邂逅
初めて見た彼女の背中には天使の羽がはえていた。
君はその羽で、どこへ飛んでいくの?
彼女はマスターの店の常連客だった。と言っても、マスターとも僕とも話をするわけはではなく、窓際の席に座って文庫本を読みながらコーヒーを飲む。そしてコーヒーを飲み終わったらすぐに席を立つ。時間にすれば長くても30分ほどだ。
初めから彼女の事は気になっていた。透き通るような白い肌に、背中の真ん中まで伸びる艷やかな黒髪。その美しさもそうだが、彼女の体から数センチ外を縁どったわずかな空間がまるで、僕には異世界のように感じた。ひょっとして彼女は天使の世界の住人で、本当はそこにはいないんじゃないかと思ったほどだった。会計のときに僕の指先が彼女の手のひらに触れたときに、ハッとして、彼女はちゃんと僕がいるこの世界に存在しているんだと安心した。
彼女の様子がいつもと違うと気づいたのは、僕が彼女の来店を心待ちにし始めたころだった。
店に入ってきた瞬間、僕はその人が本当に彼女なのかと疑ったほどに違っていた。もちろん姿形はまちがいなく彼女なのだけれど、その時の彼女は天使の世界の住人ではなく、僕がいるこの世界の住人だった。それが良いことなのか悪いことなのかもわからないけど、僕はそのとき初めて彼女に話しかけた。あれは多分たんなる好奇心からだったように思う。
「あの・・大丈夫ですか?」
「え?何がですか?」
「あっ、いえ、すみません、何かいつもと違う気がしたもので・・」
「・・・何が、どう違うんですか?」
「えーっと・・なんていうか・・住む世界を変えたっていうか・・」
「・・・・・」
「・・・すみません、僕、馬鹿なんです。ごゆっくりどうぞ」
「あのっ・・!あなたは馬鹿ではないと思いますよ。」
彼女とはその日から店の定休日である毎週水曜日に会った。僕は彼女を間違いなく愛していたし、彼女も多分僕を愛してくれていた。初めて彼女の声を聞いたときに、僕は昔見た映画の中の「Origin of love」という歌を思い出した。詳しい内容は覚えていないけど、だいたいこんな感じだった。
昔、人間は二つの顔を持ち、4本の腕と4本の足を持っていた。とても能力の高い人間を恐れた神々は、稲妻で人間を真っ二つに引き裂き、台風をおこして引き裂いた人間をバラバラに吹き飛ばした。人間はたった一つの顔に、たった2つの腕と足になってしまったことを悲しみ、バラバラに離されたもう一人の自分を探し始める。それが愛の始まり、愛の起源。
僕はまさしく雷に打たれたように、彼女を愛してしまった。もう一人の自分を見つけてしまったような気がした。
彼女と過ごした時間は長くはない。愛し合ったのも1度だけだった。それでも、この世界で最も僕を理解してくれたのは、間違いなく彼女だった。僕にとって彼女は海のような存在だった。全てを包み込んでくれる、母なる海だ。そういえば、最後に彼女と会った日も海に行った。波の音をBGMに交わした会話が最後になった。あの時彼女はなぜか「海に溶け込んでしまいたい」と言った。僕はそれがとても怖かったんだ。
「海は広いね、大きいね」
「そうだね、月は登るし、日は沈むしね。」
「それ、全然面白くないよ。」
「・・・君に合わせたんだよ。」
「何かね、海を見てると、この海にそのまま溶け込んでしまいたいって思うんだよね。」
「それはちょっと困るよ。」
「ちょっとなの?」
「いや、とても困るね、君は君でいて欲しいよ。海は好きだけどね」
「私は、あなたが好きだよ。」
「僕も君が好きだよ」
「本当に?じゃあ、なぜあなたはすぐにどこかへ行こうとするの?」
「僕はどこにもいかないよ」
「・・・・」
「どうしたの?なんでそんなことをいうの?」
「一つ聞いていいかな。」
「うん・・なに?」
「あなたは、なぜそんなにも、生きづらそうにしているの?」
「・・・わからないよ。僕は、自分が今幸せだと思ってる。君のおかげでね。生きづらいなんて、思ってないよ。」
「死ぬのは怖い?」
「・・・・」
「あなたは否定するでしょうけど、死ぬことをどこかで求めているようにみえるのよ。このままじゃきっと死を引き寄せる。そんな気がする。」
「僕は死にたいなんて思っていない。なんなら100歳まで生きるつもりだよ。」
「でも死ぬのが怖くないんでしょ?」
「・・・正直死ぬことに対する恐怖心はあまりないよ。でもそれが死を求めているということにはならないだろう?」
「私は死ぬのが怖いよ。お父さんにも、お母さんにも、あなたにも会えなくなる。」
「僕も君に会えなくなるのは嫌だよ。」
「じゃあ・・・・」
「僕は死ぬつもりなんてないけど、死ぬことと、君に会えなくなることは別だよ。極論を言えば、例え僕が死んでも、君に会えるなら構わない。」
「あなたにとって人生ってなんなの?」
「人生・・産まれてから死ぬまでの過程かな・・」
「・・それだけ?じゃあなんであなたはそんなにも優しいの?一生懸命仕事をするの?なんでそんなにも思慮深いの?ただの過程なら、漫然と過ごせばいいじゃない。」
「じゃあ、もし永遠に生きなきゃいけないとしたらどうだろう?君がもしそうなったら?」
「・・・それは・・ちょっと嫌かな」
「人は死ぬから人生を一生懸命に生きることが出来るんだよ。永遠に生きるなら、それこそ漫然と過ごすことになるだろうね。死は神様が人間に与えてくれた救済なんだよ。」
「それは誰の影響なの?」
「初めから自分の中にあったと思う。」
「・・・あっ、例の焚き火の・・」
「うん、まあそうだね。」
「もしかしたら、君も同じように考えていたんじゃない?全く同じではないだろうけど、なんていうか、生と死の境界線が曖昧になってしまうというか・・・」
「・・・そうね、あなたがあの時言ったように、私は住む世界を変えたのかもしれない。」
「あの時は驚いたよ。纏っていた空気がある日突然変わった。違う人かと思ったくらいだった。」
「あなたもそうしたら?私はその方が良いと思う。」
「それは無理だよ。」
「なぜ?」
「そうしたくないからさ。」
「そうか・・・さようなら。帰るね。」
「え?・・・うん・・なんか、唐突だね・・・。」
「さようなら」彼女はそういって一人で歩き出した。なにか嫌な、予感のようなものは感じていたと思う。でも、彼女の足取りがあまりに力強かったから、僕には止める事が出来なかった。彼女の背中に向かって一言訪ねる。それが精一杯だった。
「なぜ」
「君は変わる事が出来たの?」
「生き切ってやる!みっともないくらい生に執着して、最後まで生き切ってやるって、そう決めたの!」
彼女は歩調を緩める事もなく、振り返る事もせずにそう言った。声がすこし、震えていた。
彼女は今もどこかで、力強く精一杯生きているんだろう。僕が見た彼女の最後の姿は、前だけを見て何かに立ち向かう、強い女の後ろ姿だ。あの時、後ろではなく横に並んで立っていられたら、彼女の凜とした美しい横顔を見る事が出来ただろう。そして、今も僕の横にいてくれたかもしれない。僕は間違っていたんだろうか・・・いや、違うな。僕には、あの時どうする事も出来なかったんだ。そして、今の僕でもきっと同じことになっていたに違いない。
僕は昔から、あきれるほどに僕だった。
彼女が今の僕を見たら、がっかりするだろうな。
でもきっと僕のために涙を流してくれる。
だから、会わないほうがいいよね。