第百二十二話 戸籍官は生きているのに存在しません
次の日、エルシアはパン屋へ来なかった。別に毎日来る客じゃない。昨日は母親の誕生日だったし、今日は普通に戸籍局で仕事をしている。そう思っていた。昼過ぎまでは。
「ルーク、助けて」
店の扉を開けて入ってきたエルシアは、昨日までとは全然違う顔をしていた。
「どうした?」
「私がいない」
「……いるけど」
「そうじゃない!」
抱えていた書類の束をカウンターへ叩きつける。
「私が、どこにもいないの!」
*
異変が起きたのは朝だった。いつも通り戸籍局へ出勤すると、入口で止められた。
「関係者以外は入れません」
「何言ってるの?」
「ご用件は?」
「仕事だけど」
「……こちらで?」
「そうよ」
「お名前は?」
「エルシア」
止めた職員は、昨日まで一緒に働いていた同僚だった。
「その名前の職員は在籍していません」
「は?」
冗談だと思った。けれど誰も笑わなかった。上司を呼んでも、同じ机で働いていた職員へ聞いても、新人へ聞いても、誰もエルシアを知らなかった。
「だから自分で調べたの」
エルシアが書類を開く。
「職員名簿。ない。戸籍。ない。納税記録。ない。住民登録。ない。雇用記録。給与支払い記録。学校の記録。全部ない」
一枚ずつ俺の前へ置いていき、最後の紙で手が止まった。
「出生届も、ない」
「……最初から?」
「そう」
エルシアが笑った。全然、笑えていなかった。
「私、生まれてないことになってる」
「家族は?」
そう聞いた瞬間、エルシアが黙った。
「……行った。昨日、母の誕生日だったから」
昨日、本人から聞いた。花を買って帰る。父親が料理する。三人で夕食を食べる。そう話していた。
「母が出た。私を見て、どちら様ですかって。父も。二人とも、私を知らなかった。昨日、私があげた花は家にあった。母に誰からもらったのって聞いたら、覚えてないって」
俺は何も言えなかった。
*
おかしくなっていたのは家族だけじゃなかった。エルシアが借りている部屋へ行くと、大家は彼女を知らなかった。
「その部屋は空室です」
鍵は開いた。中にはエルシアの服も靴も本も食器もある。それなのに帳簿には借主がいない。
「じゃあ、この荷物は?」
「前の住人が置いていったんでしょう」
「私のよ!」
「あなたのものだという証明は?」
ない。何もない。エルシアがエルシアだったと証明するものだけが、綺麗に消えている。
「昨日、俺と話したことは?」
「覚えてる」
「何話した?」
「セリナが五人来た。昨日申請した個体がヤリアだった。母の誕生日だから早く帰る。父が料理すると危険」
全部合っていた。
「俺は覚えてる」
「……本当?」
「うん」
「女将!」
「何だい?」
奥から女将が顔を出す。
「この人、知ってる?」
「昨日も来た役所の子だろ?」
その瞬間、エルシアの顔が崩れた。
「……知ってる」
「ああ?」
「私を知ってる人がいる……」
カウンターの前で、声も出さずに泣いた。
*
俺と女将は覚えていた。なぜかレナもエルシアを覚えていた。
「戸籍局のエルシアさん?」
「そう!」
「私の申請を担当してくれています」
ところが戸籍局へ行けば、記録には何も残っていない。レナとの面談記録にも、担当者名だけが抜けていた。
「ここ。私が書いた字」
エルシアが指差す。筆跡は残っている。文章も残っている。それなのに署名欄だけが空白になっていた。
エルシアという名前だけが、世界から抜け落ちている。
*
その夜、日記帳を開くと、エルシアについての記載が始まっていた。
『第二事例。エルシア。』
『戸籍局に保管されていた本人性判定用魔術記録と、セリナ系情報生命体の複数登録情報が干渉。個人識別情報の整合処理が発生しました。』
「整合……」
『一人の人物に複数の名前。複数の人物に共有される記憶。同一記憶を持つ複数個体。人間ではないが人間として登録された人物。人間由来だが単一個体として定義できない人物。既存戸籍制度では矛盾が蓄積していました。』
その処理に、エルシアが巻き込まれた。
『整合処理の基準点として担当者エルシアの個人情報が使用されました。』
『結果。』
『エルシアを示す社会情報が削除されました。』
「戻せよ……」
日記は止まらない。俺の言葉を聞いているわけじゃない。ただ、そのまま処理結果を書き続ける。
『因果整合性確認。』
『現在の社会記録上、エルシアは出生していません。』
『既存記録への単純復元――不可。』
『出生していない人物が成人まで生活した記録を追加した場合、現在までに蓄積された戸籍、家族構成、雇用、住居、納税等の記録と矛盾が発生します。』
「本人がいるだろ」
当然、返事はない。
『本人――存在。』
『社会的存在――不成立。』
そこまで読んで、俺は日記帳を閉じた。
*
翌日、俺はエルシアを役所へ連れていった。レナも一緒だった。
「この人はエルシアです」
俺が言うと、役人は困った顔をした。
「それを証明するものは?」
「俺が知ってる」
「証人だけでは戸籍は作れません」
「レナも知ってる」
「人数の問題ではありません」
エルシア本人が目の前に座っている。
「私はここで働いていました」
「記録がありません」
「この書類は私が作りました」
「作成者欄が空白です」
「この字は私の字です!」
「筆跡だけでは本人証明になりません」
「父と母がいる!」
「戸籍上、お二人に娘はいません」
「私が娘なの!」
役人は黙った。エルシアも黙った。
彼女は戸籍官だった。だからこそ分かってしまう。この役人が、制度上は間違ったことを言っていない。
「じゃあ」
レナが口を開いた。
「新しく登録すればいい」
「新規登録?」
「はい」
「成人が、出生記録なしで?」
「本人がここにいるでしょう」
「それでは本人性をどう確認するんです?」
「本人の記憶」
「記憶だけでは」
「私だって、人間かどうか判定できなかった」
レナが自分の胸に手を置く。
「それでも、記憶と意思と継続した人間関係があるから、私は私だと認められた。エルシアさんも同じです。身体はある。記憶もある。本人の意思もある。昨日までの関係を覚えている人もいる」
レナが役人を見る。
「それで足りないなら、何があれば人間なんですか?」
*
その夜、日記帳には整理された結果が並んでいた。
『エルシア。』
『身体損傷――なし。』
『人格損傷――なし。』
『記憶損傷――なし。』
『技能損傷――なし。』
『本人の自己認識――維持。』
『社会記録――全損。』
『家族からの認識――消失。』
『職場からの認識――消失。』
『財産権――消失。』
『居住権――消失。』
『職歴――消失。』
『出生記録――消失。』
身体は何も壊れていない。それなのに昨日まで持っていた人生だけが、全部なくなった。
『比較。』
『アーデル――本人が三名存在し、一人分の社会的地位を共有不能。』
『エルシア――本人が一名存在するが、本人に対応する社会的地位が存在しない。』
『本人性に関する異なる制度破綻として有効。』
「有効じゃない……」
もちろん、それに対する記載はない。日記は、そのまま次の分析へ進んでいた。
『新規制度案の発生を確認。』
『出生記録、既存戸籍、種族判定を本人性の必須条件から除外する案。』
『本人の自己認識。継続記憶。第三者との関係記憶。意思表示能力。以上を組み合わせた法的人格認定方式へ拡張可能。』
また世界が変わる。
エルシア一人を救うには必要だ。でも、それを認めれば、戸籍がなくても、人間じゃなくても、出生していなくても、自分を自分だと示せる存在なら権利を持てる。
『適用候補。』
『セリナ系情報生命体。』
『アーデル複製個体。』
『機械人形。』
『肉鎧個体。』
『リサ系スライム。』
『その他、出生を伴わない新規人格存在。』
「……またか」
エルシア一人を救おうとすると、大量の新しい存在まで社会へ入ってくる。
『悲劇評価。』
『身体的損壊を使用せず、人生全体の喪失が成立しました。』
『長期展開適性――高。』
『制度波及性――極高。』
最後に、次の名前が書かれた。
『次事例。ヴェラ。』
新人類を怖がっていた。それでも法律に従って仕事をしていた女。昨日、俺の店で固いパンを買っていた。
俺は、次に何が起きるかもう分かってしまった。
たぶん日記は、ヴェラを一番なりたくないものにする。




