第8話 小石一つ分の勇気
「……何、この音?」
薄暗い通路を歩いていた俺は、思わず足を止めた。
少し前から、地響きのような音が何度も聞こえている。
ドン──。
ズン──。
時々、壁や床まで揺れていた。
「絶対、行かない方がいいよね、これ……」
俺は音のする方向とは反対側へ歩こうとした。
触らぬ神に祟りなしだ。
だが、そちらの通路は大きな瓦礫によって塞がれていた。
他に道はない。
目の前には、音のする方向へ伸びる一本の通路だけ。
「選択肢が一個しかないの、やめてほしいな……」
帰りたい。
地上へ戻りたい。
今日の残り一発を、なるべく小さくて弱そうな魔物へ使い、可及的速やかに帰宅したい。
俺が望んでいるのは、それだけだ。
「……行くしかないか」
俺は壁際を歩き、慎重に通路の奥へ進んだ。
やがて前方が明るくなってくる。
同時に、人の声も聞こえてきた。
『江戸川探索者! 立ってください!』
『変異種が戦斧を振り上げました!』
『誰か! 早く扉を開けろ!』
「……江戸川?」
聞き覚えのある名前だった。
今日の始業式。
壇上で挨拶をしていた、一つ上の生徒会長。
江戸川朱里。
「いやいや、まさかね……」
恐る恐る通路の先から顔を出す。
そこには、巨大な円形の部屋が広がっていた。
宙に浮かぶ複数の撮影用ドローン。
壁際に倒れた、赤い軽装鎧の女子生徒。
そして──
部屋の中央に立つ、見上げるほど巨大な赤黒い牛頭の怪物。
「…………」
俺は静かに顔を引っ込めた。
「うーわ……一番来ちゃ駄目な場所じゃん……!」
何だ、あれ。
コボルトより明らかに強い。
ゴブリンとは比べることすら失礼なくらい強そうだ。
というか、江戸川先輩がいる。
しかもテレビ中継中らしい。
浮かんでいるドローンには、テレビ局のロゴまで入っている。
「……よし、帰ろう」
俺は即座に踵を返した。
関わってはいけない。
ここで【一撃必死】なんて使ったら、全国放送で正体が映ってしまう。
俺の平穏な人生が終わる。
それ以前に、あれほど巨大な魔物を爆発させたら、どれほどの被害が出るか分からない。
だから、これは専門家に任せるべきだ。
俺は今日登録したばかりのE級探索者。
しかも制服姿。
場違いにもほどがある。
『江戸川探索者が動けません!』
『危険です! このままでは──!』
背後から響いた実況の声に、足が止まった。
ほんの一瞬だけ迷う。
俺が戻ったところで、何ができる?
残っている【一撃必死】は一発。
攻撃を当てれば、あの怪物も倒せるかもしれない。
でも、絶対とは限らない。
失敗すれば俺も死ぬ。
それに成功しても、テレビに映る。
「……知らない人なら、逃げられたのにな」
始業式で、一度見ただけ。
話したこともない。向こうは俺の存在すら知らないだろう。
それでも──
同じ学校の先輩が、すぐそこで殺されそうになっている。
それを知っていて、見なかったことにするのは──
「無理だよなぁ……」
大きなため息が漏れた。
俺は学ランのボタンへ手を掛ける。
制服を脱ぎ、頭から被った。
目元だけ出るように顔面に学ランを巻きつけ、両袖を後頭部で強く結ぶ。
視界は狭い。息苦しい。見た目も、たぶん相当怪しい。
だが、顔を晒すよりはマシだ。
「よし……誰だか分からない。多分」
足元から、手頃な大きさの石を拾う。
残り一発。
これを使えば、今日のノルマは終わる。
そして、当たらなければ──
きっと、俺の人生も終わる。
「落ち着け……」
ボス部屋を覗く。
変異種が、倒れた江戸川先輩へ戦斧を振り下ろそうとしていた。
あの距離で爆発させれば、江戸川先輩まで巻き込むかもしれない。
なら……先に、怪物を先輩から引き離すしかない。
俺は物陰から飛び出した。
「お、おい! そこの牛!」
声が裏返った。
変異種が動きを止める。
金色の目が、ゆっくりと俺へ向けられた。
「こっちだ! こっち来い!」
何をやっているんだろう、俺。
昨日までは、将来公務員になって定時で帰る予定だったのに。
どうしてダンジョン最深部で、巨大な牛の化け物を挑発しているんだ。
マタドールか?
変異種が低く唸る。
そして江戸川先輩から離れ、俺へ身体を向けた。
「ブオオオオオオオッ!!」
咆哮とともに、巨体が突進してくる。
地面が揺れる。
速い。
大きさからは想像できない速度だった。
「いや、速っ!?」
逃げたい。
今すぐ逃げたい。
でも、逃げれば再び江戸川先輩が狙われる。
俺は震える手で石を構えた。
(頼む……!)
慎重に、狙いを定める。
変異種の巨大な頭。
的としては大きい。
それでも、全身が震えて腕がうまく動かない。
(【一撃必死】……発動してくれ!)
俺は、力いっぱい石を投げた。
ひゅっ──
何の変哲もない小石が、変異種へ向かって飛んでいく。
その瞬間──
俺の右手が、真紅に輝いた。
石にも、同じ赤い光が宿る。
『な……何者でしょうか!?』
『突然、覆面の人物が乱入しました!』
『石を……投げた?』
全国へ流れる実況の声。
江戸川先輩も、床に倒れたまま目を見開いていた。
赤く輝く小石が。
突進する変異種の額へ、吸い込まれるように命中した。
──カッ!!




