3-②
井原にとっては不幸なことに、平尾にとっては幸いかつ安心することに、湊の所属するクラスは一年二組であると即座にわかり、その教室に残っていた下級生は、知らないけど帰ったんじゃないすか、と答えた。
平尾は井原の肩を叩き、
「よかったな、諦めろ」
「いや」
諦めろよ、と平尾が切実な声音で言うのを無視して、井原はずんずんと廊下を逆戻りしていく。
考えてみれば、当たり前のことだったのだ。
明日から夏休みなのだ。
何ならついさっき、すべての授業が終わった瞬間から夏休みなのだ。
常識で考えればいつまでもこんな生前小籠包を粗末に扱った人間が叩き落とされる地獄みたいなところに残っている必要はない。いっそバカンスだ。もうアロハシャツを着た状態で成田空港に辿り着いていたって何らおかしくはない。
しかし井原は、湊の常識外の行動に期待した。話したのはほんの数分に満たない時間だったが、それでも普通の人間とは違うだろうことははっきりわかっている。そうじゃなかったらこんなにどすどす廊下を歩く羽目になったりはしていない。
普通じゃないから、まだいるんじゃないか。
いるとしたら、あの図書準備室にいるんじゃないか。
そう思って意気揚々と謝罪するために現場に乗り込んだ。
のに、
「は、」
呆気に取られて、井原は口は『あ』の字に開く。そしてそのまま固まる。後ろからついてきていた平尾が、まさかいるのかいないでくれよという顔で、少し遅れて中の様子を覗き見る。
「なんだ、いないじゃん」
そんなわけがないと思った。
湊が中にいなかったことに対して、そう思ったわけじゃない。それは半々くらいの可能性だろうと思っていた。いてもおかしくないし、いなくても仕方のないことだろうと、そのくらいに思っていた。
でも、これは予想外だった。
考えていなかった。
西日が、ない。
熱を帯びた正午の光が、その光源を窓から覗けないような角度で、充満している。
ただそれだけ。
振り向いた。
太陽は、ふたつもなかった。
「……なんで……?」
「いやショック受けすぎだろ。湊さんだって四六時中学校にいねーわ」
平尾はもっともなことを言う。でもそこじゃない。振り返って図書室を見る。視線を戻して図書準備室を見る。太陽はふたつない。学校で教わってきたとおりの、何の変哲もない光景だった。
「ま、ちょうどよかっただろ。夏休みパーッと遊んで色々忘れようぜ」
「図書室は冬みたいに寒い」
霜が割れるような音が聞こえた。
確かめたくなったのだ。本当に自分の勘違いかも、妄想かもしれないと思ったら、つい。
つい、で済ませられる温度低下ではなかった。二の腕にぞわっと鳥肌が立つ。首が勝手に竦む。ぶるりと肩が震える。くしゃみが出る。漫画かよ、と思いながら、
「平尾、寒くね?」
どこかだよなんて返されたら立ち直れなかっただろうに、
「え? ああ、マジで寒いよな」
望みが繋がってしまって、
「さっきまでこんな寒かったか?」
「は? ……あれ、どうだったっけ」
拳をぐっと握り、
「そもそも夏って寒かったか?」
「いや、寒いのは夏じゃなくて図書室だから……」
「図書室って寒いか?」
「クーラーとか」
「入ってないぞ」
本当のことを言うと、ついさっきまではぬるま湯みたいな温度でクーラーがかかっていた。が、話をわかりやすくするために、たった今、なかったことにする。
「……あれ、なんかこれヤバいな」
平尾が前髪を掴むようにして考え込み始める。よく見る癖だ。わからない問題を解いているときによくやる。邪魔なら切ればいいのに、と見るたび思うが、短い前髪が似合うようなやつかと聞かれれば首を傾げてしまうので、口には出さない。
「なんか変だろ」
「ああ、うん」
「なんで夏なのに寒いんだとか、さっきまで暑かったとか、そういうの思うだろ?」
「……んん?」
納得いかない様子で平尾はさらに強く前髪を握り込む。もどかしそうな顔をしているが、もどかしいのは井原の方も同じで、
「あ」
思いついた。
「平尾にはわかるよ。俺が嘘吐いたこと」
ばちっ、と。
弾かれたように平尾の顔が変わる。
信じられないものを見るような目で井原を見る。やっぱりそうだよな、と井原は安心する。
自分は信じられないようなことになっているのだ。
「やべーだろ」
と言えば、
「やべーな」
と、平尾は答えた。




