第三章 永久(とわ)に咲く華4
――やばいーやばいぞ。
結局施設全ての店舗に二人は足を運んだ。そしてその帰りの電車の中で空いた座席にご満悦な永華と二人で座った陽介は焦りに焦っている。日が長い季節で夕焼けはまだ地平線に隠れる事はない。
しかし、陽介が今朝から考えていた一世一代の覚悟はまだ日の目を見ていない。このままでは今日この日が幕を閉じてしまう。それだけは避けたい陽介は電車を降りてからの行動を念密に計算している。
「ねーようちゃん? ようちゃん聞いてるの?」
「え、聞いてるよ? 夜景の綺麗な高台に行きたいんでしょ?」
「そんなこと言ってないんだけど……、一回お家帰ってから行きたい場所あるんだけど良いかな? って聞いたの」
恋愛経験者なら陽介が何を考えているか分ると思う。まだ友達関係の男女がこのまま終わるのは中学生までである。来月で二十歳になる男はそれでは終われない覚悟を今日一日抱えていたのだ。
「ええ、んー」
それを砕かんばかりに永華がチワワの様なクリっとした瞳でお願いしてくる。男・陽介は考える。
――何故一旦帰るんだ? そのまま今日は解散になったらどうしよう。
「……良いよ! 永華の好きにして」
「やったありがとう! ようちゃんと今日絶対行きたかったんだ」
誰の頼みだ? 永華の頼みではないか。簡単に陽介の覚悟は妥協の浅瀬で座礁した。そんな陽介を尻目に永華はそう言い更にご満悦である。周囲の男性客の視線が気になるのはこの子のせいで間違いないであろう。
そんな平日の夕方、子連れが多い車内で二人は他愛もない話で盛り上がる。途中で老婆と乳児を抱いた女性が乗車して来ると二人は誰よりも早くその二人に席を譲り河川を横断する車窓から茜色の空とキラキラ輝く水面の風景を二人して見入り息を飲んでいた。
茜色に染まる街を颯爽と駆け抜ける十両の車両。車体を輝かせ希望も絶望も抱える世界を突き進む。二人もその世界を互いに寄りそい合い走る夢を見ている。
世界は燃える。二人の想いも燃える。目的地まで止まらぬ二つの異なる特急列車はどこまでも走り続けるのだ。
買い物客で賑わう南口を通り住宅街に繋がる学生多き国道を進む。荷物はあれから増えていない。永華の衝動買いは全て宅配サービスに押し付けてきたからである。
ただし、陽介の只ならぬ不安はこれっぽっちも解消せれていなから唯一の女性物衣服が入った袋を持つ陽介は浮かない表情である。
「疲れちゃったかな? ごめんね後少しだけ付き合ってくらないかな?」
付き合ってくれないかな? 陽介がその言葉に過剰反応する。
「え、付き合う? そ、それは喜んで! どこまでも一緒に行こう」
「欠かせない用事なの、付き添いお願いします」
「あ、そう言う事か」
「うん?」
もちろん陽介の都合が通る訳はない。変な期待を抱いた事が更に陽介を焦らせ不安を助長させる。
一歩進むと一目盛り気分が下がる。そしたらどんどん無口になる斎藤陽介は溜息を吐いて春風の門を潜った。
「お母さんだだいまーあの向日葵持っていくねー」
「あら永華ちゃん早いじゃないの? もって行くってあそこに?」
玄関先で待ってて。と永華に言われた陽介は外に戻りそんな声を幻想的に色が変わる空を見上げながら聞いていた。
「そう! ようちゃんも良いって言ってくれたからパパに挨拶しに行くの」
「パパに? そう、じゃあ準備出来たら陽介くん呼びなさいよ?」
「はーい」
そんな会話が終わると表のシャッターが開く音が聞え春子が表から歩いて黄昏る陽介の方に歩いてきた。
「一体何があったの? 永華ちゃんが総一郎さんのとこに貴方と行くなんて……」
「パパさんですか? 分からないです」
そこまで聞いていなかった陽介は面食らった表情で同じくらい困惑している春子を見る。
「あの事はちゃんと伝えたの?」
「いえ、まだです」
「薬の事は?」
「詳しい事は……でも話してくれるとは言ってました」
「そう、今日どんな事があったか教えてくらないかな? なにかアドバイス出来るかもしれないから」
アサガオも萎む夕暮れ時、春子もなんだか枯れてしまいそうな声色をしている。陽介自身も色々あり過ぎてどうして良いの分からないの今日あった事を全て話す事にした――。
「そうなんだ……、よりによって原宿に行ってしまったのね」
「永華がどうしてもって言うから」
「仕方ないわよ、陽介くんは知らないんだから」
仕組まれたデートと言ってしまうと聞えが悪いが、今日のデートは永華が持ち出し行き先も永華が決めた。それにどんな考えがあったかなんて陽介には分からないし母親である春子も明確には断言できない。
「パパと比較されたのは仕方ないわ?」
「どうしてです?」
「貴方は似ているの。人生を予告されそれでもあの人は人一倍自分を変える事に努力していたわ……、それを近くで見ていたあの子が、貴方とパパを比べるのは簡単よ? 顔も少し似てる気もしなくもないし」
それが真実なのだろうか。知り合って間もない陽介に初めてあそこまで好意を抱く理由は、亡き父に似ているからなのか。確信は持てないが春子はそうとしか思えなかった。
「じゃあ、パパに似てるからこんな俺にも良くしてくれるんですかね? 今日は大好きなパパと出かけてる気分だったんですかね?」
「あの子が白のワンピースしか着ない理由はパパのせいなの。……、あの古いワンピースも総一郎さんが十年後の永華がこれを着て買い物に行ける様に願って買った最後のプレゼント……、本当なら好きな男の子と出かける時に着る事を祈ってた」
肯定も否定も出来ない春子は重い口をユックリ動かし永華とワンピースの秘密を世界崩壊に巻き込まれる子供みたいな表情をする陽介に明かす。
「なのに、あの子はそんなパパの気持ちを勘違いして陽介くんともう戻って来ないパパの姿を重ねて……なんてひどい事を……ワンピースを着てるからってパパはもう戻って来ないのに……ホントごめんなさい……ごめんなさい……」
「春子さん……」
誰が悪いなんて考えてもいなかった陽介に春子が涙を流しまがら頭を何回も下げる。
――大好きなパパからの贈り物を大切に思う事は良い事じゃないのか? 白いワンピースへの執着心の理由がこんなにも切ないなんて……。
自分の醜い嫉妬心が恥ずかしくなった陽介は手に持つ袋を見つめ考える。自分の気持ちと永華が父を思う気持ち。
「別にそれは良いですよ、俺はまだ気持ち伝えてないんですから、永華が俺の気持ちに気が付かないでパパと比べるのは仕方ないです」
自分も憎しみの念を無関係な永華に浄化して貰おうとしていた。それを思い出し陽介は思った。
「それならパパ以上に俺を好きになって貰えばいいだけです。簡単には行かないと思いますし大それたことぬかして怒られるかも知れないですけど、俺もパパさんと同じくらい永華の事好きです、否、それ以上に好きですだから負けません」
誰にも負けない花がクシャリと咲く。自分の気持ちに自信があるから陽介は負けない一心でここまで来れた。一度はダメになり掛けた想いを告げるとこまで奈落の底からのし上がってきたのだ。
「永華の秘密を受け止める自信はあります。だから春子さん、何時もの笑顔で元気付けて下さいよ」
「素直だから傷付くし素直だからこそ愚直なまでに人を強く思える。たまには後先考えないで生きてみようかな? 陽介くんファイト」
――これで良いのかもしれない未来なんて分からないだからね。
亡き夫・総一郎と経営を始めたフラワーショップ春風での二十年を経て癖になった笑みをする春子がそう思った。
若い二人の可能性に賭けても良いんだ。例えそれが決められた運命に繋がる道だとしても、今のこの時間を精一杯生きて欲しいのだ。それが親心なのだろう。
「陽介くん、気張って何があっても死ぬ気であの子を愛しなさい! これが私の貴方達が交際する為の条件よ」
「分かりました!」
若いって良いなー。この時の陽介の綺麗で真っ直ぐ過ぎる程前を向く瞳を春子はそう思いながら見つめ返した。
「ようちゃーん、ちょっと手伝って」
「あ、はいはい」
「頑張ってね」
遂にあの覚悟を永華に伝える事に決めた陽介が動き出す。それを春子が全力で後押しする為に両手で黒い背中を突っ張った。それだけでも勇気が湧いた陽介は初枝スマイルをして言う。
「あ、荷物届くかもしれないんでよろしくお願いします」
それに親指を突き立て春子は返した。
夕暮れの淡い光の中を陽介は春風家のママチャリに乗り永華を後ろの荷台に横向きで座らせた。時折、カゴの中に買い物袋と一緒に固定した向日葵から夏の香りが漂う中、ある河川敷に向かう。
人ごみを避けて風を切る自転車の荷台に座る永華が段差で車体が弾むと「わっ、絶叫マシーンみたいだね」となんだか楽しそうに笑いその都度陽介の背中に貼りつく様にしがみ付く。
遅い青春を迎えた二人がお互いにばれない様に頬を嬉し恥ずかしい青春色に染める。踏切を越え主婦や寄り道をする学生達で賑わう商店街を二人と一輪の大輪が横切る。
「このまま真っ直ぐ進んでねそしたら見えてくるから」
パステルカラーのクッションを敷いた上に座る永華が人生初の二人乗りで感無量の陽介の耳元付近でそう言い前方を指差す。まだ街灯は点いていない街路の前方にコンクリートの壁がそびえ立っているのが見える。
「私降りるね? だから止めて」
「いや乗ってて」
目的地の河川敷に行くためにはこの堤防に設置された高さ十メートル、角度十度のスロープを上らないと行けない事を知っている永華はそう言った。
だが、何を思ったのか陽介はスピードを更に上げ堤防に沿って車体を走らせる。
「永華を乗せたままこの壁を登って見せる! 行くぞおおおおお」
それは覚悟を現していた。どんな困難でも立ち向かって見せるんだ。陽介は歯を食いしばり立ち漕ぎで褐色の滑り止めが施されたスロープを上る。それに永華は目の前の気張る腰にしがみ付いていた。
「頑張ってようちゃん! あと少しだよ!」
「俺はー君と、どこま、でも行くんだあああああああああああ」
最後の気合いでペダルを一蹴する。側面の民家の屋根造りが見える高さまで二人は来た。最後の追い込みが掛かり灰色の壁を越え、赤々と燃える夕日が地平線まで続く河道に呑みこまれる景色が二人の前に広がる。
「はあはあはあはあはあはあはあー」
「きれい……」
ハンドルを握り絞めたまま足を着いた陽介は眼前の風景への感想を言う前に荒ぶる呼吸を整えるに必死であった。その脇で漸く止まった自転車から降りた永華はムチャした陽介を労う事を忘れて彼方で最後の輝きを見せる太陽に感激していた。
「はあはあはあはあああはあ、そうはあああはあだね」
「うん」
落ち着いてから話せば良いものを、永華と同じ心境になりたい陽介は訳の分からない言葉を発しやっと自転車から降りる。
「……」
「はあああははあはっはあはあはっはははああ」
「……」
「ぜはあはあぜはあぜはあああ」
有り触れた風景ではあるのだが、時にその有り触れた風景が心に染みる時がある。それは今の永華がそうで大袈裟にも涙を浮かべ地平線に沈む行く夕焼けを見つめる。その脇で奇怪音を出し雰囲気の共有を図るが無理だと察し座り込む陽介。
そうやって二人は少しの間同じ風景を見つめ黙ってしまった。何処までも続いている錯覚してしまう穏やかな河を、何本もの架橋が横断しており一定の間隔で逆行の為に黒塗りの電車がその上を通過したり自動車の列が進んで行く。
「ありがとうようちゃん」
当然そんな風景を見つめる永華がそう漏らした。
「え?」
やっと話せる様になった陽介が間抜け面で隣を見上げる。
「この風景一緒に見たらやっと話せる覚悟出来たよ」
「そ、そっか」
茜色に染まる永華の瞳から一筋の涙が零れる。それを見て陽介は只ならぬ物を感じ確実に毛細血管が切れた足に力を入れ立ち上がる。
「私ね、【後二カ月で死んじゃうの。】この大好きな季節が去る頃に私もこの世界にバイバイしないとイケないんだ」
「……」
世界が突如崩壊した。
幻想的な光で輝く世界が闇に呑まれた。
あの日駅のホームで眼前に広がったあの向日葵が粉々に砕けて消滅した。
「う、嘘でしょ? そんな冗談やめてよ」
やっと陽介は言葉を紡ぎ出した。
「ウソじゃないよ、ようちゃん、私はもう生きられないの……貴方と生きられないの、この心臓はもう限界なの」
そんなの信じられる訳がない。だから陽介は黙って頭を左右に振った。彼女がまた悪ふざけをしていると思い真剣に聞こうとしなかった。逆にこっちが騙してやろうとさえ思っていた。
「話すね、私の秘密。昨日ようちゃんが教えてくれた様に、私も貴方に聞いて貰いたい話があるんだ。ワンピースしか着ない女の子の話、その子が生まれ持った抗えない運命の話、立ち向かう事も出来ず諦めた女の子の話、ようちゃんにはちゃんとするね」
力なく肩を落とし俯く陽介に永華は昨日の事を鮮明に思い出し泣くどころか笑った。何時もの向日葵笑顔をもっともっと鮮やかに染め全てを話す。
春風永華。生まれた瞬間から運命が決まっていた女の子。彼女は先天性の心臓病を患ってこの世界に降り立った。
父方の遺伝による生まれ持った病が彼女に悲運な人生を歩ませている。
父――総一郎と同じ病が幼い彼女を襲い闘病生活を余儀なくさせる事は簡単だった。ただでさえ新生児でまだ心音も安定しない永華に、度重なる手術は過酷な物だと容易に想像が付く。
父・総一郎と母・春子は初めて授かった小さな光で必死に輝こうとする命を懸命に救おうとした。自分と同じ病の愛娘に文字通り血を分け己の診断書を提供しどうにか娘だけは助けようと自分の弱る体にムチを打ち永華を守ろうと必死だった。
それが神に届いたのは三カ月後であった。永華は一命を取り留め僅かな可能性を信じられるまで回復したのだ。
幼い頃の総一郎が歩んだ闘病生活の苦難が永華を救ったのであった。
それからは虚弱体質で激しい運動は控えなければならない体になった永華だったが、両親が経営する小さなフラワーショップでそれは楽しい時間を過ごした。たまに発作が出ても父や母が守ってくれるのだ。そんな二人を永華が好きになる事など簡単であった。
毎日の様に見た事もない綺麗な花を沢山育てる父の足にしがみ付き抱っこを要望したり、まだ店員として駆け出しの春子の修行を寂しいから邪魔したりとどこにでもいる一人の女の子がそこにもいた。
たまに店の前で蝶を追いかけていると近所の老婆、当時は黒髪の横沢ウメにお手玉や昔話を読んで貰うなど普通の子として生活出来ていた。
その時期である。夫婦がどんなに辛くても笑顔を忘れず自分達がこの街に一杯に笑顔を咲かせようと考えたのは。その一環がそれから十年後――今二人がいる河川敷に形としてある。
「パパね、ここに大きな花壇をつくったんだ、ここの土手はパパの夢が沢山咲いてるの」
決して笑って話す様な内容ではないのに、永華は笑顔で視線を土手の斜面に向ける。それを追った陽介の前に確かに花壇があり海道に沿って続いている。
「皆を笑顔にしたいからって、お役所さんに無理言って作ったんだ」
おぼろげな記憶ではあるが雑草だらけの土手を春子と一緒に整備している姿を覚えている。
最初はたった二人の無謀な試みだったが、その噂を聞いた近隣の花屋や造園会社や一般人の住民が次々とその取り組みに参加し遂に計画の一部に過ぎない僅かな範囲だが完成させた。
そしたらそれが思いのほか住民から好評で、役所から全面的に協力すると電話が入り今の広大な面積の花壇を作り上げる事が出来た。
その結果は思わぬ恩恵ももたらした。それはこの河川敷を飾る花の注文を区が春風に受注すると言うもので、それが意味する事は間接的に春風の経済面を区が保証すると言う事だった。
それは春風に取って願ってもいない吉報である。当時、総一郎、永華の通院費が家計を苦しめていたのも事実だった。好きな物も買って上げられない愛娘の為に、二人はいつまでもこの河川敷を花で一杯にする事を誓った。
その矢先のことである、総一郎の病は急激に進み遂に余命を告げられた。土手開発の無理が祟ったのは見れば分かった。残された時間は一年余り。あまりにもそれは短すぎる。だが、総一郎は最後まで愛娘を大切に育て自分が出来る範囲の父親らしい事した。
それが今日、若い二人が行った原宿のデパートである。そこで総一郎は永華に一枚のワンピースと言葉を贈った。
「良いかい永華、十五年後、君がこれ着て大好きな人とここに来る事をパパはずっと祈るっている。白は幸せの色、パパの大好きな色のワンピースを大きくなった永華が着れる事を、パパは……パパは……ずっと祈るよ」
自分と同じ人生を永華には送って欲しくない。二十歳まで生きられないと宣告されている愛娘を強く抱きしめ総一郎はそう言ったのだ。
そして程なくして総一郎は愛する家族と夢が詰まった春風をのこしこの世を去った。
それからの永華は何度も病に倒れ闘病生活が長い間続いた。小学校もろくに行けず行けたとしても保健室登校が精一杯で、まともな思い出などない。友達も出来ない勉強も分らない。それでは老人で溢れる病院と何にも変わらなかった。
――つまらない日々、昔はあんなに楽しかったのに。
総一郎の言葉も日々薄れていく。
気が付けば中学生になっていた。一応名だけは名簿に載った。永華自身は十度目の闘病生活を自宅よりも長い時間を病室で送り外の桜を眺めていた。
毎朝決まって取られる採血が手首に傷跡だけ残して行く。点滴を打たれる時は針が幼い体を傷付けた。それに慣れ始めた頃、もう自分はダメだと気が付いていた。
病魔は確実に姿を誇大にさせその半面未熟な肉体は弱って行くのだ。日焼けを一度もした事がない肌を、看護師が羨ましいと言った。ただ単に外に出られないだけの青白い肌と、人間として十分に活動出来ている証拠の焼けた肌。見比べて永華は絶望した。
――こんな白いだけの肌なんて……。
私服を着て出掛けたのは、総一郎が亡くなる前に行ったあのデートだけである。それを思い出した永華は、その白い肌が目立たない様に父の残した言葉にあった白いワンピースだけを着る様になり、結局一度も登校する事なく中学生を終えた。
病院服とワンピースが私服の本来なら女子高生として青春を謳歌する年齢になった永華は、もう諦めていた。どうせ治らないのなら、大好きなパパが残した春風で最後を迎えたい。それが春風永華の最初で最後の我が儘であった。
そこまで彼女が覚悟しているのだ。医師と春子は何回も話し合い、彼女の残り僅かな人生を彼女自身の意思で全う出来る様に祈りを込めて通院生活に切り替えた。
それから徐々に永華は元気を取り戻し薬で何とかなるまで気持ちを強く持っていた。
その一種の覚悟を持てた出来事がある。それは中学時代に、突然病室に春子と沢山の花を持って現れた腰の曲がる老婆、斎藤初枝との出会いであった。
その不思議な老婆、長らく陽一の闘病生活を支えた初枝が沢山の思い出話を永華に聞かせた。ふさぎがちな子供に、自分と同じ境遇の老いぼれがまだまだ元気で余生を生きてるそ! とでも言ったのだろう。永華が初枝と陽一になつくのは早かった。
本格的に春風の一員として働き出した永華は既に十五歳を迎えていた。余命まであと五年だ。
そうやって元気付けられ春風で働き出した最初の永華は酷いモノで、陽介と同じかそれ以下であったが、春子の娘である。持ち前の明るさと誰にも負けない気品さを生かし気が付けば今の永華がそこで咲いていた。
――この街を笑顔で一杯にする、父の思いを今度は永華も背負った。
これが春風永華の全てであった。
「私はこんな女の子、とてもじゃないけどようちゃんの向日葵には慣れないよ」
昨日の返事に永華はそう言って答えた。
「……、聞いてたの?」
「うん」
長い回想の末、夕日は地平線に横たわる誇大な積乱雲に隠れてしまった。
陽介の頭の中はスパークする寸前だ。生きる希望の向日葵の過去が想像を超えているのだ無理もないか。余命宣告された女の子を好きになったのだ。どうしたらいいか分からない。
「そっか。それなら話は早いよ」
と思ったが、陽介はクシャリと笑った。
「俺はそんな永華が好きなんだ。これまで沢山辛い事あったのに、その笑顔を忘れず初対面の俺を元気付けてくれた。だから、君にどんな運命が訪れるか決まっていようが――」
陽介が笑顔の裏で震える小さな手を握る。
「俺は永華が好きだ、君といつまでも一緒にいたいんだ! だから俺と付き合ってく下さい」
今日一日掛けての大勝負。彼女の隠された過去と運命を知りながらも陽介は告白した。――ここで言わないで後悔するなら、告白して振られた方がマシだ!
「でも、私……もう長くないんだよ?」
「例えそうだとしても言わないまま永華がいなくなる方が悲しいに決まってるじゃん! それまで本気で君を愛した方が良いに決まってる!」
言葉により振り払われた手を陽介が再度握る。楽天的でも構わないと思っている。
「俺の事は良い、永華、君の本当の気持ちを教えてくれ! まだ出会ったばかりで好き嫌いとか馬鹿らしいけど、知りたいんだ」
本当は今にも壊れそうな陽介の心臓が青春の衝動を発する。
――後先など考えられない。例え残された時間が僅かとしても永華と共に生きると決めたんだ。
陽介の覚悟は揺らがなかった。
「私達、初対面じゃないよ?」
「え?」
「厳密に言うと、私はようちゃんを五年前から知ってるし、一年前に同じ場所にいたよ?」
何の事やらさっぱりわからない陽介はポカンとする。
――一年前? まさか――
「ようおじいちゃんのお葬式でね、おばあちゃんにハリ倒された情けない男の子を私も見てたもん」
「あ、あああ」
やはりか。初枝と陽一と少なくとも五年の付き合いがある永華があの場にいても可笑しくはない。それに気が付いた陽介の顔面は薄暗い中でも耳まで赤くなっているの分かる。
「あの時はあれがおばあちゃんのお孫さんだとは到底思えなかった。もしあのままだったら大嫌いだったかもね」
だろうね。心でそれに答える。だが次の瞬間永華は手をモジモジさせ乙女チックな表情をした。
「でも、ようちゃんは本気で自分を変える為に帰って来た。私の前にカッコ良くなって戻って来たんだ……だから……その……答えなんて……」
モジモジモジモジ。つま先で強固な地面をえぐる勢いで永華が激しくモジる。言いたい事は全て分る。
「え? それってどう言う事?」
だが、陽介はその意味が分からない。
「だから、初対面の人におじいちゃんから貰った定期入れを上げたりしない、好きでもない人とこの大切なワンピースを着て出掛けないってこと! もう、バカようちゃん!」
そう言い永華は体勢を立て直し深呼吸――
「貴方の事大好きですーこんな私で良かったら貴方の彼女にしてください」
おおー。土手の下で犬の散歩をしているじい様が突然の青春に歓声を上げている。
これだけ大声で叫べば陽介に届くであろう。
「マジ? ホント? 嘘じゃないよね」
「バカ、信じてよ」
「……永華、ありがとう」
「私こそ……ありがとう」
言葉だけでは疑り深い陽介が渾身の告白を信じないので、永華を抑えらなくなった想いを抱いた胸ごと陽介に押し込んだ。
これが二人の初めての愛の告白で、そして初めて一人の男女としての交際が始まる瞬間だった。
出会ってから数え切れない程の不安はあった。それが一気に解決すると二人は抱き合ったまま見つめ合っていた。
「良いのホントに? パパとの約束はいいの?」
これは春子も気にしている。だから聞いた。
「それ勘違いだよ? パパは自分以外の異性と行ける事を祈って――」
「いや永華、君が俺とパパを比べる様な事言うから、俺てっきり永華はパパしか愛せないファザコンだと」
「な、なななパパをアイス、何言ってるの!」
最後の不安要素を陽介が取り除こうとしたら永華が本気で怒り出した。
「私とパパを家族なんだよ? 仮にも愛し合う事が許されるのはお母さんだけで、実の父親と娘がそんなイケないこと」
「え? どう言う意味」
「え?」
実は永華って耳年増? 陽介はそんなつもりで言った訳ではないのに永華は何を思ったのかモジる上に顔が赤い。
「し、知らなーい! ようちゃんのバカ! マヌケ変態!」
「いや、変態ってそんな事言う永華がへん」
「だまれ―」
バチーン! 愛の必殺ビンタが余計な事を言う陽介に襲い掛かる。薄暗くなってきた河川敷で、何をしているんだ二人とも。
怒り出した永華から逃げる為に土手を下りる陽介とそれを追う為に階段からちゃんと土手を降る永華の姿が、夕焼けの最後の力で茜色に染められる。置いてけぼりの自転車のカゴに向日葵と永華への大切な送り物があるのを忘れ、二人は追いかけっこをする。それが余りにも楽しそうなので夕日も最後の力を振り絞り二人を照らすのである。
それから体が許すまで永華は大好きな陽介を追いかけ続けた――。
「これ」
「え、なにこれ?」
「俺が永華に着てもいたくて買ったワンピース」
最後の力を出し輝いた夕日が大地に隠れしばらくしてから、この河川敷にきた理由である向日葵の花壇への移し替えは明日に延期された。
なので自転車のカゴに向日葵は行儀よく座ったままで、陽介はあのワンピースの入った袋だけを無理に走り回り貧血寸前の永華に渡した。
「わーありがとう。……でも」
そろそろ本の文字も読めない暗さになって来たので中身は確認しない永華だが、一応は喜ぶ仕草は見せたが俯く。パパとの約束があるから――。
「良いよ、パパの思いも大切だからね。だからさ、俺の事パパ以上にすっげー大好きになったら着てよ? それまで持つから」
「よ、ようちゃん!」
「な、永華」
自分の勝手な思いを察してくれた陽介に永華はありったけの感謝と愛情を胸一杯に抱き抱き付いた。それに驚きバランスを崩しかける陽介だがそこは堪えた。
「いつか、ううん、きっとようちゃんだけを大好きになったら着るから! 【ダメになる前】に着るから、その時は私をようちゃん色に染めて! 絶対だよ?」
熱気ある陽介の胸から顔だけを上げ最後に
「私の大切なしかも初めての彼氏さん」
もう斎藤陽介がダメかも知れない。憧れだった永華と出会い両想いになってしかもこんなにも嬉しい事を言ってくれるんだ。陽介はもう思い残す事はない。何時でも天国の陽一じいちゃんに会いに行っても良いと思えた。てかこのまま時が止まれば良いのに。無茶でももとギュッと抱きしめる。
「じゃあ、帰ろう?」
「あ、うん」意外とアッサリしている。
川辺の少し冷たい風が吹く頃に、二人は自分が宇宙にいる様な気持ちを感じつつお互いの体温を感じながら夜風を切った。
余談であるが、永華が陽一の葬儀に参列していた事を春子に確認を取ると
「私もいたわよ? そう言えばダサい少年がいたわね? ふふふ、見違えるわねー永華をよそしくね」
そんな事を満面の意地悪顔で言っていた。
春風に初めて現れた陽介をどうして永華が「ようちゅん」とすんなり呼べたのかは、彼女の過去を知った今では簡単である。五年前から永華は陽介の存在を知っていたのであるから尚更である。
そんなこんなで、春子も初枝も二人の交際を心の底から喜んだのは言うまでもない。若い二人が自分の力で何重にも壁がそびえる未来を切り開いたのだ。それを誰よりも喜ぶのは母の仕事である。
どんな事があっても切れない絆を二人は結ぶ。オリオンが輝く夜空がそんな二人を祝う様に輝き子守唄を歌う。暑い夏が訪れた。一夏の旋律が漸く響き渡るそんな季節が訪れた。二人の交際が何時までも続く事を皆が願った




