第十七話 方家堡編 其ノ五 真相
「激化」ののち、
方家堡の夜は、完全に――
煮え立つ黒鍋と化していた。
街路に風はない。
だが陰気は潮のように押し寄せ、幾重にも重なって肺を圧迫する。
息を吸うたび、湿った布の中から無理やり空気を絞り出すようだった。
精鋭屍煞が四方から合流する。
人皮をまとった躯体は、黒霧の中を音もなく前進し、
その動きは吐き気を催すほどに整っていた――
まるで、同じ手に糸を引かれた木偶人形の群れのように。
さらに奥。
黒気の中心に、鬼王・方正彪が浮かんでいる。
歪んだ冠。
裂けた衣。
焼かれた皮膚のように縮こまり、引き攣った顔。
だが、その眼だけは――
底なしの闇だった。
そこには、尽きることのない怨が渦巻いている。
そして――
阿虫は、その最前に立っていた。
七殺鎧が全身を覆い、
冷たく硬い紋様は、骨に刻み込まれた古傷のように見える。
暗光が肩甲から腕甲の縁を伝い、
まるで“呼吸している”かのように脈動していた。
それは華美な光ではない。
誇示もしない。
ただ――殺の気配。
派手さはない。
だが、それだけで人は本能的に、一歩引きたくなる。
後方で、剣蘭が彼を見つめる。
理由もなく、胸が一瞬締めつけられた。
阿虫が強いことは、ずっと知っている。
認めたくなくて、口では否定してきた。
だが今、そこに立つ背中は、
まるで地面に無理やり打ち込まれた境界線のようだった。
背後は人。
正面は鬼。
菖蒲は懐玉の傍に付き、
飛刀を指に掛けたまま、冷静な眼で戦場を見据える。
彼女の冷静は、恐れていないからではない。
恐れても無意味だと知っているからだ。
ここで一歩退けば、懐玉の魂に触れられる。
一人でも魂を掴まれれば、
この場は疫病のように、一気に崩壊する。
瑞木菀は側翼。
鳳翎専用装甲《無式拾式改・疾豹》はすでに展開され、
鎖刃槍の節が、手首の上で微かに震えていた。
獣が喉音を押し殺す、その直前のように。
彼女の換位は、すべてが最小限だ。
戦場で最も“清潔”な殺しの動き。
歩幅も、呼吸も、感情すら――一切の無駄がない。
問天教の少女、金釵は隊列の後方に追い込まれ、
八稜鏡を白くなるほど握り締めていた。
口では強がっているが、
神識の枯渇による虚脱感は、冷や汗のように背中へ貼りついている。
手首の護命手環は、陰気の中でひんやりと冷たかった。
彼女は、この鬼城の“重さ”を知らない。
ただ一つだけ分かっている。
――これ以上近づけば、
本当に死ぬ。
鬼王の声が、圧し掛かる。
鉄刃が骨を削るような低音。
「……我が城を乱す者、
すべて供物と知れ」
次の瞬間、
黒気が巨大な逆流となって押し寄せた。
精鋭屍煞、同時に前進。
それは包囲ではない。
吞噬だった。
瑞木菀が、先に動く。
鎖刃槍を一振り。
銀の弧が、裂けた月のように横薙ぎに走る。
前列の精鋭屍煞が、力尽くで切り裂かれた。
人皮が裂ける音は、濡れ布を引き裂くように生々しい。
皮下から黒気が噴き上がり、甲高い「シィ――」という音を立てる。
だが、退かない。
裂けた躯体はなおも前進する。
まるで、死んだことを認めないかのように。
菖蒲の飛刀が連続で閃く。
狙いは眉間のみ。
正確無比に貫く。
それでも――
倒れる速度より、補充される速度の方が速い。
剣蘭の降魔棍が横薙ぎに唸り、
金属の重い風音とともに屍煞を弾き飛ばす。
だが感触は虚ろだ。
反発はあるが、勝った手応えがない。
まるで、粘ついた腐泥を叩いているようだった。
懐玉は中央で守られ、喉が引き攣る。
外で起こる裂傷音、黒気の噴出――
その一つ一つが、彼の記憶の奥にある屠殺の匂いを呼び起こす。
血。
鉄錆。
湿った木。
灰。
それでも、目を閉じない。
閉じた瞬間、自分を差し出すことになるから。
阿虫は、振り返らない。
ただ、鬼王だけを見据えている。
「……怨がそこまで濃い割に」
阿虫が口を開く。
声は低く、冷たい。
炎に水を浴びせるように。
「――この程度か?」
鬼王の眼窩で、怨がざわめく。
刺激され、さらに荒れ狂う。
「蟻が……」
黒気が凝縮し、鞭の影となって振り下ろされた。
鞭が届く前に、空気が裂ける。
鼓膜が一枚、無理やり剥がされるような感覚。
剣蘭が反射的に踏み出そうとするが、
菖蒲が一瞬で腕を掴んだ。
――阿虫が、手を上げた。
虚空を掴む。
その掌に、七殺魄が顕現する。
七種の武器形態へ変化可能な七殺魄は、
今この瞬間、短い金鳴を放った。
背部装甲と連動した七殺魄が展開し、
一対の双剣へと変じる。
刃は互いを映し、
噛み合う獣の牙のように――
自律的に阿虫の掌へ収まった。
阿虫は、すぐには振らない。
懐から、小さな欠片を取り出す。
――願魂碎片。
結晶化した月光のようであり、
凝固した溜息のようでもある。
握ると、指先に微かな刺痛が走る。
他人の夢。
他人の願。
他人の、叶わなかった不甘。
阿虫の親指が、静かに力を込める。
「……カ」
小さな破砕音。
だがそれは、この陰城で骨を叩く音のように響いた。
砕けた光の粉が、細雪のように舞い、
双剣の刃へと貼り付く。
刃に宿ったのは、見えない重さ。
輝いたのではない。
沈み、鋭くなった。
魂の縁すら、切り裂ける重み。
阿虫の視線が、一瞬だけ冷える。
独り言のように、呟く。
「……本当は使いたくない」
誰かに説明するようでもあり、
自分に命じるようでもあった。
「集めるためのもんだ。
消費するためじゃない」
言い終えた瞬間、黒鞭が迫る。
阿虫は、迎え撃った。
双剣交差――
「ガンッ!」
それは金属音ではない。
怨気と鎧甲、符力と鬼意が正面衝突した轟音だ。
足元の石板に、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
黒気は弾け、即座に巻き戻る。
鬼王は怒り、口を開いた。
鬼火連撃。
それは火ではない。
怨魂が凝縮された焔。
一つ一つの火塊の中に、
歪んだ顔が無数に見える。
泣き、罵り、噛みつく。
連珠のように降り注ぎ、
空中ですでに神識を削る啸音を放つ。
阿虫が動く。
双剣連斬。
速い。
だが乱暴ではない。
すべての斬撃が、
ある“線”に沿っている。
火塊を斬っているのではない。
――鬼火の魂線を断っている。
斬られた鬼火は爆ぜない。
腹を裂かれたかのように、
黒い糸となって解体される。
刃の下で、哀嚎は断ち切られた。
剣蘭は、息を呑む。
これまで、ただ“狠い剣”だと思っていた。
だが今、はっきり分かる。
これは狠さではない。
理解だ。
菖蒲が、低く言う。
懐玉に向けてでもあり、剣蘭へでもある。
「……戒兄の御魂術」
彼女の視線は、戦場でも揺れない。
「御魂術を、神我心意流拳法に融け込ませた。
それが、戒兄の“我流”」
「斬っているのは、躯体じゃない。魂よ」
一拍置いて、
彼女は阿虫の背を見つめる。
「阿虫は拳が得意じゃない。
でも同じことをしている」
「御魂の力を、剣に融け込ませた」
「だから斬れる。
力じゃない。魂の“関節”を斬っている」
剣蘭の喉が、無意識に鳴る。
胸を何かが打った。
夏侯戒の、あの背中。
絶対的な安心感。
――今、同じ場所に阿虫が立っている。
鬼王は咆哮した。
黒気が逆巻き、屋根の陰から二体の飛頭魔煞が躍り出る。
それは脊椎を引きずる二つの頭部。
濡れた牙が剥き出しになり、口を開くたびに腥い風が叩きつけられる。
狙いは正確だった。
阿虫の後頸と喉元――
これは試しではない。
命を盗る動きだ。
阿虫は、振り返らない。
ただ、手首を返した。
双剣が、その手を離れる。
その瞬間、
剣蘭は一瞬、正気を疑った。
――この距離で、武器を投げる?
だが、次の刹那。
「シュッ、シュッ!」
二道の寒光が、夜空を雷光のように貫いた。
飛頭魔煞は、悲鳴を上げる暇すらなかった。
一体は、頭部を正面から剣に貫かれ、
怨気を炸裂させながら黒雨と化す。
もう一体は、
短剣に斜めに切り裂かれ、
縫い糸を断たれた肉袋のように、空中で崩壊した。
双剣は弧を描き、
見えない糸に引かれるように阿虫の掌へと戻る。
阿虫は、再び剣を握る。
呼吸は乱れていない。
これが、彼の“成熟”だった。
多くを語らないことでも、
冷酷を装うことでもない。
――最も危険な瞬間に、
感情より先に身体が動くこと。
鬼王は、ようやく理解した。
これは、数で圧し潰せる獲物ではない。
怨気が、収束を始める。
街道全体の黒霧が、
巨大な口に吸い込まれるかのように、
鬼王の胸元へと集束していく。
それは単なる蓄積ではない。
この城に死んだ者すべての
「不甘」を、無理やり一束にねじり上げる行為だった。
菖蒲の瞳孔が、わずかに縮む。
声が、瞬時に低くなる。
「……来る」
瑞木菀は、屍潮の中を力尽くで切り裂き、
側翼を護りながら小さく吐き捨てる。
「まったく、きりがない」
だが視線は逸らさない。
この一撃が外に漏れれば、
後方の魂が直接損傷を受けると理解しているからだ。
阿虫も、察していた。
彼は、無理をしない。
もう一つ、願魂碎片を取り出す。
「カ」
破砕音。
光の粉は、今度は剣へ纏わせない。
彼は腕を振り、
数枚の符紙を地面へと撒いた。
符紙は落下と同時に燃え上がる。
だが、それは火ではない。
淡金色の「界」。
符文が地面から這い上がり、
幾重もの細線となって、
阿虫と鬼王の戦場を囲い込む。
――臨時結界。
阿虫の声は、冷たい。
命令のようであり、
警告のようでもあった。
「近づくな」
「これに触れたら、魂が傷つく。
――永久にだ」
剣蘭の胸が、冷たく締め付けられる。
この瞬間、はっきり分かった。
阿虫は、無謀ではない。
彼は、分かった上で立っている。
この局面でも、
まず仲間の魂を護っている。
鬼王の怨気が、完全な形を取る。
それは、黒く輝く噬魂。
無数の顔を縫い合わせたような巨蛇。
口を開けば、内部は叫びと哭き声で満ちている。
それが、轟然と阿虫へ突進した。
黒蛇は結界へ衝突する。
結界は波紋のように震え、
低く「ン……」と唸る。
硝子が砕ける直前の音。
だが、割れない。
阿虫は、
すべての代価を「耐える」一点に注ぎ込んでいた。
噬魂の怨が、阿虫の身体へ絡みつく。
無数の冤魂が、鎧甲の隙間へ貼り付き、
あらゆる紋路から侵入しようとする。
――歓喜。
ついに獲物を見つけた。
強者の魂だ。
喰らえば満たされ、狂える。
冤魂たちは、啃り始める。
笑い始める。
耳元で囁く。
恨め。
怨め。
痛め。
すべてを差し出せ――
だが。
次の瞬間。
笑い声が、止まった。
それは斬られたのではない。
押し潰されたのだ。
冤魂たちは、
より深い闇に触れてしまった。
それは、鬼王の怨でも、
城の怨でもない。
――阿虫の魂、その本質。
底の見えない井戸。
深く、沈み、終わりがない。
そこにあったのは、
激情ではなかった。
徹底的に壊されたものが、まだ残っている
愛したものは、死んだ
信じたものは、砕けた
それでも――彼は、狂っていない
その狂っていない克制こそが、
どんな狂気よりも恐ろしかった。
冤魂たちは、初めて恐怖の声を上げる。
阿虫の眼が、噬魂の中で一瞬だけ空になる。
何かに貫かれたように。
だが、すぐに――
それを、深く押し戻す。
刀を鞘へ収めるように。
彼は、怨を――吸い込んだ。
抵抗ではない。
防御でもない。
鬼王が叩きつけた怨と、
冤魂の噛みつきすべてを、
自分の魂域へと呑み込んだ。
結界の外で、剣蘭が息を詰める。
阿虫の鎧の縁から、黒気が溢れ、
それが、さらに深い暗光に喰われていく。
それは勝利の光ではない。
――吞噬の暗。
菖蒲の指先が、氷のように冷える。
彼女は理解してしまった。
阿虫の恐ろしさは、剣術だけではない。
すべての痛みを魂の底へ沈め、
爆発させずに押し留める――
その在り方だ。
阿虫が、手を上げる。
七殺魄の双剣が合一し、
再び長剣の形を取る。
刃は、より長く、より重い。
そこには、吸収した怨が絡みついていた。
もはや散らばらない。
無理やり一条にねじられ、
剣脊に貼り付いた蛇のように、従っている。
阿虫が、低く呟く。
「九天……飛魄」
一歩、踏み出す。
速さではない。
安定。
あまりに安定していて、
これは「振るう」のではなく、
「下す」一撃だと分かる。
長剣が、落ちる。
――奥義・九天飛魄斬!
剣光は白ではない。
黒を帯びた、冷たい光。
街路が、天裂に引き裂かれたかのようだった。
すべての怨魂の哀嚎が、
一線に圧縮され、
剣勢とともに鬼王の胸へ叩き込まれる。
鬼王の身体が、中心から貫かれる。
怨気は、爆散するのではなく――
崩壊した。
彼の口から漏れた声は、
咆哮ではない。
追い詰められ、逃げ場を失った父の――
泣き声だった。
鬼王は、空中から墜落する。
街道中央へ叩きつけられ、
黒気が、沸き立つ水のように跳ね上がる。
同時に。
菖蒲、剣蘭、瑞木菀を囲んでいた精鋭屍煞が、
糸を断たれたかのように――
止まる。
そして、一体ずつ崩れ落ちる。
人皮は残ったまま。
だが中身を失った袋のように、
「どさり」と軽い音を立てる。
城に存在していた
統一された意志が、断ち切られた。
戦場は、異様な静寂に包まれる。
遠くの灯火が、ぱちぱちと鳴る。
――終わりではない。
ただの、呼吸だ。
阿虫は、まだ気を抜かない。
彼は手を上げ、指先を軽く引いた。
――魂網。
肉眼ではほとんど捉えられないほど細密な符線が、
彼の掌から広がっていく。
それは網の形を成し、
崩れかけた鬼王の怨体を包み込み、
逃げ場を与えぬよう、きつく縛り上げた。
鬼王はもがく。
もがくほど、怨気はさらに膨れ上がる。
噛みつく先を失った獣が、
自分自身を引き裂くような唸り声を上げる。
だが、押さえ込まれている。
ただ低く、引き裂けたような声を漏らすだけだ。
阿虫は一歩、近づく。
剣を持ち上げる。
――本来なら、ここで終わりだった。
だが。
剣先が落ちる、その直前。
陰気の中から、
一つのはっきりとした輪郭が浮かび上がった。
方正行の亡魂。
衣冠はなお整い、
顔色は蒼白だが、屍煞のような灰色ではない。
彼は結界の縁に立ち、
阿虫に向かって、深く一礼した。
声は抑えられていた。
だが、喉の奥で震えている。
「……お待ちください」
阿虫の剣が、空中で止まる。
視線は冷え切っている。
「情けを乞うつもりか」
方正行は顔を上げる。
その瞳には、痛みと、
どうしても手放せない執念が混じっていた。
「父のためではありません」
「私は……ただ、真相を知りたい」
魂網に縛られた鬼王を見る。
声が、初めてはっきりと揺れた。
「これほど怨が深いのなら――
必ず、冤があるはずです」
「冤が解けぬ限り、
父の魂は散りません」
「さらに怨み、さらに毒となるだけです」
その時、
菖蒲と剣蘭がようやく近づいてきた。
群戦から抜け出したばかりで、
呼吸はまだ荒い。
瑞木菀も攻勢を一部解除し、
鎖刃槍を収め、側方に立つ。
まるで沈黙した銃のように。
菖蒲は、
今にも爆ぜそうな鬼王の怨を見つめ、
胸の奥が重く沈むのを感じていた。
低く、阿虫に問いかける。
「……あの夜のことを、
確かめる方法はない?」
阿虫の口元が、わずかに歪む。
無理やり、
苦いものを呑み下したような表情。
「方法ならある」
菖蒲を一瞥し、
声音は鋭く、まるで取引のようだ。
「あとで、金は払え」
「相応の銀だ」
「安い仕事じゃない」
菖蒲は一瞬、言葉を失う。
だが、すぐに小さく頷いた。
「……分かった。約束する」
阿虫は、鼻で嗤う。
渋々、という息遣いで。
彼は鬼王の傍へ歩み寄り、
しゃがみ込み、
さらに多くの願魂碎片を取り出した。
今度は、一つ二つではない。
掴んだまま、
一把ずつ、地面へと撒く。
碎片は黒泥の上に散り、
星屑のように瞬いた。
一つ一つが、微かな光を放っている。
その光は薄い。
だが、異様なほど密だ。
それは――
無数の人の願。
無数の人の夢。
無数の人が、死に際に言えなかった言葉。
それらが、
薄い層となって、地面に積もっていく。
阿虫の額に、汗が滲む。
この術が、危険であることを
彼は誰よりも理解していた。
危険なのは、神識の消耗だけではない。
――術者自身の魂を、
橋として使い、
過去を引きずり出すこと。
彼は低く言葉を紡ぐ。
呪文のようであり、
同時に、
封じ込めてきた何かを押さえつける声でもあった。
「……九天回夢」
符光が、立ち上がる。
願魂碎片の光は、
点火された星海のように一斉に反転し、
上空へと巻き上がった。
空気から、温度が抜け落ちる。
その場にいる全員が、
同時に、めまいを覚える。
――眩暈ではない。
時間が、足元で一段崩れた感覚。
景色が歪む。
街路、屍体、黒気――
水に浸された絵のように、
輪郭を失い、褪せていく。
代わりに現れたのは、
雷雨だった。
轟雷が屋根を叩き、
雨粒が瓦を打つ音は、
無数の小石を投げつけるよう。
その夜の方家堡は、まだ生きていた。
灯火は明るく、
人の声があり、
遠くには仮設の戯台。
新しい木梁、張り詰めた綱、
かすかに聞こえる楽の音。
彼らは――見ている。
伝聞ではない。
語りでもない。
目の前で起きている。
方正行は廊下に立ち、
衣が風に翻る。
方正达と向かい合い、
言葉は次第に鋭くなっていく。
刃と刃が、互いを削るように。
彼らが争っていたのは、
「女」ではない。
――愛の行き先だった。
やがて、
方正行は沈黙する。
瞳に、一瞬の疲労が過ぎった。
それは、
彼が初めて「負け」を認めた瞬間だった。
低く、言う。
「……退く」
彼は、背を向ける。
その刹那――
足元の雨水が、油を引いたように滑る。
彼は、足を取られた。
完全な叫びを上げる暇もなく、
身体は均衡を失い、
階段を踏み外す。
後頭部が、石の縁に強く打ちつけられた。
「――ゴン」
雷雨の中では小さな音。
だが、
それは誰の胸にも
槌のように落ちた。
方正行は倒れ、
雨水が血を洗い流していく。
赤は石の隙間を伝い、
細い命の筋となった。
方正达が駆け寄る。
名を呼び、
抱き上げる。
手は、狂ったように震えている。
だが、
方正行の瞳は、もう焦点を結ばない。
――これは、殺しではない。
事故だ。
だがこの世界では、
事故はしばしば、
殺しよりも残酷だ。
理由を与えず、
救済も与えない。
場面が、反転する。
方家堡の住民たち。
雨上がりの路地に集まり、
口が動き、
目が光る。
「次男が横恋慕した」
「素行が悪かった」
「兄を妬んでいた」
「だから殺した」
声は、雪玉のように転がる。
最初に言った者は、
本当に信じていなかったかもしれない。
だが、言葉は重なり、
やがて皆が信じた。
――信じた方が、
自分が「正義の側」に立てるから。
殷翦璃は、
少し離れた場所に立っていた。
まだ、戯服を脱いでいない。
顔色は、蒼白。
何か言おうと、口を開く。
だが、すぐに分かった。
――言えば、もっと悪くなる。
彼女は、人ではなかった。
「紅顔禍水」
「妖女」
「家を壊すもの」
群衆の視線は刃となり、
一枚一枚、彼女を削った。
捕えられてはいない。
だが、それ以上に痛い。
定義されたのだ。
方正彪が前に出る。
事態を鎮めようとした。
だが、それは「騒動」を鎮めることではなかった。
――これは、風波ではない。
――これは、民心だ。
真相がどうであれ、
彼は答えを出さねばならなかった。
なぜなら、
民意に逆らえば、堡内は乱れる。
民意に従えば――
もう一人の息子を、刑台へ送ることになる。
二人の息子。
一人は、事故で死に。
もう一人は、衆口に殺される。
雨の中で、
方正彪の顔は、目に見えて老いていった。
彼は、断崖の縁に立たされていた。
左右は、どちらも血。
場面が、再び転じる。
――北王府。
朝議。
「精査すべきだ」という声。
「軽率な裁断は避けよ」という声。
「まず民心を安定させるべきだ」という声。
それらは、
途中で、すべて止められた。
司馬馨が、高座に座っていた。
その眼差しは冷たく、
刀の背で、すべての言葉を押さえつけるようだった。
彼女は、最後まで聞かなかった。
ただ、一言だけ告げた。
「平民意を以て、先と為す」
命が下る。
方正达――
殺人の罪、成立。
処刑。
その瞬間、
菖蒲の指先から、血の気が引いた。
彼女は見た。
制度が、いかに真相を押し潰すか。
責任が、いかに人命を呑み込むか。
“安定”という言葉が、いかに鈍い刃となるか。
九天回夢の景は、
刑台で止まった。
方正达は、跪いている。
その目にあったのは、反抗ではない。
――茫然。
彼は、最後まで分からなかった。
なぜ、自分が死なねばならないのか。
人垣の果てで、
殷翦璃が立っている。
雨が睫毛を打ち、
それは、涙のようだった。
彼女は、駆け出さなかった。
分かっていたからだ。
――飛び出せば、
彼はもっと早く、もっと惨く死ぬ。
その瞬間、
彼女の世界は砕けた。
「愛する人が死んだ」
それだけではない。
彼女は、理解してしまったのだ。
人界の正義とは、
しばしば正義のために存在するのではない。
――多数が、心地よくあるための装置なのだと。
術は、終わる。
景象は崩れ落ちる。
全員が、深水から引きずり上げられたように、
胸を強く圧迫された。
息が、うまく吸えない。
菖蒲は、その場に立ち尽くした。
瞳が、一瞬、空になる。
彼女の中にあった
「北王府は北境を守る」という信念に、
確かな亀裂が走った。
愛していないわけではない。
だが、初めて直視したのだ。
――守るという行為の代価が、
他者の命であることもある。
剣蘭は、口を開こうとした。
だが、言葉が出ない。
彼女は、昴を尊敬している。
夏侯家の責を信じている。
だが、
真相を見せつけられた今、
理解してしまった。
責任は、
時に、無辜を押し潰す。
阿虫は、さらに酷かった。
九天回夢は、
彼の神識を大きく削っていた。
立ち上がろうとした瞬間、
足元が揺れる。
七殺鎧の光は、
明らかに鈍っている。
額から汗が流れ、
指先は白い。
まるで、
魂を一度掘り出し、
無理やり押し戻したかのようだった。
方正行の亡魂は、
映像を見終え、
長く絡みついていた執念が、
わずかに緩むのを感じていた。
ようやく、呼吸ができたように。
「……そうだったのか」
彼は、父――鬼王を見つめる。
声が、砕けそうだった。
「父上……
正达は、私を殺していません」
魂網の中で、
鬼王の怨は渦巻き、
裂け布のような哀嚎を上げる。
彼は信じないのではない。
――遅すぎたのだ。
怨は、すでに怪物へと育ってしまった。
怪物は、
真相だけでは消えない。
菖蒲は、喉の奥の詰まりを堪え、
低く阿虫に言った。
「真相は……明らかになった。
私たちは――」
阿虫は、冷たく嗤った。
その笑みは、冷え切り、
同時に、ひどく疲れていた。
「明らかになったから、何だ」
彼は目を上げる。
その奥には、深い影。
「北王府が招いた結果だ」
「北王府が背負え」
剣を肩に担ぎ、
背を向ける。
「俺は、もう関わらない」
菖蒲が叫ぶ。
「阿虫!」
剣蘭も、思わず声を上げた。
「待って――!」
阿虫は振り返る。
声は、骨を削る刃のようだった。
「何をしろって?」
「後始末を、俺に押し付ける気か」
「“責任”だの、“大局”だの、
“あいつは苦しんでた”だの――」
彼は、鬼城を指す。
地に転がる、人皮の袋を指す。
「こいつらは、苦しくなかったのか」
「誰が、気にした」
「真相を引きずり出した」
「それで十分だ」
「後は、自分たちでやれ」
彼は、背を向けた。
その瞬間――
問天教の少女、金釵が口を開いた。
これまで、抑え込まれ、
余計なことを言えなかった。
だが、真相を聞いた今、
彼女の中の“正義の火”が、
逆に燃え上がった。
政治の重さを、彼女は知らない。
彼女が知るのは、
「妖魔は斬るべき存在」だということだけ。
魂網の中の鬼王に向かって、
鋭く、挑発する声を投げる。
「全部、自業自得じゃない!」
「私と兄弟子が、
問天教の法で裁いてあげる!」
「鬼王になったのも、当然よ!」
その一言は、
針だった。
鬼王の怨が、
瞬時に、彼女へ向いた。
言葉が刺さったからではない。
――彼女の魂が、
あまりにも澄んでいたからだ。
新しい井戸のように、
穢れがない。
今の鬼王に残った本能は、一つ。
――喰らう。
清い魂を喰らい、
力を取り戻し、
さらに怨み、
さらに生き続ける。
魂網が、激しく震えた。
鬼王は、
最後の力を振り絞り、
自らの怨を刃として、
束縛を裂いた。
「――魂を、寄越せ!」
黒気の腕が、
金釵を掴み上げる。
悲鳴を上げる暇もなく、
彼女の身体は宙に浮き、
喉は氷の手で締め上げられる。
眼が、白く反転する。
魂が、
引きずり出される感覚。
菖蒲と剣蘭が同時に飛び出す。
――だが、半拍、遅い。
黒気の中で歪む金釵の顔を見て、
阿虫の視界が、一瞬、揺れた。
ある角度で。
――芙蓉。
瞳孔が、急激に収縮する。
清い匂い。
陽に干した布の感触。
掴めると思った温もりが、
次の瞬間には消えていた記憶。
そして、
彼が触れないようにしてきた、
もっと深い痛み。
背を向けかけていた足が、止まる。
低く、吐き捨てる。
「……くそ」
携えていた、
最後の願魂碎片。
指先で、見つめる。
一瞬の躊躇。
――本来は、
集めるためのもの。
浪費すべきではない。
だが。
彼は、砕いた。
「カッ!」
砕ける光は、
最後の吐息のようだった。
阿虫は、剣を構える。
七殺魄が伸び、
刃の光は、もはや沈黒ではない。
決断の冷。
「二度と、起こさせない」
――その意志が、刻まれている。
低く、告げる。
「九天……葬魂」
――奥義・九天葬魂斬。
剣光は、静かだった。
派手な爆発はない。
ただ、終わりだけがあった。
鬼王の怨は、
その一閃で断ち切られ、
根を断たれた樹のように、
一瞬あがき、すぐに枯れ落ちた。
黒気は灰雨となり、
哀嚎は、扉を閉めるように消える。
鬼王・方正彪の姿は、
空中で止まり、
ゆっくりと崩れ去る。
風に散る、泥像のように。
方正行の亡魂が駆け寄り、
手を伸ばす。
だが、掴めたのは、冷たい灰だけ。
「父上……」
灰雨が、降る。
鬼城は、
ようやく長い溜息を吐いた。
七殺鎧の光が、完全に消える。
阿虫は、
合神を解かれ、
その場に崩れ落ちた。
呼吸は荒く、
額は冷汗で濡れている。
剣蘭が駆け寄り、
彼を抱き起こす。
背に触れた瞬間、分かる。
――震えている。
恐怖ではない。
神識が、空になった反動。
菖蒲はすぐに安神丸を取り出し、
彼の口へ押し込む。
声は、掠れていた。
「……飲んで」
瑞木菀も合神を解き、
掌を阿虫の背に当てる。
真気を送り込む。
凍り割れそうな魂へ、
無理やり温もりを流し込むように。
ようやく、
阿虫の呼吸が整う。
彼は、顔を上げ、金釵を見る。
金釵は膝をつき、
喉を押さえ、
目は赤い。
それでも、強がる。
「わ、私は……怖くない……」
声は、震えている。
剣蘭が歯を食いしばる。
「……あんた、皆を殺しかけた」
菖蒲も冷たく言う。
「黙ることを覚えなさい」
金釵の唇が震え、
反論は、出なかった。
阿虫は一息つき、
疲れを押し隠すように言う。
「邪魔をするな」
彼は立ち上がり、
散った灰の向こうを見る。
――悲歓台。
「鬼王は終わった」
「残るのは――殷翦璃だけだ」
一瞬、言葉を切る。
感情を、押し戻す。
「行くぞ」
「この“哀恋”に……
終わりをつける」
灯火が、陰城で揺れる。
遠く、悲歓台の方角には、
淡い幽冷。
琴を携えた男――
諸葛剣平が、
闇の中で、
魔将・殷翦璃と向き合っている。
この夜、
真相はすでに暴かれた。
だが――
本当の別れは、
まだ始まっていない。




