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第二十話 方家堡編 其ノ八 拒絶

血池の暗紅のにじむ光は、けっして「照明」ではない。

それはむしろ、湿った呼吸に近い——腔壁の蠢きに合わせて満ち引きし、冤魂の哭き声に合わせて震え、血がひとたび波立つたびに、人の神識を内側へ引きずり込もうとする。

鼻を刺す生臭い甘さ、鉄錆、腐肉、熱で煮崩れたものが混ざった匂いは、もはや「匂い」ではなく侵入だ。吸い込めば肺に、舌の根に、頭蓋の内側に貼りつき、こちらまでこの池の一部に変えてしまうかのように。

阿虫は結界の中に立ったまま、額の汗が眉骨を伝って落ち、鼻先に乗ったところで熱気に蒸発していく。

息は悟られぬようさらに浅く抑えた。呼吸が重くなれば、恐怖まで吸い込んでしまいそうだったからだ。

剣蘭と菖蒲は左右に寄り、結界の金光は紙のように薄い。外では腐魔煞が斬られては組み直され、無意識の潮のように疲れを知らず迫る。冤魂の哭き声は結界の縁に貼りついて回り、爪でガラスを引っ掻くように脳髄を痺れさせた。

そして血のきざはしの向こう——

紅髪の魔族の女は、すでに血階の最下段まで降りてきていた。

彼女がそこに立つだけで、周囲の血は命令を受けたかのように、より規則正しく、より「拍」を刻むように波立つ。甲冑は着けていない。誇張された魔紋の装飾もない。

それなのに、どんな鎧よりも重い。

その重さは威圧ではなく「主宰」の感覚だった。足元が地ではなく胃壁であると急に理解してしまうような——敵陣へ踏み込んだのではなく、誰かの身体の内へ踏み込んだのだと悟らされるような。

彼女は小さく首を傾げ、視線を阿虫へ落とした。

それは「敵」を見る目ではなく、「素材」を見定める目に近い。

「……なるほど。廃材じゃない、ってわけね」

その一言で冤魂の哭き声が一瞬、押さえ込まれたように途切れ、血のうねりも半拍だけ軽くなる。声は大きくないのに、神識へ直接落ちてくる——冷たい針が耳の奥から刺さり込むように。

口元がわずかに弧を描く。笑みとも嘲りともつかない。

「御魂師?」と、彼女は重ねて問うた。

阿虫の指先が護符の上で、ほとんど分からないほど強くなる。

退かない。目も逸らさない。いつもの「淡さ」で、鼓動だけを胸腔に押し込めたまま。

「……お前は誰だ」

阿虫が問う。

紅髪の女は、可笑しな質問でも聞いたように短く笑った。

血腥い甘さの混じった、短い笑い。

彼女は手を上げ、指先を軽く捻る。匂いを嗅ぐ仕草のように。

次の瞬間、瞳の奥に冷光が走った。血面を裂く刃のように。

「……殷翦璃いん・せんりの気が、途切れてる」

予想していた事実を確認するだけの声。悲しみはない。あるのは淡い嫌悪。

そして彼女は、舞台の口上のように顎をわずかに上げ、ゆっくりと言い放った。

「十二魔将の一。」

「地蝠星。」

「血蝙蝠——朱緋魘シュヒエン。」

名を告げた瞬間、血池が応えるように波立ち、腔壁の蠢きさえ速くなる。環境の反応ではない。「臣下の服従」そのものだった。

朱緋魘の視線は三人の結界を撫で、最後に阿虫へ戻る。まるでこの芝居で言葉を交わす価値があるのは彼だけだと言わんばかりに。

「噬魂陣。」

平坦な声音で問う。

「方家堡の噬魂陣が壊れ、運転役の殷翦璃も消えた——やったのは、お前たち?」

阿虫は付き合う気がない。喉を低く落とし、短く返す。

「……そうだが。だから何だ」

朱緋魘は小さく「ふうん」と頷く。理の当然を聞いたように。

表情は変わらない。ただ口元の弧が、ほんの少しだけ深くなった。最初からそうなると分かっていた——そう言いたげに。

「殷翦璃……」

その名を、ほとんど嘲るように舌先で転がす。

「自分の愚かさの代償を払っただけ。そのくせ——自分の問題で、魔族の計画に取り返しのつかない損失を出した」

間を置き、瞳に嫌悪がよぎる。

「しかも滑稽なのは……」

耳元で囁くほど軽いのに、刃より鋭い。

「ここまで落ちたのは、“人間が好きだったから”よ」

剣蘭の拳が、瞬間的に白くなるほど握り締まった。胃の底にはまだ吐き気が残る。だがその瞬間、それを押しのけたのは火だった。

「黙れ」

震えを押し殺した声。

「彼女には——彼女には、まだ少しでも“人の心”があった。お前みたいな——」

朱緋魘はそこでようやく、剣蘭へ視線を移す。

血面に浮かぶ影のように冷たく、粘つき、頭皮を這う。

「へえ?」

初めて剣蘭を見たみたいに。

「庇うの?」

剣蘭は歯を食いしばる。

「やったことは……私も肯定しない。けど、お前に侮辱する権利がどこにある! 彼女は少なくとも——少なくとも取って遊んでたわけじゃない!」

朱緋魘は笑った。

「愛は、そりゃ必要よ」

羽根みたいに軽い口調。けれど奥で刃が鳴る。

「愛がなければ、行動なんて起きない」

剣蘭が一瞬、息を詰める。

朱緋魘の眼底に、血の温度のようなごく淡い感情が浮いた。だがそれはすぐ、もっと深い冷えに覆われる。

「でも殷翦璃は、そこが間違い」

首をわずかに傾げ、最も単純な道理でも語るように。

「愛した相手が——人間だった」

指先が小さく空を点じる。

「人族と魔族は、もともと死敵」

朱緋魘は言う。

「その上、あんたたち人間は内側でさえ互いに足を引っ張り合う。あんたたちの“仁義”なんて、綺麗な皮を一枚被せただけよ」

「お前は何も分かって——」剣蘭が言いかける。

「分かってない?」

朱緋魘は反復し、からかうように笑う。その視線は剣蘭に長く留まる。何か懐かしい匂いを嗅いだように。

「……あんた」

笑みがさらに深まる。

「私に似てる」

剣蘭は眉をひそめる。

「……何?」

朱緋魘の声が、毒のようにゆっくり滲む。

「愛に執着してる。その顔だ」

剣蘭の背筋がひやりとした。

朱緋魘は手を伸ばす。空気の中の見えない糸を掴むように。

「人間は私が言うほど卑しいものじゃない、って言うなら——」

「証明してみせなさい」

瞳が細くなる。獲物へ飛びかかることを決めた蝙蝠の目だ。

「……今、ここで」

次の瞬間、結界の金光が裂け散った。

ぶつかって壊れたのではない。押し潰されたのでもない。指先で紙を弾くみたいに——「ぱん」と、あっさり破れた。

阿虫の胸が沈む。

朱緋魘はただ指を弾いただけ。

灰を払うより軽い動きなのに、空気の中に極細い「ぷつん」という音がした。泡膜が裂けるように。阿虫が苦心して保っていた結界は紙のように砕け、護符の金光は一斉に沈む。符紙の縁は焦げ、くるりと巻き始めた。

剣蘭と菖蒲が反応する間もなく、血池の壁と地面が同時に膨れ上がる。

「ぐるり——」

暗紅の腔壁が筋肉みたいに収縮し、次の瞬間、二条の血鞭が壁の内側から突き出た。湿った熱と血の気を帯び、二匹の生き蛇のように一瞬で剣蘭と菖蒲の腰と腕へ絡みつく。

剣蘭は腕を上げて振りほどこうとするが、血鞭は油のように滑り、力を掛けた瞬間にすべて逃げる。踏ん張ろうとした刹那、血鞭がぐっと締まった。

「——っ!」

剣蘭は地面から引き剥がされるように宙へ吊られ、靴底が腸道のような床を掻き、粘つく痕を引いた。

菖蒲はさらに悪い。冤魂の哭き声で神識が張り詰めたところへ、血鞭が絡む感触が直接“神識”を締める。視界が一瞬、暗転した。崩れる寸前へ引きずり込まれる。

歯を食いしばり、飛刀で血鞭を切ろうとする。だが刃を当てた瞬間、血鞭の「粘り」に飲まれた。刃が肉に沈み、抜けない。

二条の血鞭は左右の腔壁へと引き、二人を吊り下げる。

その真下——

血面ではない。

そこにあったのは「消化池」だった。

暗紅の液体は血よりも粘り、腐よりも熱い。半ば溶けた四肢と組織がぐつぐつと回り、泡が上がっては弾け、弾けるたびに鼻を刺す蒸気が跳ねる。その蒸気は腐蝕する唾液みたいで、肌が突っ張るほどに焼けた。

剣蘭は下を見た瞬間、胃が再びひっくり返る。喉の奥が酸っぱくなる。

菖蒲の顔色は完全に抜けた。あの池には肉だけじゃない。魂——搾り滓になった魂が、灰のように漂っているのが分かる。

死が、手を伸ばせば触れるほど近い。

朱緋魘はそこで初めて阿虫へ目を向けた。

つま先で軽く地を点じると、血池のうねりがさらに「整う」。舞台の照明を阿虫に当て直すみたいに。

「一分あげる」朱緋魘は言った。

阿虫の目は動かない。

「……一分で何をしろと」

「考えなさい」

朱緋魘は淡々と返す。指を一本立てる。

「一分後、二人を落とす」

剣蘭と菖蒲の間へ視線がすっと滑る。品定めのように。

「助けられるのは一人だけ。妙な真似はしないことね。私はいつでも二人まとめて殺せる」

阿虫は短く沈黙した。

喉仏が動く。苦いものを飲み込んだように。

それから顔を上げる。表情は依然として淡い。

「……こいつらとは別に親しくない。好きにしろ。俺に関係あるか」

剣蘭の目が見開かれた。

菖蒲の呼吸が詰まる。冷水を浴びせられたみたいに。

二人とも、阿虫が口では冷たく振る舞う男だと知っている。だがこんな場で、ここまで言い切るとは思わなかった。剣蘭は胸の奥を刺された錯覚すら覚える——肉の痛みではなく、心の芯がぎゅっと縮む痛み。

けれど朱緋魘は笑った。

面白い冗談を聞いたみたいに。

「上手に隠すじゃない」

朱緋魘の声は軽い。

「でもね——私の前じゃ意味がないのよ」

一歩、近づく。血池の熱が彼女に触れようとして、触れられないみたいに避ける。

「阿虫、だったかしら」

名を呼ぶ声が、耳元で歯を立てるようにくっきり響く。

「あんたは“見殺し”ができない」

阿虫の眼差しが、ほんのわずか沈む。

朱緋魘は続ける。侮蔑を含んだ優しさで。

「言い訳で自分を覆う。助けたいのを“面倒”にして、気にかけてるのを“どうでもいい”にする——それがあんたの本質」

阿虫の指先が強張る。

刺された。

そして刺された刹那、最も危険なのは羞恥じゃない——動揺だ。

阿虫は確かに揺れた。

朱緋魘が当てたからじゃない。

当てられたことで、それを利用されると分かってしまったからだ。

阿虫の視線が剣蘭と菖蒲へ走る。

二人は腔壁に吊られ、血鞭が締め上げて呼吸が震える。下では消化池が「ごぼ、ごぼ」と泡を吹き、いつでも呑み込める口のように待っている。

一人を救い、もう一人を捨てる。

この選択は毒だ。救うかどうかを問うのではない。「どんな理由で」もう一人を捨てるかを問う拷問だから。

阿虫の心臓が胸の内で重く跳ねた。

二人とも救う方法が、ひとつだけあることは分かっている。

だがその代償は大きい。

しかも今の自分に、それをやり切れる確信がない。

剣蘭の内側は、じわじわ押し潰されていた。

尸煞も、殺陣も見てきた。あの恐怖は「外側」にある。敵が見える。拳が振れる。反撃できる。

だがここは違う。恐怖が「内側」から来る。

足元は地ではなく肉。匂いは血ではなく腐。聞こえるのは敵の咆哮ではなく冤魂の哭き声。

この空間が「消化」し、「排除」しようとしているのを肌で感じる。生きていること自体が罪だと言わんばかりに。

剣蘭は気を回そうとした。

神我心意流の構えを取り、もう一度“飛龍式”で血鞭を断ち切ろうとする。速度で切り裂けるはずだ。

——だが、できない。

神我心意流は感情を力に変える拳。飛龍式に必要なのは、心意を刃にする意志、「退かない」という核だ。

けれど今、胸腔を満たしているのは恐怖だった。恐怖が心臓を掴み、気を上げたい場所へ上げさせない。足がふらつき、手が震え、拳を握ることすら難しい。

剣蘭は初めてはっきり理解した。

死は、こんなにも近いのだ。

敵に斬られて死ぬのではなく、環境に殺される。廃材として消化池へ投げ込まれ、かき混ぜられて終わる。

菖蒲はもっと苦しい。

神識が鋭いぶん冤魂の哭き声は絶え間ない精神攻撃になる。吊られてからは、哭き声が四方八方から貼りつき、層になって頭へ潜り込む。

菖蒲は歯を食いしばり、袖の内に隠した小刀へ指を伸ばした。

それは最後の癖だ。

北王府の者は幼いころから学ぶ——どれほど追い詰められても、最後の一本は残せ、と。

だが刃先がわずかに覗いた瞬間、

「……チン」

極めて軽い金属音。

小刀は何かに弾かれたように飛び、回転しながら消化池へ落ちた。「ジュッ」と白い煙が上がり、刃はすぐ黒ずみ、柔らかく崩れて溶けていく。

菖蒲の血の気がさらに引く。

朱緋魘は振り返りもしない。

その代わり血鞭が次の瞬間、しなる。

「——パン!」

一鞭目が菖蒲の肩を打ち、皮膚に赤い痕が走る。痕から滲む血珠が、血池の気配に引かれて“戻ろう”とするような不気味さすらあった。

二鞭目が脇腹を裂き、痛みで息が詰まる。

三鞭目が落ちるころ、朱緋魘が淡々と言った。

「小細工はやめなさい」

「ここじゃ、あんたの小賢しさなんて値打ちがない」

菖蒲は歯を噛みしめ、指先を震わせたまま、もう動けない。

今、ようやく分かる。

これは「戦い」ではない。

「玩具にされている」のだ。

朱緋魘は彼女たちを拷問している——恐怖を、人性を、選択を。

そして阿虫が、その答えを強制される。

一分は短い。

だが血池の中では、一分が刑罰のように引き伸ばされる。

朱緋魘は指を上げ、秒を数えるように言う。

「一」

阿虫の呼吸がさらに浅くなる。

「二」

剣蘭の目が据わり、喉が硬くなる。

「三」

菖蒲の視界が揺れ、額の冷汗が鬢を伝う。

朱緋魘の声は振り子のように、阿虫の神識へ刻まれる。

「……五十」

阿虫の思考が猛烈に回る。

七殺の鎧魂萃はもう使い潰した。神識は井戸の底みたいに空。結界は砕け、護符も残り僅か。

二人を救うには、朱緋魘が投げ落とす前に血鞭の支配を断たなければならない。だが速度も掌握も、朱緋魘が遥か上だ。

唯一の手段——

もう一つの鎧魂萃。

紫青の鎧魂萃。

夏侯戒が遺したもの。

阿虫がずっと使わなかったのは、適合できる確信がなかったからだ。

恐れた。

あれは「武器」ではない。「責任」だ。「因縁」だ。触れたくない運命の一部だった。

しかし今、追い詰められている。

朱緋魘が指先を軽く弾く。

「六十」

笑う。

「時間よ。選びなさい」

血鞭が僅かに緩む。二人を放り投げる直前の合図みたいに。

剣蘭の瞳孔がきゅっと縮む。

菖蒲の呼吸が止まりかける。

阿虫は顔を上げた。

その目は、いつもの淡さではなかった。刃がほんの一寸、素肌を見せる冷えだ。

「……俺の答えは」

朱緋魘の笑みが深まる。崩れる瞬間を待っている。

阿虫は、二文字を吐き捨てた。

「拒絶」

朱緋魘の笑みが一瞬、止まる。

阿虫は懐から鎧魂萃を取り出した。

暗紅の七殺ではない。

紫青だ。

紫青の光が掌で小さく跳ねた。深海の雷みたいに。

菖蒲の目が見開かれる。

幼いころの記憶が、鋭く刺さった。

それは、見たことがある。

夏侯戒が使っていた鎧魂萃——食傷ショクショウ

「……それ……!」

菖蒲の声が掠れる。

阿虫は答えない。

ただ、鎧魂萃を握り締めた。自分も切り裂く刃を掴むみたいに。

「合神——!」

紫青光が爆ぜる。

玄武の虚影が跳ね出した。分厚い亀の形というより、古く、重く、抑え込む寒を帯びた存在。甲の紋は山脈のように走り、四足は虚空を踏む。気配が現れた瞬間、血池の灼熱が、より深い寒に押し伏せられる。

寒気が広がり、血池の「熱で煮崩れる地獄」を上から蓋した。

阿虫の身体を紫青の甲片が覆う。その覆い方は七殺のような殺意の爆発ではない。水面が凍るように——静かに、重く、圧し掛かる。

食傷の鎧。

七殺と同じく、魔族七邪鎧の一。

同じ水の鎧であり、明鏡と源を同じくしながら道が違う。明鏡が礼と静の冷だとすれば、食傷は「吞噬と反噬」の冷。

鎧が形を成した瞬間、阿虫の目が凶くなる。

意志で無理やり合神している。

玄武の寒が骨の髄へ潜り、神識の最後の火さえ凍らせようとしてくるのが分かる。

朱緋魘はようやく、遊びの色を引っ込めた。

眼底に初めて「意外」が宿る。

「……食傷」

信じ難いものを見る声。

「御魂師の雛が、よくも——」

言い終える前に、彼女は指を上げる。

血鞭が、ぱっと緩んだ。

剣蘭と菖蒲の身体が一気に落下する。消化池へまっすぐ。

「——ッ!」

剣蘭の胸が空になる。

菖蒲の頭が真っ白になる。

だが阿虫の動きのほうが速い。

食傷の寒気が爆ぜ、まず消化池の表面を凍らせた。

「ガギン——!」

暗紅の腐蝕液が極寒に押し固められ、分厚い氷の層になる。氷の中には半融けの残肢が封じられ、地獄を透明な鏡に閉じ込めたみたいに。

同時に阿虫は掌を返し、殷翦璃の魔魂晶へ神識を注ぎ込む。

光が走り、次いで銀糸が弾けた。

傀儡線の銀糸が蜘蛛の巣のように空へ走り、剣蘭と菖蒲の腰と腕へ正確に絡みつく。落下が強引に止められ、二人は蜘蛛糸に吊られた鳥のように宙で揺れた。

二人の身体がぶらりと振れ、吐き気が込み上げる。

阿虫は銀糸で少しずつ引き上げながら、顔を上げて朱緋魘を見据える。声は氷のように冷たい。

「……お前が見下した殷翦璃の力だ」

朱緋魘の瞳に、陰が走る。

怒りではない。突かれた嫌悪に近い。

「面白い」

笑い声はもう軽くない。

阿虫は外から見れば踏ん張っている。

だが自分だけは分かっている。崩れているのは自分だ。

食傷の合神は山のように神識へ圧し掛かる。識海はもともと空っぽだ。それを無理に支えるのは、骨で山を頂くようなもの。

借りなければならない。

この血池で最も「手近」な力——

亡魂だ。

阿虫は結界が砕けた瞬間から悟っていた。食傷の寒を維持するには、血池の亡魂から逆に力を引くしかない。

それは願魂の欠片ではない。

願魂は亡魂が自ら差し出す「願い」だから反噬がない。

だが血池の亡魂は違う。

搾り取られ、囚われ、潰された「怨」だ。

強引に引けば、亡魂の意思を踏みにじって燃料にすることになる。

——反噬は必ず来る。

そして朱緋魘は、それを見抜いている。

彼女は、必死にもがく獲物を眺めるように言った。

「長くは保たないわ」

「食傷を維持するために、あんたは亡魂の力を盗ってる」

阿虫は答えない。答えられない。

答えた瞬間、自分が命を賭けていると認めることになるからだ。

朱緋魘は、わざと刃を深くする。

「御魂師が普段、願魂の欠片を使えるのはね」

「それが亡魂の自発的な“願い”だからよ。問題が起きない」

間を置き、残酷な賞賛を滲ませる。

「でも今のあんたは——亡魂の意思を無視して、力に変えてる」

「反噬は大きい。身体も神識も、壊れる」

剣蘭と菖蒲は銀糸に吊られたまま、その言葉で目の色が変わった。

剣蘭の胸に、重いものが落ちる。

菖蒲の喉が締まる。

ようやく理解する。

阿虫は「急に強くなった」のではない。

自分の命で、彼女たちの命を買っているのだ。

朱緋魘の声は鈍い刃でゆっくり削る。

「最高位の御魂師だけが、亡魂の意志を完全に抑え、操れる」

そして彼女は目を上げ、笑う。

「……でも、あんたは」

ひよこ

「私が手を出さなくても、あんたは助からない」

阿虫のこめかみが脈打つ。

識海が裂ける感覚。玄武の寒と亡魂の怨が体内で衝突し、二つの洪水がぶつかり合うみたいに暴れる。

膝が折れないよう、全力で踏ん張る。

剣蘭と菖蒲の眼に、初めて大きな悔恨が溢れた。

菖蒲は何か言おうとして、声にならない。

北王府の責を背負って育ち、判断し、理で押さえ込むことに慣れてきた。だが今、阿虫のように命で選択を塞ぐ男の前で、自分の「理」は紙のように薄いと突きつけられる。

剣蘭が歯を噛み、掠れた声を絞る。

「阿虫……あんた……」

阿虫は罵れない。

力のすべてが、食傷の崩壊を押さえることへ消えている。

そのとき——

極淡い寒意が漂ってきた。

水面を流れてくる一片の葉のように。

止水剣。

無音で阿虫の傍へ漂い、剣身は微かな水光を帯びている。血池の中にあってなお、汚れぬ静を保つ一本。

阿虫の瞳がぎゅっと縮む。

救命の草に縋りつくように、柄を掴んだ。

その瞬間、剣に注がれていた諸葛剣平の神識と気が——

冷たい水の奔流となって、乾き切った阿虫の識海へ流れ込む。

阿虫は全身を震わせた。

それは「満たす」力ではない。

「支える」力だ。

溺れ死ぬ寸前、誰かが水面から一寸だけ引き上げてくれて、息ができる——そんな支え。

阿虫の目が、一分だけ定まる。

彼は止水剣を反手に引き、食傷の玄武殻を一気に展開する。古い巨盾のような殻が開き、剣蘭と菖蒲を背後に庇った。

止水剣の切っ先が、上を指す。

阿虫が吐き出す。

「奥義——九天凛風」

その四文字は、阿虫自身にも陌生だった。

夏侯戒が放った奥義。

阿虫がずっと向き合えなかった道。

だが今、その奥義が彼の手で再現される。

極氷の寒気が止水剣の切っ先から噴き上がる。単なる冷風ではない。凝結し尽くした寒流——九天から落ちる氷瀑のような一撃が、血池の腔壁と機能の核へ一直線に叩きつけられた。

血池が、激しく震えた。

腔壁の蠢きが凍りつき、管状の搏動が止まり、血の流れが「停止」へ落ちる。

腐魔煞の組み上がりは空中で固まり、冤魂の哭き声も途切れ途切れになった。喉を掴まれたように。

血池の「活性」——

作動が、潰された。

朱緋魘は血階の脇に立ち、寒意を受けても避けない。

それどころか、笑い出した。

「ははは——!」

笑い声が血池に反響する。血蝙蝠の羽音の群れみたいに。

彼女は軽く手を叩き、芝居へ喝采を送る。

「阿虫」

朱緋魘は笑いながら言う。

「認めるわ。あんたの意志は、私にとっても見事」

阿虫は荒く息をし、止水剣を上へ向けたまま、倒れないことだけに集中する。

朱緋魘はもう、殺す気が薄い。

肩を軽くすくめ、まるでゴミの話でもするような口調になる。

「でも血池を壊したって構わない」

「方家堡は、殷翦璃が死んだ瞬間から、もう価値がない」

阿虫の胸が沈む。

「……何だと」

朱緋魘の笑みが深い。

「目的は、もう達成してるの」

指先をくるりと回す。血池の残響を掌に集める仕草。

「血池は——あんたが私の代わりに掃除してくれたってことでいいわ。ご苦労さま」

脅しより寒い言葉だった。

方家堡の惨劇も、血池の地獄も——彼女の計画の道具に過ぎない。使い終えたら捨てる。それだけ。

阿虫の胸に怒りが湧く。罵りたい。だが声にならない。

もう、限界が近い。

食傷の寒が反噬し始める。

視界の端が黒く落ち、識海が裂け、止水剣からの支えも急速に消耗していく。諸葛剣平の神識だって無尽蔵ではない。

阿虫の膝が、折れた。

「どさ」

片膝が床へ落ち、止水剣が腸道のような柔肉へ突き立つ。刺さると同時に、粘つく鈍い音がした。

阿虫は大きく喘ぎ、熱気を肺いっぱいに飲み込む。胸が痛い。

朱緋魘は、阿虫が跪くのを見下ろした。慈悲はない。「ようやく来た」とでも言うような興味がある。

「帰り際に」

彼女は囁く。

「ちょっとした贈り物をあげる」

指を上げる。

指先に、血色の塊が凝る。

それは圧縮された一滴の血のようだった。黒紅が交じり合い、内部に符紋が跳ねる。単なる攻撃ではない。呪いの種子だ。

朱緋魘が指を弾く。

血の塊が針のような速度で阿虫へ飛ぶ。

阿虫は、もう避けられない。

瞳孔が縮む。

その瞬間——

剣蘭が動いた。

考えるより先に、銀糸の支えを強引に外し、阿虫へ飛び込んだ。身体で、前に立った。

「——っ!」

血色の針が剣蘭の胸へ突き刺さる。

剣蘭の身体がびくりと跳ね、冷たい鉄で貫かれたように顔から血が消える。

そのまま「どん」と倒れ、叫びすら上がらない。漏れたのは短い呻きだけ。

阿虫の目が、その瞬間に完全に変わった。

淡さの仮面が砕け、底の色が露わになる。怒りと焦りと、剥き出しの慌て。

「何してんだ!」

阿虫は怒鳴った。声が擦れている。

「……余計な真似を!」

剣蘭は床に伏せ、唇は白い。胸の上下は浅い。

それでも、壊れそうな笑みを無理に作る。

「……返す」

息を継ぎながら言う。

「さっき……助けてもらった分……」

阿虫の手が震える。

もっと強く罵りたい。だが罵れない。

朱緋魘は血階の脇で、その光景を鑑賞する。可笑しくて仕方ないみたいに。

「いいわね」

「人間は、こういう時に“情義”を演じるのが好きだ」

阿虫は顔を上げ、目で噛みつく。

「……何をした!」

朱緋魘は薄く笑う。

「血毒呪」

「私の血毒呪よ」

道具の説明をするみたいに淡々と。

「三日以内に解けなければ——全身の血管が破裂して死ぬ」

菖蒲の顔色が真っ白になる。

「……っ!」

朱緋魘は剣蘭を見る。残酷な優しさが一瞬だけ滲む。

「今この瞬間から」

「この子の身体は、造血をやめる」

剣蘭の指先が微かに痙攣する。

胸の奥から冷えが四肢へ這う。食傷の寒じゃない。もっと陰で、もっと毒の冷え。血が止まっていく冷えだ。

朱緋魘の声は耳打ちのように軽い。

「これから自分で感じるわ。体温がどんどん下がっていくのを」

そして笑う。

「……透き通るほど冷える感覚、味わいなさい」

阿虫の喉が締まる。

剣蘭を抱き起こそうと俯くが、手が震えて支えられない。

菖蒲は剣蘭の傍へ膝をつき、指先が震えるまま、どうしていいか分からない。傷は見てきた。だがこれは「呪いの死」だ。

朱緋魘は満足したように身を翻す。

暗紅の中で紅髪が揺れ、血蝙蝠が翼を広げるようだった。

「じゃあね」

「ゆっくり足掻きなさい」

阿虫が顔を上げる。目が赤い。

「……逃げられると思うな」

朱緋魘は振り返り、冷たく笑った。

「あんた、立つことすらできないのに?」

「何で止めるつもり?」

彼女の影が薄れ始める。血池の暗紅に溶け込むように。

その薄れかけた瞬間——

上から、風を裂く音が落ちてきた。

乱雑な落下音ではない。目的を持った、速く、正確な降下。

まず水光が一閃する。

止水剣の定位は完了していた。

続けて、裂け目の方向から二つの影が血池空間へ落ちる。

一人は、痩せて冷淡、衣の裾が線のように——諸葛剣平ショカツ・けんぺい

もう一人は、槍を手に、獣のような身のこなし——瑞木菀ズイモク・えん

着地の瞬間、寒意と殺意が同時に沈み、血池の中に「人間の足場」が叩き込まれた。

諸葛剣平の視線が走り、即座に阿虫・剣蘭・菖蒲を捉える。

瑞木菀は槍先を朱緋魘の消えかけた方へ向け、鉄のように冷たい声を落とす。

「……止まれ」

朱緋魘の影が、ほんの一瞬止まる。

振り返り、諸葛剣平と瑞木菀を見ると、瞳に興味が灯る。

「へえ」

「ようやく来たのね」

諸葛剣平は無駄口を叩かない。

一歩踏み出し、止水剣の寒意が身の周りで凝る。空間ごと封じる構えだ。

瑞木菀はさらに直截だ。槍勢を沈め、血池の臓腑ごと貫く気配。

だが朱緋魘は笑った。

観客へ礼をするみたいに、軽く手を添えて頭を下げる。

「……また次で」

「下次再見、ってところね」

言い終えると、影は暗紅へ完全に溶けた。血が、より深い血の一滴を飲み込むみたいに。跡形もない。

残ったのは、あの「贈り物」の毒だけ。

阿虫は片膝をついたまま喘ぎ、朱緋魘が消えた場所を睨み続ける。

悔しい。

だが、動けない。

剣蘭は傍で倒れ、体温が少しずつ下がっていく。血管の中の火が吹き消されるみたいに。

諸葛剣平の目が剣蘭へ落ち、眉間が一気に寄る。

瑞木菀が舌打ちし、しゃがみ込んで支えようとする。手の甲に青筋が浮く。

阿虫が顔を上げる。仮面はもう欠片も残っていない。

掠れた声が、歯の間から絞り出される。

「……血毒呪を、打たれた」

血池の暗紅の暈光はまだ消えきっていない。

冤魂の哭き声も、遠くで断続的に残っている。

だが今、本当の恐怖は環境ではない。

——三日。

三日以内に呪いが解けなければ、剣蘭は死ぬ。

そして朱緋魘が残した「拒絶」は、ここから本当に効き始める。

血池の暗紅の光は、ようやく退き始めた。

それは一瞬で消えるようなものではない。

まるで生命を無理やり断たれた器官が、ゆっくりと死んでいくかのように——蠢きが止まり、温度が下がり、腔壁に張りついていた粘膜は次第に艶を失っていく。

絶えず翻っていた血液は動きを失い、暗く濁った液体となって、底に溜まりはじめた。

空気に満ちていた腥い甘さも、少しずつ薄れていく。

冤魂の哭き声は断続的になり、やがて遠くで残響のように揺れるだけになる。

夜風が空き家を抜けるときの、あの虚ろな音に近い。

——血池は、死んだ。

諸葛剣平は八稜鏡を展開し、氷柱の術式を構築した。

地底から地上へと続く、すでに破壊された崩落通路に沿って、氷の柱が段階的に形成される。

一行はその上を移動し、慎重に、しかし迷いなく地下を離れていった。

最後に阿虫が方家堡の地面へ足を下ろした瞬間、踏みしめた感触は——

あの魂を吸い取るような粘りではなく、ただの土と砕けた石だった。

その感覚に、ほんの一瞬だけ、錯覚が走る。

まるで、地下で起きたすべてが悪夢だったかのような。

だが、剣蘭の蒼白な顔が、それを否定した。

瑞木菀は即座に周囲の状況を確認する。

朱緋魘が去ったことで、魔将が張り巡らせていた結界と呪詛は、根を引き抜かれたかのように急速に崩れていった。

長く方家堡の空を覆っていた暗紅と昏黄の色は薄れ、雲は再び流れを取り戻す。

風向きも、正常なものへ戻りつつあった。

——時間が、動き出している。

あの張りつくような停滞感。

夜が夜のまま続く、異常な感覚。

それらが、確かに解かれていく。

黎明が、近づいていた。

「……結界は、解除されたな」

瑞木菀の低い声は、事実確認であると同時に、自分自身への区切りでもあった。

菖蒲はその傍らで、徐々に明るさを取り戻す空を見上げていた。

だが、その表情に安堵はない。

「……まだ終わっていない」

視線は、無残に破壊された方家堡へ落ちる。

声は冷静だが、抑え込まれた怒りがはっきりと滲んでいた。

「ここで起きたことは、必ず厳正に処理されるべきよ」

「剣蘭の毒が解け次第、私はすぐ北王府へ戻る」

彼女は一拍置き、言葉をさらに冷やす。

「これは地方勢力の問題じゃない」

「人族全体の底線を揺るがす災厄よ」

さらに続ける。

「鳳翎へ戻り次第、東皇にも即刻報告する」

「魔族は……人界全体を視野に入れた何かを進めている」

「同じ悲劇を、絶対に繰り返させない」

瑞木菀は歯噛みし、短く吐き捨てるように同意した。

諸葛剣平は無言で頷くだけだ。

彼の意識は、すでに剣蘭の容体に集中している。

阿虫は、迷わなかった。

血池が完全に機能を失ったことを確認すると、再び七殺の鎧魂萃を取り出す。

鎧魂萃が震え、低く押し殺したような咆哮が地面から響いた。

次の瞬間、七殺の霊獣形態——魔犬が召喚される。

双眸には暗紅の炎。

背と四肢は七殺鎧と同源の甲片に覆われ、凶暴な気配を放ちながらも、阿虫の命令に絶対の服従を示していた。

阿虫は慎重に剣蘭を抱き上げ、魔犬の背へ乗せる。

彼女の身体は、すでに冷え始めていた。

単なる失温ではない。

血の奥から広がる寒さ——身体そのものが「生きる」ことを放棄しつつある感覚。

阿虫の動作は、驚くほど落ち着いている。

だが剣蘭の手首に触れた指先が、わずかに震えた。

「……耐えろ」

それが剣蘭に向けた言葉なのか、自分自身への命令なのか、阿虫自身にも分からなかった。

魔犬が低く唸り、脚に力を込める。

「泰城へ戻ったら、一笑楼で待っていろ」

菖蒲にそう告げ、諸葛剣平と瑞木菀に短く視線を送る。

感謝とも、託すとも取れる視線だったが、言葉にはならなかった。

次の瞬間——

阿虫は剣蘭を乗せたまま、七殺の霊獣形態・魔犬とともに暗紅の残影となり、泰城の方角へ疾走していく。

風が耳元を裂く。

方家堡は、急速に背後へ遠ざかっていった。

残された者たちは、善後に入る。

瑞木菀は残留する邪異の気配と不安定な領域を徹底的に排除し、二次被害が起きぬよう封じて回る。

諸葛剣平は止水剣を媒介に、血池の名残が残る地下通路を完全に閉鎖した。

誤って立ち入る者が出ぬよう、念入りに。

菖蒲は城外に立ち、次第に明るくなる空を見つめていた。

その表情は複雑だ。

そこへ、懐玉が歩み寄る。

彼は誰よりも理解していた。

方家堡で起きたすべてが、自分の人生から消えることはないと。

「……しばらく、ここに残るつもりだ」

懐玉が言う。

菖蒲は視線を向ける。

「殷翦璃のことを、芝居にする」

声は静かだが、芯があった。

「彼女を擁護するためじゃない」

「ここで、何が起きたのかを……世に残すためだ」

彼は崩れた城壁を見上げる。

「その後、改めて劇団を組み直す」

「この物語を携えて、各地を巡る」

菖蒲はしばらく沈黙し、やがて頷いた。

「北王府が支援する」

「資材も、通行も、護衛も——必要なものは全部」

「私が保証するわ」

懐玉は、静かに笑った。

その笑みから、役者特有の虚飾が少し消え、本物の重みが宿る。

ふと、諸葛剣平を見る。

「……完成したら」

「見に来てくれるか?」

諸葛剣平は一瞬、目を瞬かせたあと、頷いた。

「行く」

懐玉は、ようやく息を吐いたようだった。

空は完全に白み、

黎明の光が、遮られることなく方家堡を照らす。

その光は、決して優しくはない。

だが、確かに現実だった。

諸葛剣平は崩れた地面に立ち、しばし沈黙したのち、琴を取り出す。

言葉はない。

ただ、地に座り、膝に琴を置き、指を弦へ落とした。

音が鳴った瞬間、風が一拍、遅れたように感じられた。

それは喜びの曲ではない。

哀悼でもない。

死者を送り、

生き残った者に、ひとまずの終止符を与える——

極めて抑制された、鎮魂の旋律。

琴の音は廃墟を巡り、

血池の夜を、静かに送り出した。

——一方。

魔犬の速度は、徐々に落ちていた。

阿虫の神識は、もはや七殺鎧の霊獣形態を維持できない。

視界は暗くなり、風の音も途切れ途切れになる。

魔犬の輪郭が揺らぎ、今にも解けようとした、その瞬間——

前方の夜の中から、二つの灰色の影が跳び出した。

狐。

二体の狐型妖獣。

動きは極めて速い。

だが、乱れはない。

魔犬が完全に消失し、阿虫と剣蘭が落下しかけた刹那、二体は正確に二人を受け止めた。

阿虫は、かろうじて目を開ける。

馴染んだ気配に、全身の力が抜ける。

「……フクロウか」

聞こえてきたのは、欧陽枭オウヨウ・きょうの声だった。

「安心しろ」

「阿橙が、俺たちを寄越した」

阿虫は、ほんのわずかに笑った。

勝利でも、安堵でもない。

ただ、極限を越えた後の、静かな解放。

「……辛夷シンイのところへ」

「彼女が……毒に侵されてる」

言い終えると同時に、

阿虫の意識は、完全に闇へ沈んだ。

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