一年の歳月が流れ・・・(2)
翠の両親も、手をしっかり合わせながら昔を振り返る。
彼女は若干内気なところがあったが、好きになったものに対する熱は強かった。
何年経っても家族と一緒にゲームで楽しんだり、時にはゲームが発端で喧嘩をする事があっても、
ゲームが嫌いになる事はなかった。
そして、例えゲームの登場人物だったとしても、キャラに感情移入する事も多かった。
ゲームキャラが悲しい思いをすれば、翠も悲しむ。
ゲームからが苦しい思いをすれば、翠も歯を食いしばる。
ゲームキャラが感動した時には、翠も涙を流す。
そんな純粋で、素直な子だった。
だからこそ彼女の両親も、いつまでも泣いてはいられなかった。
何故なら2人は娘の性格をよく知っている。
自分が死んだことを、いつまでも悲しんでいたら、死んだ翠も浮かばれない。
それは、翠に限った話ではないのだが、未だに亡くなった子の死を受け入れられず、心を病んでし
まった遺族も少なからずいる。
だがこれは、決して『心の強さ・弱さ』の問題ではない。
誰だって、大切な人を突然失えば、明日が見えなくなるくらい絶望する。
それを茶化したり、無理やり励まそうとするのは、もってのほかだ。
傷ついた心を直せる『特効薬』があるわけでもない、心の傷を治すには、ひたすら時間をかけるし
かない。
それに、心の傷は完全には治らない。様々なことがきっかけで、また傷口が開いてしまう事もある。
大切な人を失った遺族のショックも大きいが、彼らが通っていた高校に通い続けている、在校生の
ショックも大きい。
恒例行事だった林間学校は中止となり、『修学旅行』すら危ぶまれた。
事件をきっかけに、『バス』に乗れなくなってしまった生徒も多数。
学校では『専門家』を呼び、在校生の心の傷に寄り添った。
そして、心に傷を負ったのは、毎年林間学校へ向かう生徒を見送る校長先生や教頭先生も同じ。
毎年、林間学校や修学旅行に行く生徒たちを見送るのが当たり前だった。
だが、見送った生徒が、もう帰ってこない悲しみは、人生において一生残る。
大人も辛ければ、子供だって辛いのだ。
だが大人は、ただ悲しんでばかりではいけない。
事故(事件?)をきっかけに、毎年使われていた山岳の道路は、拡張工事が始まっている。
そして、今回の事故を後世にも伝え、無事に学校や家に帰ってこられる喜びを実感してもらおう
と、慰霊碑が建てることに。
これには賛否両論あったのだが、やはり本来の目的である、『後世に残しておく』という事は、生きている人々の務め。
この事件は、学校の歴史においても、『黒歴史』として残るかもしれない。
それでも、亡くなった生徒を教訓にして、無事に生活できる喜びを、これからこの学校に通う生徒にも知ってもらいたい。
そんな遺族と在校生の気持ちを、慰霊碑として残すのだ。
その為に、教職員だけではなく、在校生も大いに貢献した。
事故に遭った全員の名前が彫られた石碑を建設する為、在校生が草むしり等の環境整備を施し、在
校生も費用も一部寄付した。
その結果、当初の計画より立派な石碑が校内に建てられる事に。
また、関係者のみならず、県外の学校からも寄付が寄せられた。
大きな事件だった事もあり、国内だけではなく、海外でもニュースに取り上げられた。
外国と比べると、比較的安全で安心なこの日本でも、事故は起こってしまう。
その事故が、自分たちに落ち度なら、ここまで大事にならなかった。
この大惨事で影響を受けたのは、学校界隈だけではない。
バス業界やバイク業界の重鎮も、慰霊碑建設に関わり、一周忌にも参加している。
この件に、バスやバイクは何の関係もない。
ただ関係者が使っていただけの、いわば『背景の一部』
一番の原因は、バイクを運転していた若者たちの筈。
だが、一時期どこからともなく現れたクレームに悩まされた人は数知れず。
その内容も、一見すると『ごもっとも』なのだが、よく考えれば、それは遺族や関係者を煽るよう
な言葉の数々。
怒りを通り越して、呆れてしまう。
無関係である事をいいことに、有る事無い事ギャアギャア騒ぎ立てられ、『別の無関係者』の精神
を追い詰める。
そこに、『正義』なんかがあるわけない。
「子供の命を大勢預かっている自覚があるんですか?!」
「間接的に子供たちを大勢死なせたんですよ!!」
「これ以上人を殺すような商品の製造や販売はしないでください!!」
会社にあれこれと苦情を言っていた人々も、亡くなった生徒たちの墓に、手を合わせない。
ただ『観客席』から、マウンドに立っている選手にブーイングをしているだけに過ぎない。
選手の苦しみもプレッシャーも理解しない人は、サポーターとは言わない。
それは単なる『野次馬』か『傍観者』である。
しかし、そんな被害者家族が知らないうちに、話がどんどん大袈裟になり、話がどんどん脱線。
だからこそ、被害者家族は頻繁に、墓に向かって手を合わせているのだ。
本当に大切なのは、犠牲者を弔う『気持ち』 忘れない『気持ち』
『気持ち』を『形』として残し、後世に繋いでいく。
メディアも気持ちを形にできる力を持っているが、やはり遺族の思いに勝るものはない。
これから先、自分たちと同じような悲劇を起こさない為、巻き込ませない為。
そんな切なくも、優しい気持ちが束ねられるのが、今日。
そして、何年先も、何十年先も、手を合わせてくれる人がいるのを、墓たちは願っていた。