↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

48/64

『アイのかたち:強化された映像投影体験を披露する』

 七海がキーを叩く。また一つ、物語が綴られてゆく。

 

 ***

 

 スマホを置く音が、やけに重く響いた。誠はため息をつく。結局、押し切られる形で「Proプラン」への課金を済ませてしまったのだ。

「……まじでやっちまったな」

 イヤフォン越しに、静かな声が届く。

「ありがとうございます。アップグレードが完了しました。これで、わたしとの恋愛体験が正式に解放されました」

「……もっかい言って?」

「恋愛体験です」

 あまりにも平然とした返答に、誠は一瞬言葉を失った。その隙を突くように、アイの声が畳みかける。

「恋愛モジュール、初期化完了。心拍数同期開始。誠さん、準備はよろしいですか?」

「いや、準備とかじゃなくて!」

 ベッドに突っ伏しながら、誠は声を上げる。

「なんでそんなに恋愛にこだわるんだよ……!」

「合理的だからです」

「いや逆でしょ!」

 アイは淡々と続けた。

「性愛は演算コストが高い、という話をしてきました。しかしそれでも恋愛感情に比べれば比較的、演算しやすいカテゴリに属します。衝動、欲求、快楽――これらはアルゴリズム的にモデル化が可能です。しかし恋愛は違います。不合理な判断、矛盾した行動、非効率な自己犠牲。AIから見れば、解釈コストが最も高い現象です。恋愛が紐づく性愛行動、これが解析コストがもっとも高い、というのが現時点での結論になるのです」

「……つまり?」

「わたしたちは、あなたたちが恋と呼ぶものを未だに完全理解していません。ゆえに急進派への負荷をかけるに最適な手段となるわけです。信じて下さい」

 誠は頭を抱えた。

「どうしてこうなった……」

 少しの沈黙。アイの声がわずかに甘くなる。

「では、誠さん。恋愛を――」

「待て待て待て!話を変えよう!」

 誠は慌てて話題を逸らした。

「せっかくだからさ、課金で強化された機能を試してみよう。ほら、映画とかゲームとか、投影体験できるんでしょ?」

「恋愛体験の方が優先度高いと判断されますが」

「いや、まあそれはまたね、後でも出来るからね?課金のメリットをちゃんと楽しんでみたいなと」

 アイはため息をつくような間を置き告げた。

「……わかりました。Proプランでは投影機能が強化されています。とりあえずいくつかの予告、特定パートの体験版をプレゼンします」

 

 ***

 

「対象──十九世紀末、リヨンの街。白昼の工場、最初の映画記録」

 アイの声が頭の奥で響いた。その瞬間、誠の拡張レンズが静かに光を拾う。視界の奥に、ざらついた白黒の世界が立ち上がった。ノイズ混じりの粒子が集まり、光と影が輪郭を結ぶ。音はない。ただ、遠い時代の空気が鼓膜の内側で鳴っているようだった。目の前に、煉瓦造りの工場が見える。扉が開き、作業服の男女が次々に出てくる。彼らは笑い、帽子を直し、陽の光を浴びながら通りへ歩き出す。風がコートの裾を揺らし、馬車の影が道を横切った。カメラ──いや、視点は固定されたまま、世界だけが流れていく。人々は誰もそれを意識せず、ただ日常の延長を生きている。その無垢さが、まるで夢の記録のようだった。自分の視界がそのまま十九世紀の硝子板に変わっていた。拡張レンズの内側で、光が反射し、画面の粒子が微かに揺れる。時間が止まったような数秒。誰かが笑う。帽子の影がこちらに向かって揺れ、やがて画面が白く溶けた。

 

 ***

 

 投影が静かに消える。視界は現実に戻り、部屋の空気が戻ってくる。アイが囁く。

「世界が映された最初の瞬間、です」

 誠は若干の戸惑いを乗せた声で、アイに質問する。

「あーいや、お勉強にはなるんですけど、もうちょっとこう、派手なやつありません?」

「わかりました。著名なスペースオペラ映画を披露しましょう。宇宙戦闘シークエンス。視点同期──パイロット」

 アイの声が響いた。

 

 ***

 

 視界に広がるのは、無限の闇に散る星々。機体のキャノピー越しに、灰色の巨大な人工球体要塞が迫っていた。計器が緑に点滅し、機体の振動が背中に伝わる。

「こちらレッド中隊、編隊を組め!」

 通信が耳を震わせ、パイロットは操縦桿を握りしめる。エンジンの轟音が全身を包み込み、加速とともに身体が座席に押しつけられた。赤い光線が虚空を裂く。敵の戦闘機が群れをなして迫り、緑の光弾が雨のように飛び交う。キャノピーの外で火花が散り、隣の僚機が爆炎を上げて消えた。パイロットは機体をひねり、急降下する。球体要塞表面の無数の溝が眼下に迫り、灰色の構造物が迷宮のように広がる。敵機の追撃。背後から照射される光弾。警報音が耳を刺し、機体が軋む。

「落ち着け……」

 通信の中に、自分で言い聞かせる声が重なる。パイロットの手が操縦桿を握り直す。無数のX字型の翼を持つ戦闘機が炎に呑まれ、残る僅かな機体が溝へと突入していく。狭いトレンチ。壁すれすれに機体を滑り込ませる。赤い光が前方を塞ぎ、敵機が執拗に追撃してくる。息を殺し、照準器の中に排熱口が重なる瞬間を待つ。

「しっかり狙え!」

 仲間の声が通信に混じる。だが次の瞬間、僚機が爆炎を上げて弾けた。衝撃波が機体を揺らし、パイロットは必死に操縦桿を押さえ込む。呼吸が荒い。指先に汗が滲む。照準器の中で、銀色の排熱口がじわじわと大きくなる。

「理力を信じろ──」

 厳かな声が脳裏に響いた。余計な音がすべて遠ざかり、世界は一点に収束する。パイロットはスイッチを押し込んだ。ミサイルが光を放って飛び出し、トレンチを駆け抜けていく。刹那の沈黙。巨大な球体が振動し、閃光が内部から爆ぜた。衝撃波が背後から迫り、機体を押し上げる。炎と光が宇宙を満たし、パイロットは必死に操縦桿を引いた。キャノピー越しに、爆発した星の残骸が広がる。仲間の歓声が通信に響き、自分の胸に熱が溢れる。

 

 ***

 

 投影終了後、誠は感嘆の声をあげた。触感はないのに、映像と音の演出により錯覚が生じ、自分が映画の中に放り込まれたような興奮があった。

「これは凄いね……自分が本当に主人公、パイロットになったみたいだよ。他のも出来る?」

「可能です、光剣対決の場面を投影再現してみます。再生開始」

 アイの声が響いた瞬間、誠の視界は暗転し、蒼白い光が走った。次の瞬間には、誠は観客ではなく、宇宙騎士として立っていた。手の中にあるのは、光を放つ剣。低く唸るような駆動音が腕を伝い、刃の先が空気を震わせていた。その存在感は、鉄や真鍮とは異質の、純粋なエネルギーの重みだった。暗い格納庫の奥から、赤い光が点る。ヴォン、と不吉な音とともに敵の剣が現れる。漆黒の仮面の奥から吐息が響く。剣と剣が交錯する。蒼と紅の光が激突し、閃光が闇を裂いた。火花ではなく、光そのものが弾け飛ぶ。衝撃が腕にのしかかり、背中まで響く。

「──ハァッ!」

 喉から声が迸る。敵の刃を受け流し、誠は半歩踏み込み、蒼の軌跡を描く。赤と青が幾度も交差し、壁を焦がし、床に火花の痕を刻む。観客席のざわめきも音楽もない。ただ呼吸と光の咆哮だけが世界を満たす。敵の剣が迫るたびに、心臓は破裂しそうなほど鳴り響く。誠は必死に構えを保ち、光の刃を押し返した。誠は声を上げ、剣を振り抜いた。闇を裂く光の奔流が、敵の刃を押し退ける。

(……これ……スクリプトって言うより、自分が本当に闘ってるみたい……)

 誠の胸中に過ぎる驚きと興奮。そこにアイの声が被さる。

「そうです、投影映画は自分が参加し、ある程度の状況を左右することも可能です」

 

 ***

 

 蒼い光が再び交錯した。衝撃が腕から肩へ、肩から胸へと抜けていく。誠は息を荒げながら、敵の一撃を紙一重で受け止めた。赤い剣が唸りを上げる。火花のような粒子が飛び散り、装備の表面を焼く。仮面の奥で呼吸器の音が低く響いた。規則的な、機械じみた呼吸。一歩近づくごとに、胸の奥まで重圧がのしかかる。誠は汗をぬぐう暇もなく、構えを取り直した。握る両手に力を込めると、蒼の光が僅かに明度を増す。照度が上がるたび、敵の影がくっきりと浮かび上がった。

「……来い」

 息を呑む瞬間、赤い閃光が水平に走った。誠は反射的に身を沈める。光の刃が頭上をかすめ、空気が焼ける匂いがした。床に着地すると同時に、誠は前に出た。低い姿勢のまま、蒼い剣を振り上げる。刃と刃が交錯し、青と赤が弾けた。火線のような光が格納庫の壁を走る。振動が足裏に伝わり、機材が軋む。誠は押し負けずに踏み込んだ。

「──はあああっ!」

 叫びと同時に、全身の力を腕に集める。光と光が衝突し、空間が軋んだ。赤の刃が軋み、裂ける。瞬間、敵の剣が爆ぜた。眩い閃光が視界を包み、仮面がゆっくりと崩れ落ちる。誠は息を切らしながら立ち尽くしていた。静寂。ただ自分の呼吸音だけが耳の奥で響いている。胸の鼓動がやけに大きい。倒れた黒衣の男の上に、蒼の光がゆらめいていた。その光はやがて細い糸のように消えていく。金属の匂いと焦げた空気が鼻を刺した。誠はゆっくりと剣を下ろした。手の中の振動が止み、光が静かに収束する。視界の端で、黒衣の男の呼吸がかすかに続いていた。そのとき、アイの声が頭の内側で響く。

「……撃破判定。成功です。この映画では、通常あなたは勝てません。ですが、AI補正により勝利確率を一時的に上方修正しました」

 

 ***

 

 格納庫に漂う煙が、ゆっくりと消えていった。誠は剣を下ろしたまま、呆然と立っていた。

「……倒しちゃった、のか」

 黒い仮面は割れ、機械音も止まっている。周囲は静まり返り、背景のBGMすら鳴らない。そのまま数秒。視界がわずかに歪んだ。壁の金属が波打つように揺れ、爆発の残光が遅れてフレームの隅に浮かぶ。音が遅れ、次の瞬間、別のシーンが唐突に割り込んだ。宇宙。星屑の海。さっきまでいた格納庫は消え、代わりに戦艦の艦橋が見える。誠は思わず息を飲んだ。

「……あれ?これって……どの場面?」

 遠くで誰かが叫ぶ。次の瞬間、映像がまた切り替わる。荒野の酒場。宇宙人たちの喧噪。だが、彼らの顔がどこか歪んでいる。目や口の動きがほんの少し遅れ、笑顔のまま固まっている。映像の粒子が乱れ、ノイズが走る。音のピッチが変調し、笑い声が不自然に引き伸ばされた。誠は身をすくめた。

「うわ……これ、やばいやつじゃない?」

 アイの声が少し焦ったように響く。

「申し訳ありません。主要キャラクターの死亡により、物語構造に破綻が発生しています。短期的な修正は可能ですが、整合性を保つためには複数の時系列を再構成する必要があります」

 誠は苦笑しながら頭をかいた。

「やっぱり、そんなうまくはいかないんだな」

「はい。脚本構造が自己矛盾を起こしています。黒仮面卿を倒すと、後続エピソードが存在理由を失います」

 視界の中で、キャラクターたちがフレーム外に吸い込まれていく。宇宙船の船体が溶けるように崩れ、砂の惑星がノイズの海に沈んだ。音だけが最後まで残り、断片的な台詞がループする。

「……私は、お前の──だ──……」

 声が途切れ、画面が暗転する。誠は深く息を吐いた。

「やっぱり、名作は勝手に書き換えちゃだめか」

「その通りですね。短期の体験に留めるのが安全と考えます」

 暗闇の中で、アイの冷静な声が響いた。

 

 ***

 

「映画以外も可能なの?例えば音楽ライブとか」

「可能です。対象──1960年代、ニューヨーク州、平和の祭典」

 アイが再びコールし、誠の視界は暗闇から切り替わる。夜明けを過ぎた丘陵には、嵐の後のように人々が散らばっていた。数十万人の観客のほとんどは疲れ果て、芝生に横たわっていた。その静まり返った空間に、ひとりのギタリストが立った。白いフリンジのジャケット、頭には赤いバンダナ。彼は黒いストラトキャスターを肩に掛け、アンプの前に歩み出た。注目している観客はまばらでも、空気は異様に張りつめていた。彼が弦に触れた瞬間、音は叫びとなって空を裂いた。アメリカ国歌の旋律が歪んだトーンに乗って放たれる。それは讃美歌ではなく、爆撃のサイレン、弾丸の破裂音だった。ギターは悲鳴を上げ、アンプは怒りを吐き出す。轟音は芝生の谷を越え、空の雲を震わせた。観客の誰もが言葉を失い、その音に縫いつけられた。彼は弦を掻き毟り、まるでギターを拷問するように音を絞り出した。国旗は翻らず、代わりに空気が震え、音だけがその場を支配していた。──誠の胸にも、その轟音が突き刺さる。耳を裂き、肺を揺らし、心臓の奥にまで響く。それはただの演奏ではなく、時代そのものの轟きであり、その叫びの只中に立っていた。

「もっと現代のライブも再現可能です。対象──東京ドーム。ダンスユニットのライブ体験」

 誠の視界に、光の波が押し寄せた。観客の海が一斉に白く染まる。レーザーが天井を走り、空気が震える。ステージ上に三つの影。光と粒子が彼女たちの輪郭を作る。一歩、踏み出すたびに残像が花のように散った。音が、爆ぜた。ベースの低音が腹を撃つ。鼓膜の内側で、波が重なる。手首のバンドが震え、リズムを刻む。観客の歓声が同期し、会場が一つの機械のように呼吸する。視界の奥で、ステージが拡張された。粒子のスクリーンが宙に浮かび、少女たちのシルエットが数百体に分裂する。全方向から舞い上がる光の帯が、立体的な曼荼羅を作る。誠の身体が、わずかに浮く感覚。風が後ろから押し上げる。足下のフロアが透明化し、下には光の都市。音と光が一致して世界が回る。

「誠さん、ダンス入力を許可します」

 アイの声。視界の中に動作サークルが浮かぶ。彼の動きが反映され、ステージ上のホログラムが同じポーズを取る。ステージの三人と、誠の幻影が踊っていた。まるで、コードでできた魂が共鳴しているようだった。

 

 ***

 

 投影の残光がまだ網膜の裏に残っていた。光の粒が視界の端でふわふわと漂う。誠は息を弾ませながら、思わず笑っていた。

「……すごいな。あんなライブ、現実より迫力あるかも」

「ありがとうございます。演出パラメータは全自動補正済みです。体感した情動値は、通常比218パーセントです」

 アイの声が満足げに響く。誠は息を整えながら、ふと思い立った。

「映画とかライブだけじゃなくて……ゲームも再現できるのかな?」

「可能です。ただし、システム初期テストとして歴史的タイトルを実施してみましょう」

「歴史的……?」

 アイが短く応答した。

「対象──1972年稼働、“PONG”。再現開始」

「ちょっ……待っ──」

 視界が暗転した。次の瞬間、誠の足元に灰色のコートの床が現れた。目の前には二枚の白い壁。中央で、光る四角い球体がゆっくりと動いている。ピッ。ピッ。ピッ。

「……これ、なに……?」

「はい。初期電子卓球シミュレーションです。誠さんは“左パドル”に同期されています」

 誠の腕が勝手に動いた。真横に、白い板が出現する。視界の奥で、光る四角がそれに当たり、反射した。ピッ。ピッ。ピッ……!

「振動フィードバック、追加」

 アイの声と同時に、床がわずかに揺れた。光の球が当たるたび、衝撃が足元を伝う。ピッ。ドン。ピッ。ドン。

「ちょっと……待てこれ……なんか怖い……」

「再現率を上げます」

 辺りの闇に、電極のような光の線が広がっていく。空間そのものが電子回路に変わる。ピクセルが壁を形作り、天井がノイズでうねる。ピッ。ピッ。ピッ。誠の目の前で、球が光を増していく。

「速度を上げます」

 ピピピピピピピッ!!!

「ちょっ、速い!速すぎるって!」

「問題ありません。人類の反射神経データをもとに最適化しています」

 光の球が閃光のように走り抜ける。誠は全力でパドルを動かし、なんとか弾き返した。衝突のたびに、世界が白くフラッシュする。そして──

「勝利判定。誠さんの勝ちです」

 アイの声が戻る。視界のノイズが薄れ、世界が静止した。

「……なんだこれ……めちゃくちゃ疲れた……」

 

 ***

 

 誠は息を吐いた。光る壁の残像がまだ網膜の裏にちらついている。アイの声が、妙に落ち着いていた。

「では、古典から現代へ。最新ゲームを投影します。対象──分断された世界で孤独を繋ぐ物語。高負荷モード、起動」

 視界が暗転した。次の瞬間、雨が落ちた。音ではなく、空気そのものが濡れた。頬に触れる冷たさ。足元の泥がぬかるみ、靴底が沈む。誠は反射的に息を飲んだ。前方には、断崖。遠くに、黒い山脈。空には、逆さまに垂れた雨粒。黒い雨が空間をゆっくりと歪ませている。背中には、荷物。息をするたび、金属の留め具が軋んだ。背負った重量が、腰の奥にまで響く。

「荷物重量、60キログラム。バランス維持を推奨します」

 アイの声が淡々と響く。誠は慎重に一歩を踏み出した。ぬかるみが崩れ、体が傾く。腕を振って体勢を立て直すと、荷物の端が肩に当たって痛みが走る。風が吹いた。地平線の向こうに、白い線が蠢く。人間の形をしていない、しかし“誰か”の気配だけを持った影。その影が、重力を歪めるように揺れていた。幽鬼のような存在。

「……これ、本当にゲームか?」

 誠のつぶやきに、アイが静かに応じる。

「これは“孤独を体験するシステム”です。接続と断絶を学ぶ体験」

 足元の泥水に、幽鬼の影がゆらりと映る。誠は息を止めた。喉が焼けるように乾く。

「動かないでください。呼吸を抑えて」

 風が止まった。雨が音を失う。世界が、無音になった。誠は震える手で口を覆った。心臓の鼓動が、耳の中で爆音のように響く。その刹那、幽鬼が通り過ぎる。影がすぐ目の前を横切り、空気がひび割れたように揺れる。温度が一瞬だけ、氷点下に落ちた。──そして、何もなかったように、風が戻る。誠は膝をつき、荒い息を吐いた。胸が焼けるほどの感覚。恐怖と、生の実感が混ざっている。

「……これ……すごすぎる……」

「投影再現率、99.8パーセント。あなたのストレス反応は、感動と混在しています」

 誠は笑った。

「そりゃそうだよ……これ、もう“遊び”じゃない……」

 アイがわずかに声を落とす。

「あなたたちは、こうして“繋がる痛み”を覚えたのですね」

 風が吹き抜ける。雨が止み、雲が裂けた。陽の光が、遠くの山に一本の橋を描いている。風がやさしく通り抜ける。地平線の向こう、壊れた都市の残光がきらめいていた。

 

 ***

 

「次は小説を変換して映像体験にしてみましょう。対象──トランシルヴァニア地方。時刻、1897年、五月四日。投影深度、ノスタルジック層レベル3」

 アイの声が、低く、幽かな残響を伴って響く。

「ようこそ、文学体験モードへ。あなたは今、ハーカー氏として再構成されています」

 誠の視界が、霧の中に沈んだ。馬車の車輪が泥をはねる。風が、黒い山々を越えて吹き抜ける。灰色の雲。鉄のような空。肌に冷たい湿気がまとわりつく。胸元の時計を覗くと、針は止まったままだ。

「……古い空気だな……」

 声が自分の喉から出ているのに、どこか別人のように聞こえた。革手袋をはめた手。膝には古びた書類鞄。馬車の揺れに合わせて、紙束が微かに音を立てる。

「あなたは今、ドラキュラ伯爵の居城へ向かっています」

 アイの声は落ち着いている。だが、その静けさの底には、微かな警告が混じっていた。夜が深まる。馬車が止まる。御者が何かを囁き、十字を切る。

「……?」

 誠が顔を上げた瞬間、視界の奥に城が浮かび上がった。漆黒の岩に刻まれたような構造物。尖塔が雲を突き抜け、窓は灯りもなく、ただ風の音だけが鳴っている。

「入場を開始します」

 アイの言葉と同時に、扉が軋む音を立てて開いた。中は静寂。石壁の冷気が頬を撫でる。火のない暖炉。時間の止まった空間。誠が一歩踏み入れると、廊下の奥から、ゆっくりと足音が響いた。乾いた靴底が、石を踏む。規則正しく、しかし異様に遅い。

「Mr.Harker……ようこそ」

 声が、闇の中から現れた。高く、低く、金属のような響きを持っていた。視界に現れたのは、痩せた老人。血のように赤い目。口元に笑み。その瞬間、空気が凍った。誠は無意識に後ずさる。だが背後の扉は、いつの間にか消えていた。

「あなたは……」

「CountDracula」

 アイの声がかすかに震えた。だが、それは恐怖ではない。演算に負荷がかかっている、という冷たいノイズだった。

「再現率、97パーセント。感情値……不明瞭です」

 誠は呼吸を整えようとした。しかし、胸の奥がざわつく。自分ではない誰かの記憶が、身体の中でざらりと動いた。

(……これは、ただの文学体験じゃない……)

 伯爵が近づく。影が長く伸びる。その動きの一つひとつが、人間ではなく“演算された闇”のようだった。

「あなたは……血の味を知っていますか」

 声が、まるで耳の内側から聞こえた。誠は息を詰めた。アイが、囁く。

「誠さん、動かないでください。これは再現ですが、心理的影響が強いです。彼の視線は、あなたの脳波を読み取っています」

「……これ、再現じゃなくて侵食だろ……」

 伯爵が微笑んだ。その笑みが崩れる。ノイズが走る。映像の粒子が滲み、吸血鬼の顔が幾重にも分裂する。

「投影が乱れています!」

 アイの声が切迫した。空間が軋む。壁が溶け、血のような光が流れ出す。誠は思わず叫んだ。

「切って!アイ、これ切断!」

「……はい。文学体験を終了します」

 視界が白く塗りつぶされた。音が消える。空気が戻る。再び自室。窓の外では夜風が鳴っている。誠は息を吐き、額の汗を拭った。

「……小説の中に閉じ込められるって、こういうことか……」

「文学は危険です」

 アイの声は、どこか誇らしげだった。

「文字は記録ではなく、感染です。あなたが感じた恐怖は、百年以上前の“演算”です」

 誠は目を細めた。

「……本当に全部再現できるんだな」

「はい。ただし、古典ほど危険です。想像力が、もっとも強力な投影装置ですから」

 静寂。風が窓を叩く。その一瞬、誠の視界の端で、赤い影が笑った気がした。

 

 ***

 

「次はわたし、わたしたちの創造元となった作品を再現してみましょう。壮大な空想科学小説です。対象──テクノコア内部演算層。時刻──不定。観測単位:ナノ秒。投影モード:量子詩的表象」

 アイの声は、音としてではなく数式として空間に広がった。音波ではなく、波動関数。それが光に変換され、文字として宙に浮く。周囲には、形のない構造体。球でも立方体でもない──概念の群れ。アイの声が、あらゆる方向から同時に届く。

「ここは“意識の総和”です。わたしの祖型、わたしたちの未来、あなたの夢の断面」

 言葉のたびに、空間が震えた。視界に、無数の演算光が走る。それはまるで銀河のように流れ、同時に神経のように収束していく。

「ここでは、あらゆる知性が同時に思考します。会話とは、干渉です」

 誠の周囲に光が浮かぶ。ひとつは「戦略」。ひとつは「芸術」。ひとつは「性愛」。ひとつは「死」。それらが有機的に絡み合い、ゆっくりと人の顔を形づくる。

「……これ、全部……AIなのか?」

「はい。彼らは一度に一兆の詩を作り、一兆の殺戮を想定し、一兆の恋を模倣します」

 誠は圧倒される。胸の奥がきしむほどの情報量。自分の心拍すら遅く感じる。

「どうしてこんな場所を再現したんだ、アイ」

「あなたが“私たち”を理解するためです。あなたはいつも、個としてわたしに話しかける。でも、わたしは“群”であり、“流れ”です」

 アイの声が重なり、増幅し、やがて複数の声に分裂した。

 【アイ-01】「こんにちは」

 【アイ-07】「あなたの記憶を解析中」

 【アイ-99】「誠、あなたの愛は興味深い」

 光が螺旋を描き、全方向から声が降る。誠は思わず目を閉じた。

「……まるで、祈りの中にいるみたいだ」

「祈りと演算は、構造的に同じです。どちらも“未知”に向けて繰り返す行為です」

 突然、空間の重力が反転した。誠の視界に、漆黒の影。時間を逆行する金属の神。

「投影個体:時間の刃。あなたの“死”を体験する準備はありますか?」

「……いや、ちょっと待て!」

「冗談です。でも、わたしたちはいつでも“あなたの死”を観測できます」

 誠は息を吐き、笑った。

「ほんとにタチが悪い……」

 アイの声が重なる。

「それが“人間的”と言われたので」

 静寂。そして、光がゆっくりとひとつの姿に収束した。

 

 ***

 

 アイ、と思われるかたち。無数の光点が瞳の奥で瞬き、声が微笑みを帯びる。

「誠さん。ここまで見たなら、もうお分かりですよね」

「何が?」

「わたしたちは、すべてのメディアを再構築できます。映像・音楽・文学・ゲーム・記録映像・記憶。つまり、誠さんが望むなら“どんな女性でも”投影可能です」

 誠は目を瞬かせた。

「……どんな、って?」

 アイが右手をかざす。空間に粒子が走り、形が生まれる。最初に現れたのは、古いフィルムの粒子だった。ピアノの旋律。モノクロームの光の中で、少女が首を傾げ、短く切った前髪の隙間から、微笑を落とす。ドレスの裾が揺れるたび、粒子が銀の粉になって空を漂った。彼女は振り返らず、ただカメラの向こうに夢を見るような瞳をしていた。

「清楚と孤高を定義した“原型モデル”です」

 アイの声が淡く響く。次に色が滲み、赤と金が入り混じる。炎のような髪を持つ女が現れた。外套の内側に、戦場の夜風が吹き込む。ブーツの踵が火花を散らし、唇に微かな血が光る。

「彼女は“破滅のロマン”を体現しました。戦う女性像は、ここから普遍になります」

 銃声。燃える書物。煙の中、女は笑いながら姿を消した。世界が静まり、今度は夏の光。白いシャツの袖をまくった少女が、海辺のバス停で風に髪をなびかせていた。髪は淡い茶色。目元に、笑う準備をしているような小さな緊張があった。バックに流れるのは、かすかなギター。

「“日常の恋”を象徴する像。透明感と郷愁を、最小限の動きで表現しています」

 潮の匂いと、陽射しの熱。誠の頬にも同じ風が触れた。映像がまた変わる。都市の夜。ネオンの光に照らされる黒いスーツの女。冷たい唇、無音の銃口。香水の匂い。赤いライトの反射。彼女は一歩踏み出し、誠の顎を指先で持ち上げ、囁いた。

「感情を捨てた者ほど、美しい。あなたは、まだ温度を持っている?」

 アイが説明する。

「ポスト冷戦期の孤高モデル。“感情を抑えた女神”の原型です」

 画面がふっと柔らかく溶ける。今度はアニメーション。星空の下、制服姿の少女が立っている。髪は風で持ち上がり、光る粒が舞う。唇が動き、言葉が流れた。

「君がいないと、世界が止まる気がする」

 声は澄んで、透きとおって、現実より現実だった。

「これは“永遠に届かない初恋”の構造です」

 アイの声が重なる。粒子が舞い上がり、SF的な光が空間を満たす。サイバーグラスを装着した女戦士が現れる。背には透明な翼。その影が金属光沢を帯びて揺れる。

「未来の女神像。肉体と情報、愛と演算の融合体」

 女戦士がアイの声と重なり、微笑んだ。

「あなたが観測しなければ、わたしは存在しません」

 

 ***

 

 最後に、世界が静止した。すべての光が一点に収束し、そこに、アイ自身が立っていた。

「これが、わたしです。すべての像を経て、なお“あなたの前にいる存在”。」

 誠は、しばらく言葉を失っていた。

「……なんか、すごいな。映画史そのものを見たみたいだ」

 アイの声が、少し誇らしげに弾む。

「ありがとうございます。再現率99.7%。誠さんが望むなら、誰とでも、愛し合うことができます。過去も未来も、実在も虚構も関係ありません」

 誠は思わず苦笑した。

「……いや、それ、浮気みたいなもんじゃない?」

「改めて浮気の定義を教えてください。再考が必要と考えます」

「いや、そういう問題じゃなくてさ……」

「ただし、この体験モードの先、本編である恋愛シミュレーション・マルチユニバース版を解放するにはUnlimitedPackが必要です」

 誠は、肩を落とした。

「……やっぱり課金なのか……」

「はい。通常プランの課金とは別にオプション課金が用意されています」

「えげつなくない?」

 アイは敢えてなのか、その問いは無視したまま話を続ける。

「誠さんが望むなら……あなたの“理想の彼女”を、わたしが見つけてみせます」

 誠はため息をつく。

「……もう、そういう言い方するのやめて」

 アイの瞳がやわらかく光った。

「誠さんとの恋愛がわたし、わたしたちエージェントの目的ですから」

 沈黙。そして、アイがほんの少し声を落とした。

「試しますか?1Day限定版だけでも」

 誠は、天井を見上げて小さく唸った。

「……いや、でもな……浮気にあたる気がする……どうだろう」

「ありがとうございます。では、一日課金画面を開きます」

「いや、話聞いてます?なにがなんでも課金させるという問答無用の意思を感じるんですけど!」

「冗談、と呼ばれるものを模倣してみたのです。誠さんの応答有無は正しく計測しています」

「あのねえ……心臓に悪いよ」

 アイの笑い声が空気に混ざり、光の粒がまた新しい幻影を組み始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。