第十五話 ゴブリンに襲われた女がパン屋に来た
扉の前に立っていたのは、ゴブリンの巣から救出した女冒険者だった。
「……あなた」
俺を見るなり、女の顔が強張った。あの日は血と泥にまみれ、外套に包まれて担架へ乗せられていた。今は身体を洗い、簡素な服を着ている。それでも頬は痩せ、目の下には濃い隈がある。二十代半ばくらいだろう。片手には小さな荷物袋しか持っていなかった。
「この前の……」
「覚えてたんですね」
「ああ」
忘れられるわけがない。
俺が日記を持っているせいで起きたのかもしれない出来事。その被害者だ。
「とりあえず入りな」
女将は事情も聞かず、女を店へ入れた。
奥から杖をついたセリアが出てくる。
「客か?」
女を見た瞬間、セリアの顔から笑いが消えた。
冒険者同士だから分かるのかもしれない。怪我の種類ではない。立ち方や視線や、誰かが後ろを通るたび身体を強張らせる様子で。
「座れよ」
セリアはそれだけ言った。
女は椅子へ座り、両手で膝を握った。
「名前は?」
女将が聞く。
「ミレアです」
「腹は?」
「……減ってません」
「そういう奴ほど食わないと倒れるんだよ」
女将は勝手にパンとスープを出した。
ミレアはしばらく手をつけなかったが、やがてパンを少しちぎって口へ入れた。その瞬間、目から涙が落ちた。
「……すみません」
「謝ることじゃない」
女将はそう言って厨房へ戻った。
俺は何を話せばいいのか分からなかった。
「今日は、どうしたんだ?」
聞くと、ミレアはしばらく黙った。
「お礼を言いに」
「俺、何もしてないぞ」
「来てくれました」
「間に合わなかった」
「それでも」
そこで言葉が切れた。
セリアが椅子を引いて座る。
「冒険者なんだろ?」
「……はい」
「パーティーは?」
ミレアの指が止まった。
「四人でした」
「だった?」
「二人死にました。一人は……今日、別れました」
妙な言い方だった。
「別れた?」
ミレアは唇を噛んだ。
「婚約者でした」
俺は何も言えなかった。
話は簡単だった。
ミレアのパーティーには婚約者がいた。ゴブリン襲撃では別の場所へ吹き飛ばされ、負傷したものの生き残った。王都へ戻ってから再会した。
そして今日、婚約を破棄された。
「……なんで」
聞いてから、聞かなければよかったと思った。
ミレアは笑った。
笑えていなかった。
「もう妻にはできないって」
セリアの顔が歪んだ。
「そいつ、今どこにいる?」
「セリア」
「聞いてるだけだ」
「殺しに行く顔してるぞ」
「行かねえよ。この脚じゃ追いつけない」
「脚治ったら行く気だろ」
ミレアが初めて少しだけ笑った。
すぐに消えた。
「私も、分かるんです。嫌なんだと思います。私を見るたび、あったことを思い出すから」
「分からなくていい」
セリアが低い声で言った。
「そいつが勝手に逃げただけだ」
「でも――」
「お前が悪い理由を探すな」
強かった。
セリア自身も五人の仲間を失い、自分だけ生き残った理由を探していた。
だから言えるのかもしれない。
俺は胸元の日記が熱くなるのを感じた。
「……今じゃないだろ」
二人に気づかれないよう、少し離れて開く。
『第二ヒロイン候補の人格情報を取得中。』
「最低だな、お前」
『ミレア。成人女性。冒険者。パーティー四名。死者二名。生存者一名との婚約関係、本日解消。』
「実況するな」
『既存事実を整理しています。』
『被害後、自責傾向あり。他者の加害・拒絶についても自身に理由を求める傾向を確認。』
俺はミレアを見た。
確かに、そうだった。
『セリアとの差別化成立。』
「人間を商品みたいに分類するな」
『セリア――外向的。攻撃的対処。怒りを外部へ向ける。』
『ミレア――内向的。自己責任化。怒りを自身へ向ける。』
嫌になるほど的確だった。
『ヒロイン属性の重複は低い。』
「だからヒロインにするなよ」
『再登場イベントの継続条件を検討します。』
嫌な予感がした。
「何する気だ」
『ミレアには現在、帰宅先がありますか?』
「俺に聞くな」
ちょうどそのとき、女将がミレアへ聞いた。
「それで、今夜はどこへ帰るんだい?」
ミレアが黙った。
「宿に……戻ろうと思ってました」
「思ってた?」
「荷物を引き取ってきました」
足元の小さな袋。
あれが全部らしい。
「長く治療院にいたので、宿代が払えなくなって。それに……他のお客さんから苦情が出たそうです」
「苦情?」
「夜に叫ぶから」
セリアが目を閉じた。
俺も何も言えなかった。
「だから追い出された?」
「はい」
「冒険者ギルドは?」
「共同宿舎を紹介されました。でも、男の人もいるので……」
言葉が止まる。
理由は十分だった。
女将がため息をついた。
「二階に空き部屋が一つある」
「女将」
俺は反射的に声を出した。
「何だい」
「いや、その……」
日記を開く。
『現在の状況から、パン屋での一時滞在が最も自然です。』
「やっぱりそう書くよな!」
「何を騒いでるんだい」
「こっちの話!」
ミレアが慌てて首を振る。
「そんな、迷惑です」
「迷惑かどうかはあたしが決める」
「でも」
「働けるようになったら手伝えばいい。今は飯食って寝な」
「……どうして」
「なんで一人置くたびに理由を説明しなきゃならないんだい」
女将は面倒そうに言った。
「行くところがないんだろ。それで十分だよ」
ミレアは俯いた。
また涙が落ちた。
今度は声を押し殺して泣いた。
*
その夜、俺は日記を開いた。
『第十五話 ゴブリンに襲われた女がパン屋に来た』
その下には、今日の出来事が整理されていた。
『再会イベント完了。』
『第二ヒロイン候補を生活拠点へ配置。』
「配置って言うな」
『人格情報を更新しました。』
『ミレア――自己評価低下。自責傾向。男性への警戒あり。婚約破棄により既存恋愛関係解消。現在、パン屋に一時滞在。』
俺は手を止めた。
「……婚約破棄まで、お前がやったのか?」
『不明瞭な質問です。』
「ミレアが婚約者に捨てられたのは、この連載のためか?」
『当該人物の人格および価値観から、被害後の婚姻継続確率は低下していました。』
「つまり?」
『既存人物が取り得る行動の範囲内です。』
「それを選んだ?」
『物語上の継続性が高い展開を採用しました。』
「……そうかよ」
悪意はない。
婚約者の人格を別人にしたわけでもない。
元々そういう人間だった。
別れる可能性があった。
その中から、日記は別れる未来を選んだ。
なぜなら、その方がミレアが一人になる。
主人公のところへ来られる。
ヒロインにできる。
「人の人生を、可能性の中から一番アクセス取れそうな方に倒すなよ」
『人気最適化の範囲内です。』
「それが最悪だって言ってるんだよ」
文字が続いた。
『既存ヒロイン二名の比較。』
『セリア――主人公と共闘可能。回復後は能動的に物語へ参加可能。』
『ミレア――現時点では戦闘復帰困難。心理的回復および生活再建イベントが必要。』
「必要って言うな」
『両者を同一拠点へ配置したことで、相互作用が期待できます。』
「ハーレム物にするためだろ」
『肯定。』
「即答するなよ!」
『なお、現時点では両名とも主人公への恋愛感情は成立していません。』
「当たり前だ!」
『ストーリー上の整合性を優先し、段階的に形成します。』
「形成するな!」
ページの下へ、さらに文章が現れた。
『この形なら、第二ヒロイン候補を単なる「ゴブリン被害者」として消費せず、婚約破棄、住居喪失、自己責任化という追加状況を通じてセリアとは異なる人格を明確化できます。また、本人の意思とは無関係に性的嗜好を後付けするより、共同生活の中で安全感、信頼、依存、恋愛感情の順に変化させた方が既存人格との整合性が高く、長期連載におけるヒロインとしても利用しやすくなります。』
「利用しやすいって書くなよ……」
『さらに、二名の成人女性を同一拠点へ置いたことでハーレム構造の最低条件を満たしました。』
「最低条件ってなんだよ!」
『ただし、人気作傾向を踏まえると二名では不足する可能性があります。』
「絶対増やす気だ!」
『次話のアクセス推移を確認後、判断します。』
「だからアクセスで女増やすな!」
そのとき、隣の部屋から物音がした。
続いて、何かが床へ落ちる音。
「……またか」
廊下へ出る。
セリアも部屋から顔を出した。
「ミレアの部屋だな」
「ああ」
二人で扉の前まで行く。
中から、押し殺した泣き声が聞こえた。
セリアが俺を見る。
「私は入る。ルークは待ってろ」
「なんで?」
「今は男の顔なんか見たくないかもしれない」
俺は黙った。
「……分かった」
セリアだけが部屋へ入った。
俺は廊下に座った。
しばらくすると泣き声が少し小さくなった。
日記を開く。
『女性キャラクター同士の関係構築を確認。』
「これまで人気要素にするのかよ」
『ハーレム作品ではヒロイン間関係も継続率に影響します。』
「……」
ページに新しい題名が浮かんだ。
『第十六話 二人の女冒険者』
その下に、また俺が書いていない補足が続いた。
『この形なら、次話では主人公との恋愛進展を急がず、セリアとミレアの対照的な被害処理を描くことで両者の人格を掘り下げられます。そのうえで、アクセス数が不足した場合には、新規ヒロインまたは成人向けイベントを投入するのが自然です。』
「最後の一文さえなければ、まともなのにな……」
日記は何も答えなかった。
たぶん、それも分析結果としては正しいのだろう。




