欲だけを優先させたと言う訳だ。
このままアルベルトの記憶が戻らなければ良いと思っているのだから、彼女としては当然の事なのだが。
そんな頃にラウル、エドガー、レオナルドが現れた。
幼馴染みだと言って。
彼等はただ記憶を取り戻す事だけを話していて、危うく石を頭にぶつけられそうになり、クラウドからどやされていた。
「 お前らはーっ!! 昔から何でこんなに滅茶苦茶なんだーっ!! 殿下が死んだらどうするんだー!! 」
慌てて逃げて行く3人の後ろ姿を見ながら……
ああ……
俺達は……昔からこうして遊んでいたんだなと笑った。
それからは彼等は程にやって来た。
彼等とはシルフィード帝国の未来の事を語り合った。
そうなると自分の公務に興味が出てきて、クラウドと少しずつ執務を始めた。
そんな時……
食堂の外でカーテシーをしている令嬢と会った。
その令嬢は……
一目で高貴な令嬢だと分かる位に、とても美しく優雅であった。
それに……
小さくて可愛い。
「 今の……美しい令嬢の名は何と言う? 」
アルベルトがラウル達に聞くと……
彼等はニヤニヤとしていて。
「 あの美しい令嬢がお前の婚約者だ 」
「 !? 」
「 名前はリティエラ・ラ・ウォリウォール。俺の妹だ! 」
「 レティは……お前の最愛の令嬢だよ 」
彼女はレティと言う愛称で呼ばれているのか。
しかし……
ラウルの妹?
「 お前の妹なら、何故俺に会いに来ない? 」
「 さあね。本人に聞いて見なよ 」
何度も会えと言ってるんだがなと言って、ラウルは肩を竦めた。
アルベルトがレティと会った時。
彼には不思議な気持ちが沸き上がった。
あのイライラした感情は……
ただレティに甘えたかっただけで。
自分が何者かも分からない中で過ごす不安な毎日で。
何故会いに来てくれなかったのだと言う、まるで幼子の様な感情がそこに芽生えたのだった。
元々アルベルトは我が儘も言った事の無い皇子だった。
幼い頃から皇太子宮で独りで暮らし、沢山の使用人に傅かれ、人の上に立つ者として誰にも甘える事なく育った。
アルベルトに乳母がいなかったのが仇になったのかも知れない。
そんなアルベルトは……
レティには甘える事が出来て我が儘を言えるのだった。
サリーナが抱き付いて来た時に……
アルベルトは彼女を抱き締めた。
それには訳があった。
実際、レティに会って彼女は自分に取って特別な女性だと確信した。
しかし……
サリーナから聞かされていた学園時代の話がアルベルトを混乱させていた。
記憶の奥にある小さくて可愛いものは、サリーナにも当てはまるのだから。
ギュッと抱き締めたとたんに違和感を感じた。
身体がサリーナを拒否したのだ。
違う。
ずっと探している小さくて可愛いものは彼女では無い。
アルベルトは毎晩レティを抱き締めて寝ていた。
だから……
その腕がレティの形を覚えているのだ。
そして……
抱き締めた時に香った匂いも違っていて。
アルベルトの五感である、嗅覚と触覚がレティを覚えていたのである。
たとえレティの記憶を失っていても。
***
「 レティに……会いに行く 」
小さな聖杯を見ていたアルベルトは、レティに堪らなく会いたくなった。
いや、会わなければならないと思った。
しかし……
レティの部屋にはサリーナがいた。
「 そなたは……何故ここに? 」
「 お姉様はもう出て行ったわ。これからは私がここに住もうかと思って…… 」
驚くアルベルトにサリーナは抱き付いた。
「 これからは私が婚約者です! 」
……と言って。
アルベルトはサリーナを押し退けて、レティの部屋に入った。
部屋は綺麗に片付けられていて。
ガランとしていた。
「 出て行っただと? 」
アルベルトはそう呟いてレティを探した。
天涯付きのベッドのカーテンを開け、衣装部屋の扉を開けた。
「 アルベルト様! お姉様は記憶を失って苦しんでいるアルベルト様を見捨てて、さっさと出ていったのよ! 」
サリーナがアルベルトの腕を掴んだが……
アルベルトはまた、その手を振りほどき衣装部屋に入って行った。
そこには……
学園の制服が掛かってあるだけだった。
本当に居なくなってしまったのか?
まだ何も話せていないと言うのに。
その制服は……
まだ学生だったレティがこの部屋に泊まる事を考えて、皇太子宮からも学園に通える様にと、侍女長のモニカが用意したものだった。
ふと……
制服を着たレティの姿が頭を過った。
「 この制服を着ていたのは……そなたでは無い。私が……ベンチに座って待っていたのは…… 」
アルベルトは何か思い出す様に額に手を当て押し黙った。
いけない!?
記憶が戻りかけている。
皇子様がベンチに座って待っていたのは……
私でなければならないのに。
サリーナはアルベルトの腕にそっと手を伸ばした。
そして……
浄化の魔力を発動した。
あの時みたいに……
アルベルト様にキスが出来たら良かったのだけれども。
これで……
アルベルト様は私の物。
サリーナはアルベルトの反応を待った。
「 !?………そなた……今、私に何をした!? 」
アルベルトが額に当てていた手を下ろして、サリーナを凝視した。
折角記憶が戻りかけたのにと思って。
今でも頭の中が白い霞が掛かった様な状態であるアルベルトは、サリーナが浄化の魔力を掛けた事には気付かなかったが。
「 !? 」
効果が無い?
そんな……
サリーナは狼狽えてよろよろと後退りした。
サリーナは勘違いしていた。
浄化の魔力は魔獣を浄化させる魔力であるから、それをアルベルトに掛けても何も起こらない。
あの時は……
魔獣の血の残骸がアルベルトの目に残っていたからこそ、浄化の効果があったのだ。
アルベルトが記憶を失ったのは、その魔獣の血と相互反応をして、その記憶までをも消し去ってしまったと言う訳だ。
その時……
「 アル! 」
エドガーがやって来た。
「 エド? 」
「 やっぱりここに居たか。レティは公爵邸に帰ったってよ!今から馬車で行くだろ? 」
「 ………ああ 」
アルベルトはサリーナに一瞥もせずに部屋を出て行った。
扉の外から覗いているエドガーがニヤリと笑った。
「 あっ! 議会で側妃の話はなくなったからね。セ・イ・ジョ・サマ 」
その場に立ち尽くしているサリーナにそう言って、エドガーはアルベルトの後に続いた。
「 本当なの!? 」
部屋の隣の侍女部屋にいたレナとルナが慌てて飛び出て来た。
サリーナは……
身体から力が抜けてガクリと床に座り込んだ。
***
背筋を真っ直ぐに伸ばし胸を張り、大臣や議員達を次々に論破していく小さくて可愛い令嬢。
自分の身体の一部の様に大切にしていたオハルを潰してまで、他国の為に聖杯を作る事を望んだその崇高な理念。
たとえ彼女の記憶が無くても。
アルベルトが好きにならない理由は無かった。
聖杯が……
一つずつ台座の上に並べられて行くのを見ている内に……
アルベルトは自分の恋心を自覚した。
「 こんな妹を愛していたのがアル……そこにいる皇太子殿下だ! 」
ラウルの言った言葉が嬉しかった。
こんな素敵な女性を……
自分はちゃんと愛していたのだと。
アルベルトを乗せた馬車は公爵邸に到着した。
僅か10分の道のりも長く感じた。
早く会いたかった
顔をみたくて、話したくて……
『レティ』と言ったらまた怒るだろうか?
そもそも何で俺は愛称で呼ぶ事の了承を得なかったのか?
怒った顔も可愛かった。
そんなアルベルトと同じ馬車に乗り込んだラウル達はニヤニヤとしていて、クラウドは始終嬉しそうにしていた。
これで……
御成婚に向けての執務に集中出来ると。
側近は兎に角忙しいのだ。
皇帝陛下や皇后陛下の側近達との打ち合わせが大変で。
何せ、世界中の王太子夫婦や大臣クラスが来国して来るのだから。
「 奥様! 奥様! 皇太子殿下がお越しになりました! あっ! お坊ちゃまも御一緒です! 」
扉を開けた執事が、アルベルトを見るや否や驚きながら声を上げた。
ラウルもいると告げて。
何時も厳格な彼にしては珍しく慌てているのは、何かあったのだとラウルは焦った。
皆で公爵邸の応接間に入って行くと。
青い顔をしていたローズがソファーから立ち上がった。
「 お袋!? 何かあったのか? 」
「 ラウル……殿下…… 」
ローズはアルベルトにカーテシーをする。
アルベルトが公爵邸に来るのは久し振りだ。
ローズの手にあった手紙をラウルに渡した。
それはレティの綺麗な筆跡で書かれていて。
手紙を読んだラウルは青ざめながら顔を上げた
「 レティは……今朝、サハルーン帝国に旅立った 」




