第十六話 方家堡編 其ノ四 激化
爆発音が陰城の上空を転がった瞬間、
まるでこの鬼城の“骨”を誰かが無理やり鳴らしたかのようだった。
それは単なる轟音ではない。
空気に沈殿していた死気そのものが引き裂かれ、
沼のように粘ついていた陰冷が、刹那、ぽっかりと空白を生んだ。
だが次の瞬間、
黒気は逆流する潮のようにその空白へ流れ込み、
以前よりもなお濃く、重く、
まるで城そのものが怒り、
均衡を乱した存在を本能的に呑み込もうとするかのようだった。
小屋の中、梁に吊るされた鈴が一斉に震えた。
鳴らない。
だが、すべての鈴舌が限界まで張りつめ、
あと一歩で鼓膜を裂く甲高い音を吐き出す――
そんな不吉な予感だけが空間を満たしていた。
灯火も揺れる。
炎は明滅を繰り返し、芯が「パチ、パチ」と乾いた音を立てる。
見えない気流に喉元を押さえつけられ、
いつ掻き消されてもおかしくない弱々しさだった。
阿虫は扉の前に立ち、掌を木板に当てる。
結界の表面が、波紋のように揺らぐのを確かに感じ取った。
その感触は、
怨霊がぶつかる時の冷たく粘つくものとは違う。
もっと“澄んだ”衝撃――
術式の余波が封界の縁に触れたときの、
わずかに熱を帯びた気の流れだった。
「……堡主じゃないな」
阿虫が先に口を開く。
声は低く、冷たい。
菖蒲はすでに立ち上がり、背筋を張ったまま闇を睨んでいた。
「傀儡どものやり方とも違う」
瑞木菀はすぐには答えず、目を閉じて一息、耳を澄ませた。
ほどなく、
街路の奥から二度目、三度目の爆鳴が届く。
間隔は乱れ、
計算も抑制もない――感情に任せた乱射。
「重火器だ」
瑞木菀は目を開き、淡々と告げる。
「しかも使い手は素人」
阿虫は扉から手を離し、指を軽く鳴らした。
「出るぞ」
扉を開けた瞬間、陰風が叩きつける。
外の街路は相変わらず薄暗く、
軒先から垂れ下がる黒気は、濡れた布のように重く揺れていた。
路地に立ち尽くしていた“人皮のもの”たちは、
爆発の余波で「停止」を解かれ、
同じ意志に操られるかのように一斉に向きを変え、
音のする方角へ動き始める。
足音はない。
あるのは、衣擦れの「ざり、ざり」という不快な音だけ。
小屋を出てすぐ、
彼らの視界に火光が映った。
火の中に立つのは、一人の少女。
両側に垂らした結い髪は、走り回ったせいで乱れ、
毛先は焦げ、鼻を刺す焦臭さを放っている。
青と白を基調とした装束――問天教の意匠。
本来は簡潔で清潔なはずの服は、
灰にまみれ、裂け目が走っていた。
そして何より目を引くのは、
彼女が抱え込む“それ”。
龍弩砲。
短い城壁のような砲身に、
符紋が金属回路を這うように走り、
白く眩しく輝いている。
気能の貯槽は唸り続け、
無理やり満たされた獣が爆ぜる寸前のようだった。
少女は歯を食いしばり、
ほとんど力任せにそれを支えている。
掌には赤い痕が浮き、それでも手を放そうとしない。
「来いよ――!」
迫り来る屍煞に向かって叫ぶ。
「魂を奪うんだろ!? 来い!」
轟――!
引き金が引かれ、
蒼白い気能弾が黒気を裂き、
巨大な刃のように屍潮へ叩き込まれる。
前列の屍煞が爆散し、
皮と黒気が飛び散った。
壁に貼りついた人皮が、濡れ布のように震える。
だが、退かない。
破壊された隙間は即座に埋まり、
むしろ速度を上げて迫ってくる。
菖蒲が眉を寄せた。
「問天教の者が……あんな無茶な撃ち方を?」
問天教は人界の均衡を守る宗派だ。
あの青白の装束を見誤るはずがない。
だが少女の戦い方は、
地形も回路も考えず、退路すら残さない。
初めて刃を持たされた小獣のような、
「死にたくない」という本能だけの動きだった。
瑞木菀は砲身の符紋の明度を一瞥し、冷静に告げる。
「気能を無駄遣いしている。回路は限界だ」
「このままじゃ――三十息で沈黙する」
言い終える前に、
少女が再び引き金を引いた。
符紋が一瞬だけ瞬き、
灯油の尽きかけた火のように揺れ、
そして暗転した。
重い空撃ち音。
「……え?」
少女は砲身を見下ろし、顔色を変える。
貯槽を叩き、目覚めさせようとするが、
応じたのは疲れ切った呻きだけだった。
屍煞はすでに十歩以内。
その時、
屋根の上から黒い塊が落ちる。
飛頭魔煞。
脊椎を引きずる頭部。
断裂面から黒気が噴き出し、
濡れた牙が剥き出しになる。
音もなく、俯角で少女の喉元へ。
少女の瞳が縮む。
龍弩砲を取り落とし、鈍い音が鳴った。
腰から掴み出したのは、掌大の八稜鏡。
晶体に封じられた符が、
神識の乱暴な注入で強引に起動する。
「――流砂!」
地面が震え、
石畳の隙間から砂が溢れ出し、
屍煞の足を絡め取る。
一瞬、動きが鈍る。
だが少女の体がぐらついた。
神識の枯渇による反動。
八稜鏡は一度瞬いて、沈黙する。
飛頭魔煞の牙が迫る。
その瞬間――
低い獣吼。
金属の残像。
瑞木菀の鎧魂萃が迅豹の霊獣形態となって地を砕き、
背に跳び乗った彼女が少女を引き上げた。
間一髪。
魔煞は噛み損ね、焦げた髪を一房奪うだけだった。
「行くぞ」
短く言い、瑞木菀は少女を連れ戻す。
飛頭魔煞の牙が空を切った瞬間、
瑞木菀は迅豹の背から少女を引き下ろし、地面へと放った。
少女はよろめきながら着地し、息を荒くする。
喉元に残る冷気が、遅れて恐怖として追い上げてきた。
「……放しなさいよ!」
それでも彼女は強がり、声を荒げる。
「誰に頼んだって言うの!?」
瑞木菀は振り返りもしない。
迅豹を半歩前に出し、屍煞の進路を塞ぎながら、淡々と言い放つ。
「あと半瞬遅れてたら、お前はもう噛み砕かれてる」
少女は言葉に詰まり、唇を噛んだ。
「……それは、たまたまよ!」
「生きてるのが“たまたま”だ」
瑞木菀の声は冷たい。
「次はない」
彼女は少女を一瞥しただけで、それ以上相手にしなかった。
菖蒲が一歩前に出る。
怒りを抑えた声だったが、問いは鋭い。
「あなた、問天教の弟子ね?」
「なぜこんな場所に単独で? しかも龍弩砲を乱射するなんて――」
少女は顎を上げ、食ってかかる。
「私は金釵、勝手に来たんじゃない!」
「兄弟子を探しに来たのよ!」
その名を吐き捨てるように言う。
「――諸葛剣平!」
その瞬間、
懐玉の肩が、はっきりと緩んだ。
「……来てくれたのか」
喉を震わせるような声だった。
阿虫は一言も挟まなかった。
ただ、金釵の手首に視線を落とす。
そこに嵌められた護命の腕輪。
一目で分かった。
かつて、自分が渡したもの。
巡り巡って、ここにある。
阿虫は何も言わない。
確認は済んでいた。
ただ淡々と告げる。
「今は人探しをしてる場合じゃない」
「死にたくなければ、これ以上足を引っ張るな」
金釵は即座に睨み返した。
「あなた何様――」
その言葉は、最後まで続かなかった。
空気が、沈んだ。
まるで城そのものが息を吸い込み、
次の瞬間に吐き出す準備をしたかのように。
死気が街路の奥で渦を巻き、
黒霧が裂け、その奥から“形”が現れる。
方家堡主――
鬼王・方正彪。
彼は影から出てきたのではない。
影そのものが凝縮し、人の形を取ったかのようだった。
歪んだ冠。
裂けた衣。
焼けただれたように引きつった皮膚。
眼窩は闇。
底の見えない、怨の穴。
鬼王は急がない。
ただ、ゆっくりと視線を巡らせる。
その視線が通るだけで、
背骨に冷たい刃を当てられたような錯覚が走る。
やがて、その目が少女に向いた。
龍弩砲の残光。
爆発の痕。
鬼王の口元が歪む。
「――蟻が」
声は低く、地を這うようだった。
叫びではない。
魂そのものを削る振動。
「この地を、乱すとは」
次の瞬間、
方家堡全体が“応えた”。
屋根の陰。
路地の奥。
閉ざされた門の隙間。
あらゆる場所から、
より“濃い”存在が湧き出す。
精鋭屍煞。
皮は張り付き、
動きは鋭く、
黒気が皮下で脈動している。
音もなく包囲が完成する。
退路は消えた。
金釵の顔色が、ようやく完全に青ざめた。
菖蒲が即座に判断する。
「……囲殺」
「数で押す気じゃない。潰しに来てる」
瑞木菀は長槍を構え直す。
穂先に残る黒気の痕が、鈍く光った。
「三歩も詰められたら、身動きが取れなくなる」
剣蘭は降魔棍を握り、懐玉の前に半身を置く。
表情は硬いが、退く気配はない。
懐玉の声は震えていた。
「結界は……小屋の中だけだ」
「分かってる」
阿虫が短く遮る。
彼は鬼王を見据えたまま、吐き捨てるように言った。
「……ここまで来たら、やるしかない」
阿虫は素早く指示を飛ばす。
「俺が鬼王を引き受ける」
「瑞木菀、道を開け。屍煞は全部任せる」
「菖蒲、剣蘭。懐玉を死守しろ」
「それから――」
阿虫は金釵を一瞥する。
「お前は動くな。次に勝手なことをしたら、先に俺が叩き落とす」
金釵は唇を噛み、反論を飲み込んだ。
八稜鏡を握る手が震えている。
恐怖ではない。神識の枯渇による、どうしようもない無力感。
鬼王が、ゆっくりと腕を上げる。
黒気が触手のように広がり、
精鋭屍煞が一斉に前進した。
圧迫感が押し寄せる。
風はない。
だが、無数の冷たい手が皮膚に触れ、
内側へ、骨の奥へと押し込んでくる。
呼吸するだけで、力が要った。
「合神」
瑞木菀が短く言う。
彼女の顔に瑞木家の豹紋の戦紋が浮かび上がり、鎧魂萃の光が彼女の内側から爆ぜた――まるで猛獣が目覚める、その瞬間のように。
――鳳翎専用装甲
無式拾式改・疾豹。
金属が骨格をなぞるように展開し、
獣の輪郭を思わせる鋭い装甲が彼女を覆う。
長槍も変形する。
分節が解かれ、鎖が伸び、
刃が光の輪となって腕に絡みつく。
彼女が立つだけで、
“人”という枠が消えた。
「開く」
一振り。
銀の軌跡が走り、
精鋭屍煞をまとめて薙ぐ。
空洞を叩くような鈍音。
だが今回は、皮下の黒気が裂け、
悲鳴のような「嘶き」が上がる。
数体が壁に叩きつけられ、
人の形のまま張り付いた。
それでも、屍潮は止まらない。
瑞木菀は退かず、
獣のように動き続ける。
菖蒲の飛刀が閃き、
剣蘭の棍が唸る。
懐玉は守られながらも、
必死に目を逸らさなかった。
そして――
阿虫は前に出る。
鬼王と、真正面から向き合った。
鬼王は殺意を急がない。
獲物が尽きるのを待つ捕食者のように、
余裕をもって見下ろしてくる。
阿虫は符紙を挟み、
指先を切った。
血が滲む。
符が光る。
「……合神」
戦紋が浮かび上がり、七殺の鎧の光が、彼の内側から爆ぜた。
刃のような気配が、
一気に引き上げられる。
鬼王の黒鞭が振り下ろされる。
阿虫は正面から受けた。
轟――!
石畳が砕け、
黒気が弾け散る。
試探は、終わった。
方家堡の夜は、
完全に――激化へと突入した。




