中編
風向きを操る不思議な扇子。その存在が語られ始めたのは、今よりだいぶ昔の事からであるらしい。霊の店にあったものが百花魁に譲られたという経緯で向こうに渡ったのだが、そもそもあの扇子もまた白妙に縁のあるものであったそうだ。
正確に言うならば、白妙がこの町に持ち込み、ある女性に授けたとされる。その女性は白妙ではない。白妙よりも前からこの町に先祖代々暮らしてきた一族の者だった。そして、その女性の左胸には──。
「〈赤い花〉があった」
百花魁が帰宅してからしばらく後、手に出来た切り傷を手当てしてもらいながら、私は霊から〈ガアプ〉にまつわる話を聞かされていた。
「あなたも知っての通り、かつてこの地に咲く〈赤い花〉は、皆、蛇神のための供物だった。彼女も同じ。〈ガアプ〉はね、そんな彼女に与えられた武器だったの。武器と言っても、殺傷能力があるわけではない。それでも、〈ガアプ〉を使いこなしたことで、彼女は自分の運命を変えることが出来た」
その運命こそが、今の私たちにも繋がっている。
何百年も前の話ではあるけれど、もしかしたら私の先祖だってこの地で残酷な目に遭わされてきたかもしれないのだ。その命運を変えることが出来た人物こそが彼女──姫檜扇と呼ばれる〈赤い花〉の女性であった。
「姫檜扇は、供物として生まれ、育てられた。でも、彼女は他の従順な〈赤い花〉たちとは少し違ったのでしょうね。そして、運命の日が間近に迫ってきたころに偶然、白妙の一行がこの地へ流れてきた。姫檜扇と白妙が、どのように出会ったのか、詳しくは知らないわ。でも、私が知るのは彼女に同情した白妙が、不思議な扇子を授けたという話」
それが、風向きを操る扇子。霊によって〈ガアプ〉と名付けられる以前は、特に名前はなかったらしい。ともあれ、姫檜扇の手に渡った〈ガアプ〉はすぐに力を発揮した。
〈ガアプ〉が操るのはただの風ではない。他人の心や運気など、自分の判断や意志、決断ではどうしようもない状況。それが、〈ガアプ〉の操る風である。
上手く使いこなすことが出来れば、自分の周りは味方だらけとなる。そして、どのように制御しても自分にとって不利な状況を生み出しかねない者は、ごく自然な流れで遠ざけるという力まであるという。そんな事が本当にできるのかどうかはともかく、現に〈ガアプ〉は百花魁をかなり助けているらしい。
「勿論、全部の状況を覆せるわけじゃないわ。まず、私たち相手に〈ガアプ〉の力は通用しない。百花姐さんに譲る際に、そのような制限を私がかけたから。それに、魔力があまりにも強い相手ならば、やっぱり通用しないでしょうね」
当然ながら、扇子の力だけでは姫檜扇も蛇神の手から逃れ切る事は出来なかった。しかし、扇子の力によって集まった味方たちの力が合わさった事で、長きに渡る蛇の支配からこの地は解放されたのだという。
代償も勿論あった。かつてここは凶作とは無縁の豊潤な大地だった。しかし、その実りの約束は、供物となる〈赤い花〉たちの犠牲の上に成り立っていたのだ。その為、蛇の一族に囲われ、育てられてきた〈赤い花〉たちがその役目から解放されてみれば、次に待っていたのは蛇神の加護を失った事による不作だったという。
当然ながら、人々の中には姫檜扇と白妙を非難する者もいた。この地に生きる皆のために今からでも犠牲にすべしと襲い掛かる者もいたという。
そうした中で姫檜扇と白妙たちは蛇神の加護なき大地での農作の術を模索し続けた。そして、その際の味方増やしもまた姫檜扇の扇子が役立ったのだという。
「以来、この地は白妙が治めてきた。姫檜扇やその子孫、そして彼女と共に救われた〈赤い花〉たちを保護し、安全な場所に住まわせ続けたそうね。その後、この地も色々なことが起きたわ。やがて、今のように曼殊沙華や華冑のような鬼の一族が力を持つようになったわけだけれど、蛇神は今もかつての栄光を求め、虎視眈々と機会を窺っている……これがこの地に伝わる話ね」
言い終わると同時に、傷の手当てが終わった。絆創膏に薄っすらと滲む血を見つめながら、私は霊に訊ねた。
「あの、素朴な疑問なんですが、姫檜扇さんって今もご存命なのでしょうか」
普通の人間ならばあり得ない問いだ。だが、〈赤い花〉となれば話は別だろう。魔女の性さえ満たし続ければ老いは止まる。事故や病などがなければ、今も生きていたっておかしくはない。だが、霊は考え込んでから答えた。
「そうね。死んだという明確な記録はないらしいの。でも、逆に生きているという記録もない。姫檜扇に関する記録は白妙が詳しいはずだけれど、何しろ彼らだもの。口外するつもりはないみたい」
生きていてもおかしくはない。そう思うと急に不思議な気持ちになった。だが、霊は私に言った。
「ただ、〈ガアプ〉は彼女の手から離れている。姫檜扇が生きていたとして、こんなに大事な扇子を手放したりするかしら。今も百花姐さんが使い続けているのなら尚更よ」
「……なるほど、確かにそうですね」
では、やっぱりもうこの世にはいないのかもしれない。供物という役目を逃れ、白妙と共に歩んだ姫檜扇のその後がどのようなものであったのかは、私が知る術などないだろう。それでも、思いを馳せずにはいられなかった。
「では、〈ガアプ〉がこの店に来た経緯はどんなものだったんですか?」
「とある仕事の報酬よ。相手は白妙でもなかった。今はもう亡くなってしまった純血の人間のお客様。その方も他人から譲られたのだと言っていたわね。だから、結局のところ、分からないの。以前、探ってみようとしたことがあったのだけれど、〈ガアプ〉はすっかり心を閉ざしてしまっていた」
「心を……」
私は霊と違ってモノの心というものがいまだに分からない。けれど、霊の言わんとしていることは、感覚として何となく理解できた。つまり〈ガアプ〉は、姫檜扇とあまり良い別れ方をしていないのだろう。
「心を閉ざしていても、力はよく貸してくれたわ。でも、〈ガアプ〉はそれで幸せなのかしら。そう思っていた頃に、百花姐さんに強く反応を示していることに気づいたの。悪い反応ではない。恋しがるような反応だった。白妙の血筋のもとに帰りたかったのでしょうね」
「それで百さんに譲ったんですね」
「ええ、さっきも言った通り、私には使わせないという制限付きでね」
ともあれその後は、百花魁のもとで力を発揮し続けているわけだ。霊はともかく、私は百花魁の置かれている立場も、役目も、ちゃんと理解しているわけではない。けれど、薄っすらとではあるけれど、常にきな臭さと共にいる事は伝わってくる。今回だってそうなのだろう。そして、もしかしたら、〈ガアプ〉が再び、一人の〈赤い花〉を救う事になるかもしれない。
「さてと、手当も終わった事だし」
と、霊が救急箱を閉じた時、時計の音が鳴った。気づけば閉店時間になっていた。すっかり暗くなった外を眺めていると、霊は音もなく立ち上がり、店のカーテンを全て閉めていった。扉を手早く施錠して、そして振り返った時、その目は真っ赤に染まっていた。その視線に心を鷲掴みにされながらも、私は苦笑してみせた。
「少し早い晩御飯はいただきましたよ」
手当てしてもらった指を見せながらそう言うと、霊は目を細めながら答えた。
「自分だけ楽しんで私にはお預けをしようだなんて、いい度胸ね。何処かの女狐さんのせいで、今宵は少し気が立っているの。お腹がいっぱいだとしても、殺さない程度に満足させてあげるから、覚悟なさいな」
もとより、揶揄えるような立場ではない。今だって本当は飛びつきたくて仕方がないのだ。犬の尻尾があれば、ぶんぶん振っていただろう。それでも強がろうとする私に対し、霊は黙ってカウンターを指さした。その眼差し、その所作。もうこれ以上、我慢は出来なかった。
大人しくカウンターの上に座ると、霊は音もなく近づいてきた。そして、私をそっと抱き寄せると、背中をさすりながら囁いてきた。
「姫檜扇の昔話だけれど、私はあの話、結構好きなの」
甘い吐息が私の項にかかる。
身を強張らせながら聞いていると、霊は微笑みながら続けた。
「こうしてあなたを独占できるのだって、彼女らの活躍のお陰だもの」
その直後、常日頃、私が心より求める鋭い痛みが、首筋にもたらされた。




