前編
「世話になったな」
そう言って、笠が返却してきたのは、あらゆる天候を防ぐ傘〈フルフル〉だった。
霊がいつも愛用しているその傘は、何処からどう見ても女物。上品なレースのデザインは、霊にこそ似合えども、笠に似合うとはお世辞にも言えない。
狸の姿で差している姿を想像すれば、それはそれで愛らしいとも言えないでもないが、正体を隠すためにヒトの姿に化けたならば話は変わる。その事は笠本人も重々承知のようで、霊が〈フルフル〉を開いて状態を確認するのを眺めながら、苦笑した。
「やっぱそいつは君が使うと映えるねえ。俺や紬とは全然違う」
「あら、あなたはともかく、紬さんだって似合うはずよ。〈フルフル〉はどんな女性にも似合う代物なのよ」
霊は妙に上機嫌な様子でそう言うと、〈フルフル〉をそっと閉じた。
「異常はないみたい。この子は役に立った?」
「そりゃ勿論だ。これまで通り、期待通り。相変わらず役に立ったよ」
「そう、それは良かった」
話は五日ほど前に遡る。いつものように笠がこの店を訪れたと思えば、〈フルフル〉を貸して欲しいと申し出たのだ。
どうやら珍しい事ではないらしい。〈フルフル〉はあらゆる天候から使用者の身を守ってくれる代物である。強い日差し、大雨、大雪、嵐、そして純血の人間たちを苦しめる塵といった天候も、傘の下に入っていれば何の影響も受けずに済む。
防いでくれるのはそんな文字通りの天候だけではない。大荒れという言葉が天気や海の状態だけでなく、人の状態も差すように、そういったトラブルからも防いでくれるというのだ。
どういう事かというと、きな臭い事に巻き込まれぬよう、人々の視線や関心をこの傘はある程度防いでくれるのだという。
だが、正直に言うと、本当だろうか、と、少々疑いたくなるところだ。何故なら、この傘を差した状態で霊が様々なことに巻き込まれている場面を目の当たりにしてきたからだ。
実際、霊としてもその効果自体はお守りくらいの感覚で向き合っているという。期待しているのはそこではなく、全く別の効果だった。〈フルフル〉は、盾にもなるのだ。
「今回の現場は人の多い場所だったからね」
「イベント会場だったかしら」
「ああ、そうだ。そこで、曼珠沙華の鬼様方の用事があってね。あまり穏便な用事じゃないものだから、俺にも声がかかったというわけよ」
「その草履〈グシオン〉の力だけでは不安だったのね。それほどまでの用事って、いったいどんなことかしら。とても気になるわね」
揶揄うように訊ねる霊に対し、笠は苦笑気味に頭を掻く。
「それを君に話せたらどんなに楽だろうね。いや、だが、今はまだ話すわけにはいかん。真実がはっきりするまでは勘弁しておくれ」
「ふふ、冗談よ。そんな厄介そうな事、出来れば聞かされないままでいたいくらいだもの」
霊は軽くそう流したが、私としても同感だった。
曼珠沙華はいつも何かしらの厄介事を抱えている。その中には、どう足掻いても霊が巻き込まれるような事案もあるが、中にはこのように笠の所で情報は止められ、いつの間にか解決済みになっている事も多い。恐らく、こうやってその存在だけでも知れるのも一部だけなのだろう。
もしかしたら大多数は、霊の耳にも入らないうちに握りつぶされていることもあるのかもしれない。そういった事案は、だいたいが取るに足らない厄介事であったり、疑惑であったりする。恐ろしいのがこちらまで伝わってくる話で、こうして匂わせがある場合は、巻き込まれる前触れであることもある。
──このまま何事もないといいのだけれど。
「一つ言えるとしたら、〈フルフル〉を汚さずに済む程度の事だったってところかな」
と、笠は霊にそう言った。
その言葉を受けて、霊はこくりと頷いた。
「有難い事ね。〈フルフル〉が壊れてしまったら、私としても少し困る。それに、思い入れのある傘だもの」
「はは、壊すなんてとんでもないよ。〈フルフル〉は俺にとっても思い入れのある代物だからね。似合うか似合わないかは別として」
笠は静かに笑うと、ふと時計を確認した。
「おっと、いけねえ。今日は他に用事もあるんだった。てことで、霊、それに幽ちゃん、邪魔したね」
そう言って慌ただしく去っていく笠を見送ってから、私はふと疑問を覚え、閉店後の作業中に霊に訊ねたのだった。
「霊さん、〈フルフル〉の事ですが、笠さんにとっても思い入れがあるっていうのは、具体的にどんなことなんでしょ?」
「あら、気になるの。別に隠すような事じゃないから教えちゃいましょうか。〈フルフル〉はね、笠と紬さんの馴れ初めに深く関わったのよ」
そう言って、霊は〈フルフル〉を手に取り、軽く埃を払った。
紬の事は勿論よく覚えている。笠の妻であり、女性の化け狸だ。かつては笠のようにやや危険な任務にもついていたらしい。そして現在も、稀に曼珠沙華の仕事を引き受けており、この店に訪れることもある。百花魁とも仲がいいようで、時折、霊の事を揶揄うかのように彼女の話題を振る事もある強かなところのある女性だ。
「具体的にどんなことがあったんですか?」
「私も見たわけじゃないから詳しくは知らないけれど、魔法を使える乱暴な相手に紬さんが危害を加えられそうになった時、笠がとっさに〈フルフル〉を使って助けてあげたそうよ。もともと同じ年頃の化け狸同士って事で端から見ればお似合いではあったけれど、これがきっかけで急接近したそうね」
くすりと笑いながら霊は〈フルフル〉を見つめ、続けていった。
「そういえばね、〈フルフル〉には、お天気や盾の役割以外にも、噂程度のある力が信じられていたの」
「ある力?」
「相合傘って言うでしょ。二人で一つの傘の下に入る事。〈フルフル〉は共に傘の下に入った者たちの絆を深める力があるって信じられているの。ただ、まあ、これはこの傘を私に譲ってくれた人が勝手に言っていただけなのだけど」
「勝手に……ですか」
「ええ、その後、〈ピュルサン〉でこの傘を確認した際は、そんな力なんて確認出来なかった。だから、眉唾だと思ったものだけれど、もしかしたら〈ピュルサン〉でも見通せないような何かがあるのかもしれないわね」
だとしたら、思っていたよりもだいぶロマンチックな傘なのかもしれない。そう思うと同時に、私はふとこれまでの日常を思い出し、体が熱くなってしまった。
〈フルフル〉は霊が普段使いする傘でもある。雨の時、日差しの強い時、塵を誤魔化すべき時、彼女は〈フルフル〉を差す。そして、隣に私がいる場合、その傘の下に当然私も入っているわけだ。
「相合傘……か」
妙に意識してしまう私を、霊は透かさず振り返った。
「あら、顔が赤いわね。意識しちゃった?」
にっこりと笑いながら〈フルフル〉を開き、霊は差して見せた。いつも見る姿なのだが、全く見飽きない。笠が言う通り、〈フルフル〉は誰よりも霊に似合う。初めて彼女を見た時からその印象は変わっていない。今宵も彼女は美しい。
「どうしたの、ぼーっとして」
ふと問いかけられ、私は慌てて答えた。
「い、いえ。ただ、初めて会った時も、霊さんは〈フルフル〉を差していたなって思い出しただけなんです」
「ああ……そうだったわね。あの時は、日差し避けと視線避けのために使っていたのだったかしら。誰よりも先に、あなたに接触しなければならなかったから」
いずれにせよ、あの時からひと目惚れに近い感覚で霊という人物に惹かれたのは間違いない。あの日、私たちはともに傘の下に入っただろうか、そればかりは記憶が曖昧だった。
「そういえば、幽、明日はお出かけするのだったかしら」
霊は〈フルフル〉を再び畳み、定位置となっている傘立てへ戻しながら訊ねてきた。
「は、はい。気になる本があるので、ちょっと本屋さんにでもって」
「だったら、〈フルフル〉を持っていきなさい」
「いいんですか?」
「ええ、私は外出しないつもりだから。それに、今のところ、あなたにこそ視線避けは必要だもの。誰かに〈赤い花〉を摘まれないためにも、ね」
と、霊が振り返った時、私は息を飲んだ。目の色が赤くなっている。どうやら、食事の時間がやって来るらしい。
「分かりました。では、そうします」
平静を装ってそう言ってみたが、痛みを期待する心が声を上擦らせてしまった。お陰で浅ましい欲望が隠しきれず、恥ずかしさに体が火照ってしまった。そんな私を面白がるように見つめ、霊はそっと近づいてきた。
無言のまま接近され、逃げる間もなく捕まってしまった。霊は私の手を握ると、そっと持ち上げ、そして口をつけた。待ち望んだ鋭い痛みが手首に生じ、私は身を震わせた。血が抜けていく。その感覚に、〈赤い花〉が喜んでいる。悦楽に飲まれないようにと我慢し続けてしばらく。一頻り、血の味を楽しんでいた霊は、不意に私の手首から口を離した。
「続きはお風呂に入ってからね」