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3-③

『でもお前、これはマジのストーカーだからやめた方がいいと思うぜ』

『言うなよ。自覚しちゃうだろ』

『自覚しろや。んでやめろ』

 自覚せず、やめるつもりもなかった。

 図書館。夏。蝉。冷房はちゃんと効いていて、何が悲しくて夏休みの序盤も序盤から雁首揃えて宿題なんかを広げているのか。

 探しに来ていた。湊を。

 連絡先なんか知らない。住所なんかもっと知るわけがない。それでもできるだけ速やかにこれまでの出来事についての謝罪を申し上げたい。井原が取ったのは、夏休み中にいそうなところを探してみる、というごくごく平凡なものだった。これが野生のたぬきでも相手にするなら自由研究の材料にできるような微笑ましいものだったかもしれないが、同年代の人間を相手にすると途端に笑えない偏執的なものに変わる。少なくとも、計画を聞いた平尾は全然笑わなかったし、笑えねーわとメッセージを送ってきたし、心配してついてきた。

 午前十時三十分。

 駅から歩いて三分の真新しい図書館内の平均年齢は五十をオーバーしている。ほとんどが暇を持て余して年金を握りしめてそうな老人ばかりで、あとはちらほらと、井原と平尾と同様に参考書と問題集を広げてにらめっこしてる高校生らしき若手層。さっき平尾がどもっす、なんて頭を下げていたのを見れば、その若手も大体は三年生なのだろう。もしくは浪人生。

 湊どころか、一年生らしき姿も見当たらない。

 張り込みのアンパンも牛乳も持ち込み禁止のまま、一時間半が経過している。猛スピードで課題が終わっていく。この調子で夏休みのすべてを過ごすことができれば、『嘘』の科目さえ除けば学年総合一位だって狙えるんじゃないかと井原は思う。

 思っていると、目の前の問題集にまたぺらりとルーズリーフが被せられる。視線を上げると、その紙を持っているのは平尾。私語厳禁。そのルールがふたりの言葉から音を奪い、代わりに文字を流行らせた。

『何時までいんの?』

『見つかるまで』

『バカ』

『スーパーバカ』

『ウルトラバカ』

 三連バカ攻撃。実際、自分でもこれでいいのかと思うところはあったし、私語厳禁だったので井原はそのまま口を噤み、

『ここの閉館八時だけど』

 追撃。一日十一時間勉強。それは果たして健康的な高校二年生の生活と言えるだろうか。

『つーかこれ、毎日やんの』

 再追撃。死体を蹴ってるようなものだった。

 湊に謝りたいとは思う。すべてを説明して肩の重荷を下ろしたいと思う。そもそもこんな得体の知れない現象を抱えたままでいるのはしんどい。しかし、見込みのない張り込みの末に十六歳の夏休みを丸々無駄にするという選択肢を取れるのかといえば、ごくごく平凡にぞっとする。

 返答を、そっとルーズリーフに書き込む。

『五時まで』

『明日のことは明日考える』

 じとっとした目で平尾が井原を見る。井原はその視線に甘んじる。それを当然と受け止められるだけの理性は、まだ残っていた。

 ういーん、と音がする。少しだけ風が通る。井原は顔を上げる。平尾が振り向く。自動ドア。一瞬、勝手に開いたのかと思ったが、見る高さを間違えただけだった。想像していたよりもずいぶん低いところに、入ってきた人間の顔がある。

 子どもの一団だった。五、六人。小学校低学年くらいだろうか。身長は井原や平尾の腰よりちょっと上くらいがせいぜい。自分より年下の人間を見て自分にもあんな頃があったな、なんて考えるのは何も中年や老人だけの特権ではない。リュックサックに帽子。汗を気にする様子もなく走る姿。図書館に着いた瞬間とりあえずトイレに入ってデオドラントシートを使ったりした自分たちにはまるで残っていない腕白ぶりで、元気でいいなあ転ぶなよ、なんて思っていると、

「あ」

 転んだ。

 しかも顔面から。

 痛いだろうなあ、と思う。後ろの足が前の足を追い越すときに、綺麗に足首に引っかかったのを井原は見た。咄嗟に前に突き出した手がまるで床に触れなかったのも見た。一団の仲間たちはたった今あまりにも衝撃的な事態が発生してしまいました、という雰囲気で固まっている。さっきまでの夏の朝の空気はどこへやら、昼下がりのホラー映画みたいな空気になっている。

「え、」

 という音が聞こえてきたのを皮切りに、

「う……、うぇっ……」

 転んだ子どもは、啜り泣きを始めた。

 偉いな、と井原は思う。大泣きではない。周りの環境に気を遣っているかのようなしずしずとした泣きっぷりだった。それだけにより悲惨さが際立つ。楽しい一日だったろうに。楽しくなるはずの一日だったろうに。図書館の係の人があらあら、と近づいていく。平尾が顔をこちらに戻している。

「可哀想にな」

 な、と返してから、ふと思う。

 そういえば、今なら可哀想じゃなくすることもできるのだ。

 腰を浮かせてから、迷った。いやいいのか、と。これまでも何度か使ってはみた。けれどそれは実際に使えるかどうかを確かめるための必要最低限のものという側面が大きくて、いやでもよく考えると平尾のシャツから染みを落としたのとかは全然不必要なやつだったよなそうなると一回も二回も大して変わらないかおいおいそれって犯罪者の開き直りみたいじゃないか犯罪者ってなんだよ俺ってなんか悪いことしたか少なくとも盗み飲みはしたな盗み飲みしてかつ何らかの超能力みたいなのも盗んでるよな俺って悪いやつじゃんでもこれからやることって悪いことか元の持ち主の湊が見たらどう思う湊はどんな風に嘘を使ってたっけ、

 迷い終わって、立ち上がった。

 おい、と小さく平尾が言ったが、大丈夫、とだけ短く返して、泣いている子どものところへ近づく。図書館の人が困惑したように見てくるのも気にしないようにして、目の前で屈み込んで、

「いたいのいたいの、」

 いかにも痛そうに、血の滲んでいる顔の傷の上に、手をかざして、

「とんでっ、た!」

 手をどかしたら、傷跡はもうない。

 いないいないばあを初めて見た赤ん坊みたいな顔で、その子はきょとんとしていた。ちょっと寄り目になって、

「いたくない」

 そう言った。


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