最終章 彼岸花2
七月二十日。
翌日も悶々と考えて祭りの時間を迎えた。
簡単に言ってしまえば初めての恋愛をそつなくこなす事の方が至難の業であるから、人で賑わいだした想い出の河川敷に足を運んだ二人はもっと気長に恋愛をすれば良いのである。
「終わって良かったね」
「うん、体調は大丈夫?」
「私は大丈夫だから楽しもうよ」
しかしながら、彼らの境遇や生い立ち、何より彼女である永華の命の灯火が残り僅かで消える危機にあるのだ。それを考えると二人は焦るような仕草を時折見せている。
それに陽介はまだ信じ切っていない分だけ落ち着いているがどこか忙しない。永華にして見れば平素を装っているが陽介に心配される事が増えた。
「分かった、じゃあ行こう」
「うん」
河川敷で開催される事が十年前から定番になっていた。護岸工事も完了し何より鮮やかな花で飾られる土手を眺めながら的屋など盆踊りの矢倉がこの日だけは派手に存在感を出している。少子化がどうのこうのと嘆いた老婆が言う様に陽介達と同じ若者は少なく、高齢層と若年層は小学生が殆どであり、それでも祭りばやしが聞えると心が躍る。提灯も頭上を明るく照らして甘い香りや香ばしい匂いも充満している。
「幾つになってもワクワクするね? なんでだろ?」
「んー俺も楽しくなってきた! お祭りはそういうものだよ!」
出掛ける前に自宅に一旦戻った陽介はお気に入りのワンポイントが入った白いポロシャツとカーキ色のチノパンを穿き上機嫌で縁日にしか寄る機会がない綿アメ屋の前で浮足立つ歩調を止める。
「折角だし食べようか? こう言うの大丈夫?」
「うん、半分っこするならだいじょうーぶ!」
同じくシャワーを浴び着替えた永華はなんと浴衣をお召になりなんとも色っぽい風情ある姿に変わっている。もちろん柄は向日葵で生地は例の如く幸せ色である。春子が成長著しい永華の為に前もって買っておいたものらしい。長年の夢が叶いさぞ春子も喜ばしい事であろう。
それが陽介の隣で店員の厳ついおっさんから「お、めんこい子やのーサービスしてやんよ」と言われ頬を紅潮させ二人分の綿アメを受け取り困り顔する永華である。しかも御髪をウメからプレゼントされたカンザシで結い尚艶めかしいことこの上ない。
「へへ、結局二個になっちゃった」
「う、うん。食べきれないから一つずつ食べよっか?」
「うん!」
むろん、その浴衣を出発前に絶賛した陽介は視線をどこに置いて良いかまだ分からず挙動が不自然に近い。二つのパンパンに膨れた綿アメ袋に困り顔で舌先をチョロっと出す永華の目をまともに見れない始末である。
それでも付かず離れずカップらしい雰囲気を出し、
「はい、先にどうぞ」
「んー美味しい久しぶりだよー」
陽介は袋から取り出した文字通り綿の様にフワフワな綿菓子に永華がそのまま薄く紅を塗った唇でパクつき大袈裟に両頬を押さえる。
永華の今日までの生い立ちを顧みれば大袈裟になるのも無理はない。最後に胸躍らせるこの河川敷に来たのは十年以上前に家族できた時以来だ。
「そっか! なら、もっといろいろ買おう! やろう!」
「ありがとう、ようちゃん」
それを出発前に春子から聞かされ知る陽介は、尚更この日のデートを成功させたく田舎で得た経験を惜しむことなく披露する事を決め自然と永華の手を握り両極端な年齢層で賑わう河川敷を進む。
田舎の祇園や納涼祭となんの変わり映えも見せない神輿が地域を練り歩くのは同じの様で、それを日中の茹だる暑さの中を上半身裸で捩じり鉢巻を頭に巻いた男達が店先をスレスレで通るのをハラハラしながら陽介は見送った。どうやら遠くで見える矢倉の近くであの男達が祭りばやしを奏で陽気に踊っている様だ。
「おにいちゃん待ってよ!」
「なんだよ早くこいよ! 父ちゃんのカッコ良いとこ終わっちゃうだろよ」
金魚すくいに熱中する二人の背後を幼き兄妹が走って行く。
「あー、また破けちゃった……」
「永華は不器用だな? こうやって縁を使ってやるんだよ? 尾びれに気を付けないから破られるんだよ」
生まれて初めての金魚すくいに悪戦苦闘する永華に、これ見よがしに三匹連続で大中小の金魚をすくって見せる得意げな表情の陽介。出目金だろうが盛んに飛び撥ねる赤い鱗を投光機で光らせる金魚であろうが、ことごとく陽介の破れをしらないポイが水槽からボールへとすくい上げる。
「わー凄い! ようちゃんには敵わないよー」
「う、うん、あ」
そこまで褒められると逆に恥ずかしいってものだ。気を抜いたその瞬間に的屋の表情が緩みポイに穴が空いてゲーム終了である。
「おじちゃん、ぜんぜんとれない―よー」
これだけ大量なら元を取れた。と誇らしげに大量の金魚が泳ぐボールを星屑が散りばめられた瞳を輝かせる永華に見せていると、隣で二人同様に動き回る金魚を追いかけていた五、六才の男の子が泣きっ面で破れたポイの穴から的屋のオヤジを睨んでいる。
「いやーこんなもんだよぼく?」
「ウソだーこのおにいちゃんのはとくべつなんだろーずるいよ……」
「え」
それが優雅な職人技の結果に浸っている陽介に飛び火してオヤジ共々陽介までも本気で悔しがる男の子に困惑してしまう。
女と子供の涙ほど男が苦手な物はない。大量の金魚を保持する陽介は少し考え腰位の高さで恨めしそうに自分の睨むその男の子に自身の景品である金魚を譲ろうと考え付いた。
「まってようちゃん」
しかし、腰を屈めボールを渡そうとする前に獲得ゼロの永華がチョッピリ怖い表情してベソをかく男の子の前に浴衣の裾を気にしつつ屈んだ。
「おにいちゃんなんだからそんな我が儘言わないの。 私が教えて上げるから自分の力で妹ちゃんの為に取って上げなさい」
そう言えば妹らしき小さな女の子が男の子の服の袖を小さな手で掴み水槽の中でキラキラと光り泳ぐ金魚を羨望の眼差しで眺めている。きっと永華はそれに気が付き陽介とは違う事を思い付き行動したのだろう。陽介はボールを引っ込め永華の隣に膝を折り直し事の行方を傍観する事にした。
「でも、これ直ぐ破けるし、もうお金ないもん……」
「お姉ちゃんが教えて上げる。おじさんこのこの分もお願いします」
「はいよ! 気張りな」
血気盛んにポイを受け取った永華の横顔があの原宿のデパートで見た迷子になり、しかも転んで怪我をした子供を助けた時と同じ頼もしい表情になった。永華は保育士に向いているとこの時周りの人も的屋のオヤジも思っていた。もちろん陽介も内心ハラハラしながらそう思った。一度教えただけで出来る業ではないが祈るしかなかった。
「いい? 金魚さんの動きを見てこの硬い色の付いたところで、尻尾さんに気を付けてお腹をすくい上げるの!」
ポチャリ。一連の動作が素早く終わる。水槽に金魚は落ちていない。今の音は永華のボールに赤と金色の金魚が滑り落ちた音だ。
「やった! わーようちゃんやったよ」
「あああ、うんそうだね!」
「じゃあ、今みたいにやれば出来るよ! 集中してね」
それが嬉しかった永華はもう慣れた様に陽介に抱き付き体いっぱいで喜びを表し、オヤジから受け取っていた新しいポイを終始自分の動きを注視していた男の子に渡した。それを受け取った彼も妹に力強く頷くと水槽と対峙する。
この時、男とは哀れである。よりによって一番肥えて大ぶりの、言わばマスターオブマスター級の赤、金、で斑の金魚を視界に納めてしまう。この子も例外ではなく、固唾を飲みひんやりと冷たい水に指を沈め集中する。
背に背負うのは可愛い妹の初めての駄々であり期待の眼差し。兄として、否、ここは男として大業を成し遂げるべく、静寂を保っていたポイが静かに動き出した。
波紋を広げ徐々に優雅に靡く尾びれの下を進み、一瞬獲物が上体を反らし停止したところをフィィィィィッシュュュュ――
少年は大人の階段を上った。不甲斐ない兄から頼もしい長兄へと変わった。
「やったああああああ! みろメグこれにいちゃんがとったんだぞ!」
あれほどいじけるだけの男の子が希望溢れる少年に変わり、神経すり減らす戦闘の戦果をまだ小さい妹に誇らしげに見せそのおさげ髪の妹は無邪気に満開の笑みを見せた。
「ほい、ボーズ! これでお前も一人前だ!」
「ありがとう! おねちゃん、本当にありがとう、そのユカタ凄いかわいーぞ! じゃね――」
オヤジから袋に移し替えて貰った金魚を妹に渡した少年は絆創膏が貼られた鼻筋を満足げに、そして照れくさそうに指先で擦ると歳がいもない台詞を残しまだまだ賑わす祭りの渦の中に妹と共に飛び込んで行った。
「……」
「……、嫉妬しそう」
そう呟いたのは年端もいかぬ少年に浴衣を褒められ本気で恥じる永華を見下ろす陽介である。人工的な光沢を出す唇が意地悪に歪んでいるから冗談だと分かる。
「え! 待ってよ、これは別にやましい笑みじゃなくて」
「ふ、嘘だよ? でも、ちょっと悔しいかな、仮にも男にそんな顔させられたんだからさ」
なんと、この男はあの無垢で汚れを知らない素直な少年に敵愾心を少なからず持っている様だ。
それが愛情の裏返しだと言う事は言うまでもないので、永華は小さくごめんと囁き立ち上る。
「でも、私の彼氏はようちゃんだけだからね」
そう言っておきながら視線を泳がせ的屋のオヤジに手を振り逃げ足全開で次の出店へと向かい出す。
――あーもう、そんなの卑怯だ。
自分はあれ以来ろくに気持ちを伝えていないのに永華はどこまでも素直な愛情で陽介の枯渇した心を潤すどころかそのまま満潮まで持って行く。無駄に口臭を気にし唇の手入れまでも念入りにする自分がいささか滑稽に思えオヤジの茶化しを背に気持ちを入れ替えた。
普段は子供達がボール遊びや若夫婦が中睦まじくベビーカーを押す姿が栄える河川敷が、この日ばかりは熱気に満ちた祭りばやしが心を鷲掴みにしている。歩道兼サイクリングロードの土手も浴衣をきた人々で活気立っている。
そこは盆踊りを眺めるのに調度良い高台で、二人も水ヨーヨーとお面や縁日らしい玩具や食べ物を持って矢倉を囲む輪を見下ろし肩を寄せ合う。
これも春風総一郎の成し遂げた夢の形でもある。と、永華は太鼓の音の心地良い振動を腹部に受けつつ話す。
「ライバルは強敵なり」
「パパは敵じゃないよ? ようちゃん気にし過ぎ」
いや、そうでもないのである。息子は父親の背を見て育つ様に、娘もまた父親をいの一番にこれからの異性の基準に仕立て上げる。それに愛が籠ればこもる程、のちに出会う異性共は強大な父親と言う大魔王を蹂躙する意気込みを持たざる得ない。
まあー。と陽介は間を置き斜面を見下ろす。
「パパさんと俺は違うからね。俺は俺のやり方でその、あの……」
「なに?」
「永華を愛す」
自分でも痛いし恥ずかしいのは分かっているのだが、こんな自分を受け入れ隣で微笑んでくれる永華に、少しでも、微塵でも良いからこの胸を熱くたぎる愛の炎を分かって貰いたかった。
「……」
コクリ。どこまでも真っ直ぐな瞳で着飾る事のないその言葉に声で返事が出来なかった。永華は手を胸の前でモジモジと合わせ頷くのが精一杯だった。
夏。だれがどう感じ様が今の時節は真夏。二人の関係も春を飛び越え夏を迎えた。近所のじい様、ばあ様が二人を茶化しても、姉と慕うキャリアウーマンが浮かれるなと戒めても二人は止まらない。
「あ、ばあちゃんだ! いこっ」
「うん」
上半身裸の飲ん兵衛やシワだらけの老体が夜風と踊りいろんな意味でよろよろな盆踊りの輪に、ひと際冴える踊りを披露する腰の曲がった法被姿の初枝を見つけた陽介は一生手放したくない手を引き土手を駆け下りる。
未来ある若者は不確かな運命など突っぱねる強さを持っている。それが若さって奴だと陽介も思いそれを大いに生かそうとも思った。それがまだ見ぬ真の病の怖さへの対抗策でもあった。




