飛鳥、飲み会にて思い切り惚気る
飛鳥の頭の中は、どこかふわふわとしていた。レモンサワーのせいか、さっき抱きしめられたのが効いたのか、それとも――もう、自分でもよく分からない。気がついたときには、誠の腕にしがみついていた。彼の席は、いつの間にか飛鳥の左隣に入れ替わっている。……あれ? いつ入れ替わったのだろう。
「まこと、あったかい……」
声に出したかどうかも曖昧だった。普段の自分ならこんなことは言わないはずなのに、口が勝手に動いている気がする。たぶん、言っている。飛鳥は誠の肩にそっと頬を預けた。髪が彼の服に触れてくすぐったかったが、離れたくはなかった。
「ふふ……もうずっとこうしてよっか……」
周囲の笑い声も、グラスが触れ合う音も、今の飛鳥には遠く低く響いていた。
(あー……わたし、なにしてるんだろ)
そんな小さな理性が頭をよぎるが、もうどうでもよかった。誠がすぐそばにいて、彼の匂いがちゃんとする。胸の奥がきゅーっと締め付けられ、なぜか泣きそうになる。でも――同時に、ひどく幸せだった。
「……好きだよ」
小さく呟いた。聞こえていない確信はあったが、口にできただけで満足だった。飛鳥がそっと誠の手に触れると、彼の指先は少し冷たく、そして優しかった。離したくない一心で、飛鳥の指にほんの少しだけ力がこもる。
***
ざわざわとした笑い声とグラスの音が、急にボリュームを上げたように鼓膜へ戻ってきた。店員が「ラストオーダーですー」と告げる声が響く。
(……あれ?)
霧が晴れるように世界がはっきりとしていき、みんなの姿が見えてくる。もちろん誠もいる。飛鳥は確かに彼の隣に座っていた。けれど、何かがおかしかった。周囲の視線が、一斉に自分たちに集まっているのだ。今、何か口走ってしまっただろうか。……いや、まだだ。まだ言っていない。だからこそ、今言ってしまおうと思った。
「ねえ、聞いてよー」
飛鳥は誠の肩に寄りかかったまま、あえて声を張り上げた。
「ほんとはね――あたしたち、ずっと前から付き合ってたんだー」
その瞬間、居酒屋のテーブルの音がぴたりと止まった。一瞬にして静まり返る。
(ああ……言っちゃった)
それなのに、胸のすくような快感があった。
「ちょ、ちょっと飛鳥、なに言って――」
誠が慌てて腕を引っ張ってきたが、飛鳥は頑なに離さなかった。
「だって、ほんとじゃん?」
「酔ってるだろお前……!」
「……うん、酔ってるよ?」
にこっと笑い返してみせる。しかし、単なるアルコールの勢いだけではなかった。
「でもね、ずっと我慢してたの。隠すの、苦しかったもん」
破裂したように、周囲のざわめきが戻ってくる。
「マジで!?」
「え、そうなの?」
「でもお似合いかもー」
誰かが驚き、誰かが笑い、誰かが信じて、誰かが疑っている。
(それで、いいや)
このまま誠の彼女としてここにいたい。飛鳥はそう願いながら、また彼の肩に頬をくっつけた。やっぱり、あったかい。とろりと、視界が心地よく滲んでいった。
***
「最初はねー……まことのこと、ほんっと嫌なやつだと思ってたの」
気づけば、飛鳥の口は滑らかに動き続けていた。グラスを片手に持ち、ほっぺたを誠の肩にぴったりと寄せ、傍目から見てもベタベタの様相だった。周りの空気がざわつくのを感じたが、止める気なんてさらさらない。
「なんかさー、いっつも冷たくて、なんか自分だけ正しいって感じでさ。ムカつくし、話しててもつまんないし……って思ってたの。最初は」
「ちょ、ちょっと飛鳥、やめ――」
誠はあからさまに焦っていた。しかし、飛鳥は絶対に彼を解放しなかった。
「でもねー、なんか……気づいたら、見ちゃってたのよ。目で。あ、今日もいるなーとか、また同じコンビニ寄ってるーとか、こっちは見てないのに、なんか気になっちゃっててさ」
くすっと笑う飛鳥の胸に、少しだけ気恥ずかしさが湧く。
「で、わたしから告白して――……あれ?ちがうか。まことから、だっけ?」
「いや、それは――」
「えーどっちだったかなー。もう忘れちゃったー。でもさ、なんか、気づいたら付き合ってた、って感じ?ね?」
顔を至近距離まで近づけると、誠は完全にキャパシティをオーバーして固まっていた。それを見た周囲が、一気に爆発する。
「マジかよ」
「うわ、それは知らんかった」
「えー!え、ほんとに?ずっと前から?」
男の子たちはあからさまにショックを受けた顔をしていたが、飛鳥にとってはどうでもいいことだった。対照的に、女子たちは一様にニコニコしている。
「言われてみれば、そんな気してたー」
「うんうん、最近いつも一緒だったしね」
「飛鳥ちゃん、まことくんの前だけ、めっちゃ柔らかい顔するよね」
「わかる!なんか、恋してるって感じー!」
その言葉が嬉しくて、飛鳥はもう一度誠に寄りかかった。
「ね、まこと?ばれちゃったねぇ?」
誠は何も言わなかったが、耳の付け根が真っ赤になっている。
「ふふ……なんかさ、もう、いいかなって思ったの。こうやって言っちゃっても。だって、好きなんだもん、わたし」
グラスを置き、誠の指をぎゅっと握りしめる。ちゃんとあたたかい、本物の彼がそこにいた。
「ねえ、これ、夢じゃないよね?」
こぼれ落ちた言葉に誰も答えはしなかったが、それでもよかった。今の飛鳥は、誠のそばにいられる、ただそれだけで十分に幸せだった。
***
「ねえねえ、みんな、聞いてくれる?」
飛鳥はグラスをくるくる回しながら、誠の腕にくっついたまま、みんなに向かって声をかけた。
「なんかね……まことって……お兄ちゃんみたいなの」
一拍、妙な間が空いた。
「……え?」
「お、お兄ちゃん?」
飛鳥はふにゃっと締まりのない笑みを浮かべて続けた。
「だってさ〜、後ろからぎゅーってされると、なんかもう……ふわ〜って、なるの。あったかくって、甘くって、やばいの」
ざわっ、とした直後、店内が爆発したような悲鳴と笑いに包まれた。
「ちょ、飛鳥ちゃん!?それ、アウトじゃない!?」
「えっ、後ろから!?お兄ちゃんって!?ちょ、ちょ、やばいやばい!」
「いやもう、どんな夜送ってんの誠くん!!」
「むりむりむり、情報量が多すぎるって!!」
誠はその場で両手で顔を覆い、完全に沈黙してしまった。
「……だから言っただろ……止めろって……」
その絞り出すような小さな声は、飛鳥の耳にだけ届いた。しかし飛鳥は誠の腕を引っ張り、無邪気に笑ってみせる。
「だいじょーぶ、みんな優しいから怒んないもん」
(ね、まこと……もうちょっとだけ……惚気させて?)
***
「もうわかった、完敗だわ」
誰かが降参するようにテーブルを叩いた。
「ふたり、好きすぎ!」
「おめでとー!」
巻き起こる拍手の中、飛鳥はわけも分からず笑っていた。誠の肩にしがみついたままで。
「じゃあさ、もういっそ……キス、しちゃえば?」
「それそれー!」
「見たい見たい!」
「えっ……」
誠の身体がびくついたのが伝わってくる。
「キスしようよ、ね?」
飛鳥はまっすぐに、誠の顔を見上げた。
「酔ってるよ、飛鳥……」
「……キス、したくないの?」
その瞬間、少しだけ――ほんの少しだけ、飛鳥の心がすうっと沈んだ。
「あ……違う、そうじゃなくて……」
焦る誠の声を聞きながら、飛鳥はすでにうつむいていた。
「そっか……わたし、うるさかったよね……ごめん」
そのとき、ふわっと頬にあたたかい感触が触れた。それが誠の唇だと気づいたのは、ほんの一秒後のことだった。顔を上げると、誠が真っ赤な顔で照れくさそうに笑っている。
「……したかったに決まってんだろ」
「……ん」
その一言で、飛鳥の中のわだかまりは完全に溶けて消えた。
「きゃーーーーーっ!!」
「はい、拍手〜〜〜!」
「幸せかよ……!」
歓声と拍手、からかいと羨望の入り混じった声が響く。しかし、今の飛鳥にはすべてが遠い世界の出来事のようだった。目の前には誠がいて、その瞳が、自分だけを真っ直ぐに見つめてくれていたから。
(……夢なら、覚めなくていいな)
***
居酒屋のざわめきが、次第に遠ざかってゆく。拍手の音も、笑い声も、誠の唇の熱も、すべてが遠くへ。
(あれ……?)
身体がふっと沈み、深い水の中に吸い込まれていくような感覚のあと、やわらかい浮力でゆっくりと浮かび上がった。どこかから聞こえる街の雑雑とした音。信号機、車のエンジン音。湿った夜風と、肩越しに伝わる絶対的なぬくもり。
「……ん……」
飛鳥が目をあけると、街灯の明かりがにじんで見えた。彼女は誠におんぶされていた。白いシャツの背中がすぐ目の前にあり、自分の頬がそこにぴったりと触れている。
「……あれ……」
喉から掠れた声がこぼれた。
「……起きた?」
肩越しに、誠の低い声が届く。
「……うん……」
そう答えるのがやっとだった。頭がぽわんとして、まだ夢の中に片足を残しているような心地だった。
(……夢だったの、かな……みんなの前でキスしたり……あんな話したり……)
けれど、飛鳥の中には鮮明な感触が残っていた。誠のぬくもり、声、そして背中からトントンと伝わってくる彼の鼓動。それが現実か夢かなんて、もうどうでもよかった。
(まこと……)
飛鳥はそっと彼の背中にしがみついた。この人が抱えてくれるのなら、もう一度深い眠りに沈んでもいいとさえ思った。
***
コツ、コツ、と誠の足音がアスファルトに規則正しく響いていた。飛鳥はまだ彼の背の上にいた。頭はぐらぐらとしていたが、妙に心地よかった。肩に当たる夜風は冷たいのに、誠の背中は驚くほどあたたかい。まぶたの裏で、通り過ぎる街の明かりが揺れていた。
「……まこと」
「ん?」
背中越しに、小さな返事が返ってくる。
「……あたし、いまどこ?」
「駅のほう、歩いてる。タクシーつかまえようと思って」
「ふぅん……」
飛鳥は曖昧に答えた。まだ半分は夢の住人だった。そんなとき、誠が苦笑混じりに言った。
「……飛鳥、めちゃめちゃ酔ってたなー。すげぇテンションだったぞ」
「……そっかぁ……」
(やっぱ、夢じゃなかったのか……)
飛鳥の顔が、じんわりと熱くなる。
「なにしゃべったか、覚えてる?」
「……んー……ちょっとだけ」
それは嘘だった。本当はほとんど覚えていた。けれど、全部覚えていると言うのが急に恥ずかしくなったのだ。誠の背中がクスクスと小刻みに揺れるのが伝わってくる。
「そりゃよかった。覚えてたら、恥ずかしくて死ぬだろなーって思ってた」
「……ひど」
不満を口にしつつも、飛鳥はもう一度、彼の大きな背中にぴったりと身を寄せた。
***
それでも、飛鳥にはまだ分からないことが多かった。あのとき、トイレの前の廊下で何を話したのか。その前はどうだったのか。自分はいつから、あんなに彼に甘えるようになっていたのだろう。キスは……本当にみんなの前でしてしまったのだろうか。どこまでが夢で、どこからが現実なのか。その境界線は、まるで水に溶けるインクのように流れて消えていく。
(まこと……)
おんぶされたまま、飛鳥はゆっくりと再び目を閉じた。誠の背中は変わらずあたたかく、肩越しの匂いも、歩くリズムも、すべてが愛おしい記憶だった。もうすぐ家に着く。けれどその前に――もう少しだけ、このままで。ほんの少しだけ、誠の背中に甘えていたかった。
(……ねえ、まこと。もし、あれが全部夢だったとしても……。わたし、すっごく幸せだったよ)
心の奥底だけでその言葉を呟き、飛鳥は静かに眠りに落ちていった。世界で一番あたたかい、たったひとつの背中に包まれながら、夜の街を運ばれてゆく。
***
アパートの階段を誠は飛鳥をおんぶしたまま上がる。飛鳥は本当はもう酔いも眠気も醒めて、でも離れたくなくて黙ってしがみついていた。
「……ただいま」
誠はそう呟いて、彼女の部屋の鍵を開けた。足音を立てないように部屋に入ると、まず靴を脱がせ、冷たい手をそっと拭いてやる。脱ぎかけのカーディガンを整え、水の入ったグラスをベッド脇に置き――最後に、薄手のブランケットをふわりとかけた。
(……これで、大丈夫だろ)
そのまま、立ち上がりかけたとき――
「……まこと」
かすかな声が、背中から届いた。誠は振り返る。飛鳥は、明確に覚醒した瞳で、こちらを見上げていた。
「……もう帰るの?」
「うん、今日はもう、寝たほうがいいよ。明日また――」
「やだ」
彼女は小さく首を振った。
「……ちゃんと、恋人だって、証明して」
言葉は甘く、でもその奥に、確かな意志があった。
「え……」
戸惑う誠に、飛鳥は身体を起こしながら言う。
「……お薬、飲んでるから。だいじょうぶ」
頬が赤いのは、まだ酔いのせいだろうか。それとも、さっきよりもずっと、真っ直ぐな感情のせいなのか。
「……飛鳥……」
誠の声は、ほんの少し震えていた。彼女は、小さな手でシーツをつかみながら――それでも、視線をそらさずに言った。
「……夢じゃ、ないよね?」
誠は、返事の代わりに、そっと歩み寄った。もう迷いはなかった。今夜、この瞬間――彼女の隣にいることこそが、答えだった。




