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第十九話 方家堡編 其ノ七 血池

夜更けの泰城は、むしろ昼よりも灯りが明るかった。

人々が眠れないからではない。

夜を生き延びる者ほど、自分がまだ「生きている」と確かめるために、いっそうの賑わいを必要とするからだ。

一笑楼は、その賑わいのちょうど心臓部に店を構えていた。

入口に吊るされた赤い提灯が風に揺れ、灯影は酒の液のように青石の階段の上でゆらゆらと揺れる。

楼内では暖炉の火が勢いよく燃え、油煙、酒の香り、炭火の匂いが混ざり合って、頬が熱くなるほどだ。

その熱気は、外の寒さや闇を容易に忘れさせてしまう。

今夜の阿橙あだいは、忙しかった。

帳場の奥に立ち、腰には布の前掛け、袖は肘まで捲り上げ、手を止める暇もない。

帳簿を付け、代金を受け取り、客に声を掛け、厨房の火加減に目を配り、酔いが回りすぎた連中が一線を越えないよう常に気を張る。

その動きは決して派手ではない。

むしろ落ち着いていて、静かですらある。

忙しさを、すでに一つの“状態”として身体に馴染ませているかのようだった。

だが、彼女をよく知る者なら分かる。

阿橙は、元からこうして感情を抑え込める性分ではない。

ただ――

想いを、あまりにも深く沈めているだけだ。

今夜手伝いに来ている二人の少女――西門鸢シモン・とび欧陽莺オウヨウ・おうは、その沈静とは対照的だった。

西門鸢は西門鼎シモン・かなえの妹で、気性は真っ直ぐで速い。

盆を運ぶ姿はまるで突撃のようで、足取りは軽いが乱れない。

時折、酔客の方へ鋭い視線を投げ、

「誰かが手を出せば、その場で叩き折る」

そんな気迫を隠そうともしなかった。

一方の欧陽莺は、より物静かだ。

笑顔は柔らかく、声も穏やかだが、決して怯えはない。

酒杯を整然と並べ、卓を拭く所作も無駄がなく清い。

刃の上を生きる兄――欧陽枭オウヨウ・きょうとは対照的に、澄んだ手足を持つ妹だった。

「阿橙さん、この卓、もう二壺!」

西門鸢が盆を抱え、階段口から駆け下りてくる。

「分かったわ」

阿橙は落ち着いた声で応え、すぐに厨房へ熊伯に火を足すよう合図を送った。

そして、一笑楼でもっとも騒がしい一角。

ちょうど夜巡の交代時刻だった。

扉が押し開けられ、笑い声と罵声が一気に流れ込む。

その瞬間、楼内の熱気がさらに一段押し上げられた。

欧陽枭が先頭で入ってくる。

外套を椅子の背に放り投げ、腰を下ろすなり机を叩いた。

「阿橙さん! 酒だ!」

その隣に西門鼎が座り、酒粕よりも厚い面の皮で叫ぶ。

「いつものだ! まず肉三皿! それから烈酒を一壇!」

後ろには、黄毛ホアンマオ臭玉チョウダン斜眼シャガン歪嘴ワイヅイ赤佬チーラオ――

いつもの悪友たちが、形の崩れた瓢箪の列のように続く。

騒ぎ、座り、机を叩き、杯を打ち鳴らす。

たちまちこの一角は、彼らの縄張りになった。

西門鼎はふと顔を上げ、楼内を一巡する。

その視線が、奥の出入口で止まった。

いつもより、ほんの一瞬、長く。

――阿虫が、いない。

それは、おかしかった。

彼らが一笑楼で騒ぐ時、阿虫は必ずどこかにいた。

同席せずとも、隅か、奥の間に――

無言のまま場を“打ち留める”釘のように。

言葉がないからこそ、誰もが勝手をしなかった。

今日は、それがない。

西門鼎の笑い声が、喉で引っ掛かった。

軽く咳払いし、平静を装って視線を戻す。

だが、どうしても阿橙の方を見てしまう。

阿橙は帳場の奥で忙しくしている。

横顔は静かで、こちらを見ていない――ように見える。

だが西門鼎は知っていた。

彼女は、見ている。

ただ、構う気がないだけだ。

胸がきゅっと縮む。

前にやらかした、あの件を思い出す。

あの時、阿橙は声を荒げなかった。

だが、その冷えは背骨にまで染みた。

口では強がれても、内心は心許ない。

今さら自分から

「阿虫はどこだ?」

などと聞けるはずもなかった。

沈黙される方が、ずっと怖い。

西門鼎は肘で欧陽枭を突き、小声で言った。

「なあ、フクロウ……お前、聞いてくれ」

欧陽枭は酒碗を持ち上げたまま、横目で睨んだ。

「なんでお前が行かねえんだよ」

「お、俺は……まだ怒ってるかもしれねえだろ」

西門鼎は声を落とし、どこか媚びるような調子になった。

「お前は違うだろ。阿橙とは、付き合い長いし……」

欧陽枭は鼻で笑った。

「俺と阿橙さんの仲がいい? 冗談言うな。

俺が気軽に眼刀を喰らいに行けるとでも思ってんのか?」

そう言いながらも、欧陽枭は酒碗を置いた。

表向きは無骨で冷たいが、根は情に厚い男だ。

何より、阿虫がいないという事実は、どうにも胸騒ぎがした。

欧陽枭は立ち上がり、帳場へ向かう。

「阿橙さん」

呼びかける声は、いつになく荒くない。

「今日……阿虫は来てねえのか?」

阿橙は酒壺を手に、客席へ向かおうとしていた。

動きは安定している。歩調も乱れていない。

――だが、その問いが落ちた瞬間。

彼女の指先が、何かに刺されたかのように、わずかに強張った。

驚きではない。

呆然でもない。

ごく短く、しかし極めて生々しい――

“感応”。

次の瞬間。

「ガシャーン!」

酒壺が床に落ち、砕け散った。

酒が一気に広がり、濃い香りが立ち上る。

床は濡れて光り、眩しいほどだ。

一笑楼が、静まった。

酔いに任せて騒いでいた連中ですら、一瞬、言葉を失う。

西門鼎が跳ね起きた。

「阿橙?!」

欧陽枭も眉を寄せる。

「どうした?」

阿橙は足元の酒溜まりを見下ろした。

胸が一度、大きく上下する。

何かに、急に掴まれたような感覚。

顔色が真っ白になったわけではない。

だが――血の気が、半分ほど引いたのが、はっきり分かる。

西門鸢と欧陽莺も慌てて駆け寄る。

「阿橙さん! 手、大丈夫?!」

西門鸢が手首を掴もうとする。

「火傷してない? 布、持ってくる――」

欧陽莺が言いかけた。

「……いい」

阿橙は手を上げ、二人を制した。

声は少し掠れているが、無理に落ち着かせている。

「大丈夫」

そう言いながら、彼女の視線は別の場所を向いていた。

楼内でも、人の群れでもない。

もっと遠く。

もっと深く、もっと暗い方角――

何かが、起きている場所。

阿橙はゆっくりと息を吸い込んだ。

重く、深く。

その一息で、感情を押し沈める。

巨大な石を、胸の奥へ無理やり沈めるように。

そして顔を上げ、欧陽枭を見る。

「枭」

呼び方が、はっきりしていた。

欧陽枭の胸が、嫌な沈み方をする。

「……どうした」

阿橙は一瞬、言葉を選ぶように黙った。

言うべきか、言わざるべきか。

だが次の瞬間、覚悟を決めたように口を開く。

「お願いがあるの」

欧陽枭は即答した。

「何だ」

阿橙の声は、さらに低くなる。

彼と欧陽莺にだけ、届く高さ。

「今夜」

「方家堡の方へ……行ってほしい」

欧陽枭の目が鋭くなる。

「方家堡だと? 正気か。あそこは今――」

「危険なのは分かってる」

阿橙は言葉を遮った。視線は退かない。

「でも、確かめなきゃいけない」

指先が、わずかに震える。

胸の奥からせり上がる不安を、必死に抑えている。

「阿虫が……危ないかもしれない」

欧陽莺の顔色が一変した。

「阿虫が?」

阿橙は小さく、しかし確かに頷いた。

「あなたと莺なら……」

声が、さらに低くなる。

「夜行できる。化形できる。速いし、嗅覚も人より鋭い」

欧陽枭は黙った。

自分と妹が妖族の血を引いていること。

それで“できること”を、彼は理解していた。

この頼みの本当の意味――

妖獣の姿で夜に紛れ、方家堡へ向かい、

可能なら阿虫を連れ戻してほしい、ということ。

欧陽枭の喉仏が動く。

阿橙を見る目が変わった。

それは「頼まれた」弱さではない。

「限界まで耐え、ついに口を開いた」強さだった。

欧陽枭は息を吐いた。

酒の熱ごと、吐き出すように。

「……分かった」

そう言って、机に手を置く。

声は硬く、だが確かだった。

「この件、俺と莺が引き受ける」

欧陽莺も唇を噛み、力強く頷いた。

「行きます」

阿橙の肩から、ほんのわずか、力が抜けた。

だがすぐに、さらに深い緊張が戻る。

「ありがとう」

低く、短く。

欧陽枭は手を振った。

「礼はいらねえ。店を頼む」

阿橙はそれ以上、何も言わなかった。

砕けた陶片を拾い上げる。

指先が縁をなぞり、皮膚が切れても――

いつものように痛みを気にしなかった。

今の痛みは、そんなものではなかったからだ。

床に広がった酒は、なおも光っている。

まるで――

不吉な前触れのように。

方家堡の方では、悲歓台はすでに半ば地に埋もれた瓦礫と化していた。

塵煙はまだ完全には散っておらず、折れた木梁が断骨のように無秩序に積み重なっている。

台基に走った大きな裂け目は、今もなお陰気と血なまぐさい熱気を吐き続けていた。

裂口の縁では、ときおり石板が崩れ落ち、闇の底へと吸い込まれていく――

鈍い音だけが残り、反響は返ってこない。

瑞木菀は、その裂口のすぐそばに立っていた。

呼吸は安定している。

だが、その眼差しは刃の背のように冷たい。

彼女の手には長槍が握られ、石突きが地面に軽く触れている――

いつでも跳び込める姿勢だ。

金釵は少し離れた場所に座り込んでいた。

目の縁は真っ赤で、喉は掠れ、泣くに泣けず声を殺している。

泣き出してしまえば、あの三人を本当に失ってしまう気がして、怖かった。

懐玉はさらに後方に立っていた。

身体から芯を抜かれたように、ただ崩落した方向を見つめている。

殷翦璃が塵の中から姿を現すのを、どこかでまだ待っている――

そんな目だった。

だが、彼自身が一番よく分かっている。

それがもう、起こり得ないことだということを。

諸葛剣平は反対側に立っていた。

止水剣はすでに収められ、明鏡聖鎧の冷気も大きくは残っていない。

今の彼は、ただ痩せた一人の修行者のように見える。

だが、その視線だけは、誰よりも深く沈んでいた。

地上ではなく――地の底を、見据えるように。

やがて、瑞木菀が口を開く。

「……私が下りる」

諸葛剣平は、すぐには答えなかった。

瑞木菀は彼を見据え、声を強める。

「救援を待っている時間はない。

阿虫たちは――長くはもたない」

誇張ではない。

彼女は地下戦場を知っている。

崩落救助も、“一刻遅れれば命が消える”現場も、嫌というほど見てきた。

あの裂口の下は、ただの地窟ではない。

噴き上がる血の熱気は、生き物の呼吸のようだった。

そんな場所で時間を浪費すれば、待っているのは死だけだ。

瑞木菀の指に力がこもる。

東皇へ戻り、鳳翎の仲間を呼ぶ――

その選択肢も頭をよぎった。

だが時間的に、それでは間に合わない。

救援が到着する頃には、三人ともすでに――

彼女は賭けなかった。

だから、自分の命と引き換えでも、

三人を引き上げる道を選ぶ。

一歩、前へ出た。

その瞬間――

諸葛剣平が手を上げ、彼女の前に立つ。

「行くな」

声は低い。

だが、氷のような重みがあった。

瑞木菀は目を細める。

「止める気?」

諸葛剣平は裂口の奥を見つめ、静かに言った。

「地下は、単なる崩落じゃない。

あの気配……おかしい」

「分かってる」

瑞木菀は即座に返す。

「でも下りなきゃ、あの人たちは終わりだ」

それでも、諸葛剣平は首を振った。

彼は、何かを掴みかけていた。

「方家堡の地下血池は……

ただの錬成場じゃない」

言葉を選びながら、続ける。

「もっと大きな“何か”を隠している」

瑞木菀の眼が鋭くなる。

「……どういう意味?」

諸葛剣平は、多くを語らなかった。

ただ、一つの動作を取る。

彼は合神状態を解除した。

明鏡聖鎧の光が彼の身体から退き、

氷麒麟の気配も再び鎧魂萃へと収束する。

一瞬、彼はひどく頼りなく見えた。

だが次の瞬間、

止水剣を掌に横たえ、

その剣脊に手を当てる。

気と、神――

注ぎ込む。

それは単なる真気の注入ではない。

自身の意識を剣に“吊るす”高度な技。

剣は兵器ではなく、

彼の目となり、耳となり、探針となる。

止水剣の刃に、淡い水光が走る。

諸葛剣平は目を閉じ、呼吸を沈めた。

次の瞬間――

止水剣は掌を離れ、

音もなく、水の線のように裂口へ滑り込んだ。

金属音も、風切り音もない。

塵の中に、かすかな冷気の軌跡だけを残して。

瑞木菀の眉が、わずかに動く。

諸葛剣平の指先が微かに動いている。

見えない糸を操るように。

――意識操作による止水剣の潜行探索。

血池の下へ送り込み、

阿虫たちの位置を探る。

これは、飛び込むよりも冷静で、速い。

瑞木菀は踏みとどまった。

槍を握る手は硬いまま、だが待つことを選ぶ。

金釵が顔を上げ、泣き声を抑えながら問う。

「……師兄。

あの人たちは……生きてるの?」

諸葛剣平は、すぐには答えなかった。

止水剣から伝わる“感覚”を、聴いている。

彼の眉間が、徐々に寄っていく。

極めて不快な環境を感知した表情だった。

「……生きている」

その一言で、

金釵の瞳に光が戻る。

だが次の言葉が、その光を凍らせた。

「だが、下は……」

一拍置き、声がさらに冷たくなる。

「人の世じゃない」

瑞木菀が低く吐き捨てる。

「血池……」

諸葛剣平は否定しない。

ただ指先を引き、

止水剣をさらに深部へと進めた。

「まず位置を確定する」

「その上で、どう下りるかを決めろ」

瑞木菀は短く頷いた。

彼女の眼は、すでに決まっている。

下に何があろうと――

必ず、人を引き戻す。

地下の血池では、阿虫が最初に意識を取り戻した。

だが、彼はすぐに目を開かなかった。

まず――聞いた。

どこかで絶え間なく続く、

「ぐる、ぐる……」という音。

巨大な腔体の奥で、粘ついた液体がゆっくりとかき混ぜられているような音。

「ぱた……ぱた……」

肉と肉が引き剥がされ、また繋がるような、湿った音。

そして、さらに遠くから――

幾重もの膜を通り抜けて届く、

はっきりしないが、確実に骨に染みる哀号。

それらを聴き終えてから、

阿虫はゆっくりと目を開いた。

視界に映ったのは、灯りではなかった。

暗赤色の、鈍い光。

血が熱を帯び、自ら発しているかのような微光だった。

身体を起こした瞬間、

掌が地面に触れる。

――その感触で、胃が裏返りそうになる。

柔らかい。

土の柔らかさではない。

肉の柔らかさだ。

まるで巨大な腸の上に立っているかのようで、

わずかな弾力と、ぬめりがあり、

しかも――ゆっくりと蠕動しているのが分かる。

幻覚ではない。

確かな感触だった。

阿虫の目が、一瞬で冷える。

顔を上げ、周囲を見る。

四方は、生き物の内腔のようだった。

暗赤色で、湿り、

表面には粘膜めいた反光が走っている。

腔壁はゆっくりと動き、

まるで呼吸しているかのようだ。

空間全体に、漂流するような歪みがあり、

立っているだけで、

身体の平衡感覚が少しずつ削られていく。

温度も異常に高い。

夏の夜の暑さではない。

焼かれるような、乾いた熱だ。

立ち上がっただけで、

体力と神識が急速に奪われていく。

見えない何かに吸われているようだった。

阿虫は喉を強く鳴らした。

――匂いが来た。

鼻腔を刺すほどの強烈さ。

鉄錆、腐肉、腥臭、

そして甘ったるい血の匂いが混ざり合い、

まるで内臓を直接掻き回されるようだ。

「……っ」

その時――

「……うっ……!」

剣蘭が目を覚ました。

視界に入った瞬間、

彼女は血池の中で攪拌される半融解の生物の残骸を見てしまった。

人型の四肢。

獣の骨。

正体不明の組織塊。

それらが粘稠な血液の中で混ざり合い、

まるで煮込まれているかのようだった。

剣蘭の顔から、血の気が引く。

口を押さえたが、間に合わない。

「……うっ、ぉえ……!」

嘔吐音が、血池の空間にやけに鮮明に響いた。

吐瀉物は血池に落ち、

一瞬で飲み込まれる。

波紋すら、ほとんど立たない。

剣蘭の全身が震える。

恐怖ではない。

生理的嫌悪と精神的衝撃が重なり、

魂まで引きずり出されるような感覚だった。

菖蒲が目を覚ましたのは、少し遅れてからだった。

起き上がった瞬間、

彼女の視線は一瞬、空を彷徨った。

だが次の瞬間――

瞳孔が、はっきりと収縮する。

声が聞こえたのだ。

人の声ではない。

冤魂の声。

血池で搾り取られた魂の残滓が、

この異空間を彷徨っている。

それは単なる「泣き声」ではなかった。

神識そのものを削るような、

持続的で、鋭い摩擦音だった。

精神感応の強い者ほど、

その影響は深刻になる。

菖蒲の顔色は、みるみる青白くなる。

呼吸が乱れ、

指先が震え、

額に冷や汗が滲む。

まるで無数の細い針が、

脳裏に突き刺さるようだった。

記憶。

罪。

責任。

そして、

つい先ほど真相によって裂かれた心の傷――

すべてを、強引にこじ開けられる。

冤魂たちは、そこに群がった。

恨みがあるわけではない。

ただ、本能的に――

「掴める魂」を掴んでいるだけだ。

菖蒲の視線が揺らぎ、

唇が震える。

精神が、崩壊の縁に引きずられていく。

「菖蒲!」

剣蘭が、吐瀉を堪えながら手を伸ばす。

だが、彼女自身の手も震えていた。

阿虫の胸が沈む。

自分の状態が最悪だと、分かっている。

極限戦闘の直後、

神識は空井戸のようだ。

だが、今ここで倒れるわけにはいかない。

阿虫は歯を食いしばり、懐に手を入れた。

護符。

残っている数は、わずか。

数枚を掌に押さえ、

指腹でなぞる。

符紋が、かすかな金光を放つ。

阿虫はそれを地面に散らした。

護符は腸壁のような地面に貼り付き、

金光が繋がり、

三人を囲む小さな結界を形成する。

結界が完成した瞬間――

冤魂の哀号が、

一枚隔てられたように弱まった。

菖蒲は大きく息を吸い、

溺水から引き上げられたように肩を震わせる。

こめかみを押さえ、

震えながらも、視線に焦点が戻った。

剣蘭も結界の縁にもたれ、

背中に冷たい汗を感じながら、低く呟く。

「……なんなんだよ、ここ……」

阿虫は答えなかった。

ただ、蠕動する腔壁を睨み、

低く言う。

「血池だ」

その言葉に反応するように、

結界の外の血液が、

ゆっくりと波打った。

彼らが脱出の方法を考える間もなく、

血池の表面が、ふくらみ始めた。

水泡のように。

いや――水ではない。

何かが、内側から這い出ようとしている。

次の瞬間――

「ぶちゅ……ぶちゅ……」

猩紅の腐肉が、血池の中から次々とせり上がる。

引きずり上げられるように、

無理やり“表”に出されるかのように。

それらは、ばらばらの塊ではなかった。

空中に浮かび上がった瞬間から、

見えない力に縫い合わされるように、

肉と肉が結合し始める。

引き寄せられ、

貼りつき、

押し潰され、

歪んだ形を作り上げていく。

やがて形成されたのは――

腐魔煞。

顔と呼べるものはなく、

肉が重なり合った塊の奥から、

半分だけ露出した眼球や、

不自然な角度で突き出た骨が覗いている。

四肢も、即席で捏ねられたような形だ。

関節の位置は狂っているのに、

それでも蠕動し、

確実にこちらへと迫ってくる。

足音はない。

あるのは、

湿り気を帯びた肉が地面を擦る、

粘ついた音だけ。

剣蘭は歯を食いしばり、

降魔棍を振り上げた。

「はあっ!」

――砰!

棍が腐魔煞を叩いた瞬間、

剣蘭の表情が凍りつく。

効かない。

叩き潰した感触が、ない。

力は柔らかい塊に吸われ、

肉は一度へこむだけで、

すぐに元に戻る。

腐魔煞は、

「痛み」という概念すら持たないかのように、

そのまま這い寄ってくる。

菖蒲が歯を噛み、

飛刀を投げ放った。

刃は腐肉を切り裂き、

血飛沫を散らす。

だが――

血は地面に落ちる前に、

血池に吸い戻される。

裂けた肉も、

蠕動の中で即座に塞がっていく。

効果は、ほとんどない。

阿虫は結界を維持しているため、

手を離せない。

結界の外では、

冤魂が押し寄せようとし、

内側では腐魔煞が距離を詰めてくる。

「このままじゃ――!」

菖蒲が低く叫ぶ。

その時、

剣蘭の眼差しが変わった。

彼女は、降魔棍を収める。

――諦めたのではない。

方法を変えただけだ。

両脚を踏み込み、

拳架を構える。

重心が落ち、

身体が刃物のように地面へと切り込む。

呼吸が深くなり、

気が集束していく。

次の瞬間、

彼女の肌に――飛雲戦紋が浮かび上がった。

薄雲が流れるような紋様。

派手ではないが、

現れた瞬間、

彼女の存在そのものが変わる。

棍を振る退魔者から、

己の身を刃とする武人へ。

「神我心意流――」

剣蘭は低く言い切る。

「飛龍式!」

飛龍式は、

速度による貫通と切断を極めた、

華麗にして凶烈な拳法。

剣蘭が動いた。

まず脚が走る。

龍の尾が薙ぐように。

――飛龍倒鉤・旋風脚!

空中に描かれた軌跡は、

一筋の光となり、

脚背は刃、踵は斧となる。

重量ではない。

速度そのものが切断力だ。

「――ッ!!」

腐魔煞の身体が裂け、

肉塊が風に削がれるように飛散する。

剣蘭は止まらない。

二撃、三撃。

彼女の身体は、

結界の縁で旋回し続け、

嵐のように脚を繰り出す。

腐魔煞は次々と切り裂かれ、

細切れになり、

即座に再構成できないほどに粉砕されていく。

菖蒲は息を呑んだ。

剣蘭の飛龍式は、

もはや“型”ではない。

気と肉体を極限まで研ぎ澄まし、

本物の刃になっていた。

腐魔煞の進行が、

一時的に止まる。

結界への圧も、

わずかに緩んだ。

剣蘭は息を吐き、

汗を額から落としながら言う。

「……ひとまず、止めた?」

だが、

阿虫の声は、さらに冷たかった。

「――いや」

剣蘭が目を見開く。

次の瞬間、

彼女は見た。

切り刻まれた肉片が、

動いている。

意志はない。

意思もない。

だが、

潮のように、

無意識の力がそれらを寄せ集めていく。

肉が貼りつき、

引き伸ばされ、

再び形を成す。

腐魔煞が、再生する。

しかも――

数は、増えていた。

同時に、

血池全体が大きく波打ち始める。

単なる揺れではない。

空間そのものが、

蠕動している。

腔壁が収縮し、

地面の柔らかさが増す。

まるで、

彼らを内部へと巻き込もうとしているかのように。

阿虫の瞳が鋭く縮む。

「……分かった」

彼は結界を押さえながら言う。

「この血池そのものが――“池”じゃない」

菖蒲が必死に問い返す。

「……じゃあ、何?」

阿虫は、吐き捨てるように言った。

「異空間だ」

「殺された無数の人間の精気神が凝縮して生まれた――

 生きた異空間」

彼は周囲を見回す。

「ここは、生き物だ」

剣蘭の喉が鳴る。

彼女は、初めて理解した。

これは死の恐怖ではない。

消化される恐怖だ。

阿虫は続ける。

「俺たちは、突然ここに落ちてきた“異物”だ」

一瞬、間を置いて。

「……排除される側だ」

その言葉と同時に、

血池が激しくうねる。

腐魔煞がさらに増殖し、

空間全体が“排除”の速度を上げる。

阿虫は歯を噛み締めた。

「走るぞ!」

彼は結界を縮め、

三人を包んだまま前へと駆け出す。

結界を引きずる感覚は重く、

圧が一気に増す。

阿虫の額に汗が噴き出し、

こめかみが締め付けられる。

剣蘭と菖蒲も必死に走る。

足元は柔らかく、

踏み込むたびに吸い付いてくる。

腔壁の動きはさらに激しくなり、

通路が歪み、

圧迫してくる。

冤魂の哀号も、

背後から迫ってくる。

空間全体が、

叫んでいるかのようだった。

「考えろ……!」

阿虫が唸る。

「くそ、走りながら考えるしかねえ!」

菖蒲は震える指で周囲を観察する。

「……この場所、

 無秩序じゃない……

 導線がある」

剣蘭の声が掠れる。

「私……もう、限界……」

彼女は弱音を吐いているのではない。

この精神圧は、

誰であろうと削られる。

阿虫は責めなかった。

ただ、速度を上げる。

一人でも精神が崩れれば、

結界は崩壊し、

三人まとめて呑み込まれる。

彼らは走る。

走るほどに、

ここが“戦場”ではないことが分かってくる。

――これは、処理施設だ。

血流は乱れていない。

明確な流れがある。

ある溝は血を深部へ導き、

ある区画には半融解の残骸が溜まり、

廃棄区のようになっている。

腔壁には暗赤色の管状器官が脈動し、

血液を各所へ送り出す。

まるで――

巨大な身体の、血管のように。

菖蒲の顔色が失われる。

彼女は見てしまった。

“濾過口”のような構造。

砕かれた魂が圧縮され、

さらに細かい怨渣となって血流へ戻される。

“溶解槽”のような区画。

肉体が完全に血池の一部へ変えられていく。

これは、

殺戮ではない。

分解だ。

剣蘭の声が震える。

「……どれだけ、

 死ねば……」

菖蒲はかすれた声で答えた。

「方家堡の人間……

 ほぼ、全て吸魂されている」

殷翦璃の言葉が脳裏をよぎる。

――「血池は、方家堡全体の地下にある」

それは説明ではなく、

宣告だったのだ。

やがて、

空間の歪みがさらに強くなる。

中心に近づいている。

その時――

前方に、

渦が現れた。

液体の渦ではない。

血気と空気が絡み合い、

収縮と膨張を繰り返す一点。

半ば開いた“眼”のように、

冷たくこちらを見ている。

三人は、

本能的に足を止めた。

――その時だった。

渦の中で、

血が凝結を始める。

固まるのではない。

形作られている。

血は持ち上がり、

階段となっていく。

一段、一段。

誰かの登場を待つ、

舞台装置のように。

その過程は遅く、

だが、背筋が凍るほど確実だった。

――ここには、

環境を超えた“主”がいる。

階段の先に、

影が現れる。

全身を血に染めた――

紅髪の魔族の女。

彼女の肌は血に洗われ、

冷たい艶を帯びている。

瞳は純粋な赤ではなく、

暗紅の奥に、

さらに深い闇を宿していた。

彼女が立つだけで、

血池は律動を揃え、

命令を受けたかのように蠢く。

彼女は血の階段を下りてくる。

足を下ろすたび、

血は跳ねず、

従うように左右へ分かれる。

菖蒲の喉が鳴る。

ほとんど反射的に、

その名を口にした。

「……血魔将」

剣蘭が拳を握りしめる。

「……殷翦璃が言ってた……」

阿虫は答えない。

彼の視線は、

深井戸のように沈んでいた。

結界の圧が、

彼女の出現と同時に変わった。

重くなったのではない。

――明確になったのだ。

血池全体が、

同時に命令を受けた。

三人を、

逃がさない。

血魔将は血階の下で立ち止まり、

彼らを見下ろす。

唇が、わずかに歪む。

笑みではない。

――材料を見る目だ。

彼女の声は低く、

冤魂の哀号を貫いて、

直接神識に落ちてくる。

「……なるほど」

「廃棄物では、なかったか」

視線が阿虫に留まる。

わずかに間を置き、

何かを嗅ぎ取ったように。

そして、

首を傾げる。

「……御魂師?」

阿虫の指先が、わずかに強張った。

彼は理解する。

――血池の夜宴は、

今、始まったばかりだ。

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