マダムの囁きと蜜の罠
セント・ジュードの騒乱から数日後、ロイスたちは街の最深部にある、かつて劇場だった廃墟でマダム・ヴェイルと落ち合った。マダムは、分厚い羽扇子を揺らしながら、妖艶な笑みを浮かべて彼らを迎える。
「あら、アッシュウォーカー家の皆さん。セント・ジュードでのパフォーマンスは、なかなかに刺激的でしたわ」
マダムは情報を対価にする商売人であり、同時にこの世界の裏側を知り尽くした演出家でもある。彼女は、ロイスたちが求めていた「灰の街」への手がかりを、蜜を含んだ言葉で差し出した。
「掃除屋の元締めが、何と、あの閉ざされた『灰の街』と定期的に通信を行っているのです。信じられますか? 誰も近づけないはずの灰の檻から、誰かが密かに糸を操っているという事実を」
マダムの言葉に、ロイスは目を輝かせた。世界の歪み、隠蔽された真実、それこそが彼女が最も渇望するものだ。しかし、ジェミニは警戒を解かない。マダムが差し出す情報は、常に誰かを不幸にしたり、誰かの欲望を煽ったりする罠が仕掛けられていることを知っているからだ。
「マダム、その通信の目的は何だ?」
ジェミニの問いに、マダムは小さく溜息をつき、扇子でロイスの鼻先を軽く叩いた。
「あら、野暮なことを聞くのね。彼らは灰の街から『何か』を運び出し、この世界で新たな秩序を作ろうとしているの。通信は、そのための段取りに過ぎないわ。ねえ、この情報、興味あるでしょう?」
マダムの囁きは、ロイスたちの心を激しく揺さぶる。掃除屋の元締めが何者なのか、灰の街で一体何が起きているのか。その真相に触れることは、彼らがこれまで追い求めてきた「過去の呪縛」を解く鍵であると同時に、戻ることのできない深淵への入り口でもあった。
マダムは最後に、ロイスの手をそっと握り、耳元で告げた。「灰の街への道は、既に用意してあるわ。ただし、そこは死者の国。戻れる保証はないけれど、あなたたちなら面白い景色を見せてくれるはずよ」
マダムはロイスから離れ扉へと向かい、一度こちらを振り向いた。
「それと、船の中に餞別を置いておいたわ。きっと気に入ってくれると思う。それじゃあ、三人と一匹の探偵団に幸運があらんことを」
彼女の瞳には、善悪を超えた好奇心と、ロイスたちの生き様を愉悦として愛でる趣味の悪い審美眼が宿っていた。ロイスたちは、マダムが仕掛けた蜜の罠と知りながらも、その手を取るしかなかった。
セント・ジュードの港の端、廃棄された貨物船が、ロイスたちの手によって不気味なほどに改造されていた。船体には灰による腐食を防ぐための特殊なコーティングが施され、エンジンには、ベルが自身の設計図から再現した未知の動力回路が組み込まれている。
「これでしたら、灰の海を越えられます。計算上は、ですが……」
ベルが静かに告げると、ロイスは操舵室で楽しげに鼻歌を歌い始めた。ジェミニは、船の甲板で最後の点検を済ませ、灰空を見上げる。灰が空から静かに降り注ぎ、すべてを薄く塗りつぶしていく。まるで、世界の終わりを塗り絵のように進めていくような光景だ。
ススは船の舳先に立ち、鼻をひくつかせている。彼にとって、灰の海は嘘と死の臭いが漂う行きたくもない場所だが、今のロイスたちにとって、それは「真実」へと辿り着くための唯一の航路であった。
(こいつらを放ってトンズラなんて俺の美学に反するってもんだぜ……、あーあ、口癖がうつっちまった。ふっ、はははははは)
ススは上機嫌で喉を鳴らし続けた。
船が静かに港を離れる。セント・ジュードの街灯が遠ざかり、一面に広がる灰色の海へと船首を向ける。ロイスたちは、かつて令嬢であった自分、騎士であった自分、ガラクタであった自分を、この暗い海に置き去りにしてきた。今、船に乗っているのは、死者として生まれ変わり、世界そのものを解体しようとする修理工たちだけだ。
「ベル、出力は安定しているか?」
「はい、ロイス様。灰の濃度が上がっています。船体へのダメージを予測しつつ、最適ルートを保持します」
船が灰の海を切り裂き、激しく波が上がる。空から降り注ぐ灰が、まるで物理的な障壁のように船体を叩きつける。視界は真っ白に染まり、方向感覚さえも奪われていく。それでも、彼らは止まらない。自分たちを定義し直すために、この国の忌避すべき地である「灰の街」へ。
マダムが餞別として用意してくれたのは服装一式だった。装いを元に戻したロイスは操舵桿を力強く握りしめた。彼女の目には、灰の向こう側で待ち受ける、この国の歪みの中心が見えているようだった。元王立近衛騎士時代の服装に身を包んだジェミニは静かに剣を鞘に戻し、迫り来る未知の脅威に備える。ベルの瞳は演算データで満たされ、船を守り抜くという意志だけがその銀色を輝かせていた。
船は灰の海を越え、深い霧の向こうへと消えていく。彼らが見つけた先には、一体どんな真実が待っているのだろうか。それが救いなのか、それとも終わりなのか。答えを知る者はいないが、彼らは迷いなく突き進む。自分たちの手で、この世界の嘘を解体し、真実を記録するために。




