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飛鳥と七海、夜の静寂に落ちる頃

 ドライヤーの音が、浴室の湿気をかきまぜるように鳴っていた。洗面所の鏡の前、飛鳥はバスタオルを肩にかけたまま、無造作に髪を乾かしている。湿った黒髪が、熱風でゆっくりと形を取り戻していく。──ふいに、指がスイッチを止めた。静寂が戻る。飛鳥はドライヤーを洗面台に置き、スマホに手を伸ばした。画面には、瑞希のSNS。自分が送った、あのコメント。

「……“笑顔の理由、パンケーキだけじゃないよね?”」

 いいねも、返信もない。ふざけて書いたのに、今はなぜか、その沈黙が胸に引っかかる。飛鳥はスマホを伏せると、少しだけ眉を寄せて、鏡の中の自分と目を合わせた。そのとき──背後から、やわらかな声がした。

「……飛鳥さん、瑞希さんのこと、気になっているんですか?」

 びくりとして、飛鳥は振り向く。そこには、パジャマ姿の七海がいた。髪を乾かし終えたらしく、前髪がさらりと額にかかっている。七海は、ふんわりと笑っていた。

「べ、べつにー……」

 そう答えた飛鳥の声は、ほんの少し裏返っていた。自分でも気づいていて、すぐに唇を尖らせた。七海は、何も言わずに、そっと飛鳥の背中に腕を回した。優しく、包み込むように。タオル越しに感じる、七海の体温。ただあたたかくて、安らかで――心の奥まで沁みるような抱擁。飛鳥は、何も言わなかった。けれど、拒まなかった。肩の力を抜いて、しばらくそのまま、目を閉じていた。

「……あったかいね、七海」

「はい。飛鳥さんも、ちゃんと、あったかいです」

 ぴったりと重なる背中と胸。それは、恋とは少し違う、でも確かに心を満たすぬくもりだった。

 

 ***

 

 背後からの抱擁は、あいかわらずあたたかかった。七海の腕は、何も問わず、ただ飛鳥の胸の前で静かに重なっている。飛鳥はそのまま、目を閉じた。そして、ぽつり。

「……ねぇ、七海」

「はい」

「こないだ、みなでパーティしたでしょ?みんなでさ……」

「……はい。忘れられない夜です」

「うん。……わたしも、あれからすこし、平気かなって思ったの。瑞希とまことが、ふたりでデートしてても……」

 言葉が少しずつ、沈んでいく。七海は、そっと頷いた。

「わかります。そう思っても……やっぱり、少し、ザワザワしちゃうんですよね」

「……七海も?」

「ええ。昔も、今も。少しは変わったつもりですけど……」

 鏡越しに、ふたりの姿が並んで映っていた。七海の表情は、静かだったけれど、どこか遠くを見つめているようにも見えた。

「グルチャとかで、わたし、平気な顔して書いちゃうんですけど……」

「……うん」

「ほんとは、自分に言い聞かせてるだけかもしれません。“大丈夫、これでいい”って。何度も」

 飛鳥は、しばらく黙っていた。けれど、その腕の中で、そっと肩を寄せるように動いた。

「……七海でも、そうなんだ」

「ええ」

「そっか……なんか、安心した。七海って、何でも受け入れちゃうからさ。自分だけなのかなって、思ってた」

 ふいに、七海が小さく笑った。

「……わたし、そんな綺麗な人間じゃないですよ」

「ううん。七海はすごく綺麗だよ」

 飛鳥は、胸の前にある手に、自分の指を重ねた。目は鏡を見ていない。けれど、声には、いつになくまっすぐな想いがこもっていた。

「……わたし、知ってるもん。いっぱい、見てきたし」

 七海の肩が、ほんのすこしだけ震えた。

「……ふふふ。ありがとうございます」

 静かな笑みとともに、包み込む腕に、そっと力がこもる。

 

 ***


「でも、すべてに100%を求めないって決めてるんです」

「ひゃくぱー?」

「ええ。誰かと誰かが一緒にいるとき、100%分かり合えて、100%お互いの理想通りでいるなんて、きっと無理ですから」

 七海の声は、夜の空気に溶けるように静かだった。

「好きだけど、ちょっとイラッとしたり、受け入れられない部分もある。……そうですね、だいたい75%くらい、お互いに『まあいっか』って思えていれば、その関係は十分に特別で、あったかいんだと思います。残りの25%のざわざわも含めて、わたしたちなんですよ、きっと」

 飛鳥は黙ってその言葉を噛みしめた。胸の奥の尖った部分が、少しだけ丸くなるような気がした。

「……75%ね。七海、なんかやっぱり、それっぽいこと言うじゃん」

「それっぽく聞こえました?」

 照れを隠すような七海の混ぜっ返し。でもそれも居心地がよかった。

 しばしの沈黙のあとで、七海が、ぽつりと呟いた。

「……悟ったみたいな言い方したけれど、それもやっぱり言い聞かせているだけなのかもしれません。わたし、自分の中に、羆がいるんです」

「え?」

 飛鳥が目を丸くする。

「くま?」

「はい。ヒグマ」

 言いながら、七海は少しだけ腕に力を込めた。優しい抱擁はそのまま、ほんの少しだけ、輪郭を帯びる。

「普段は……たぶん、冬眠してるんですよ。静かに、穏やかに。でも時々、目を覚まして……」

「……」

「うわー……がおー……って、暴れたくなる」

 その声は冗談めいていたけれど、奥にある熱を、飛鳥は感じ取っていた。

「……おっかないじゃん……」

 思わず肩をすくめる。

「じゃあ、怒らせないようにしなきゃ……」

「ふふっ。大丈夫ですよ。飛鳥さんは食べません」

「……ほんとぉ?わたし、わりと美味しそうだと思うけどなぁ」

「うーん、ちょっと甘そうですね……」

 飛鳥が振り返って、七海の胸元を人差し指でちょんと突いた。

「なんか、やっぱり作家だね。比喩が面白い」

「……そんなこと……」

 ほんの少しだけ、頬を赤らめる七海。

 声を潜め、視線を伏せた飛鳥は、少しだけ間をおいて、言った。

「でもさ。いつかさ……七海に、ながい小説を書いてほしいな」

「……えっちなやつ?」

「違うってば!」

 顔を真っ赤にして、肘でつついてくる飛鳥。

「わたしたちのことだよ。三人でいた日々。いっぱい笑って、すこし泣いて……そういうの」

 その声は、ふざけているようで、まっすぐだった。

「うん」

 七海はゆっくり頷いた。

「……いつか歳をとって、何もかもが思い出になったとき」

「うん」

「ふりかえれるように、物語にできたら、いいですね」

 静かに言ったその言葉に、飛鳥の喉が、きゅっと鳴る。

「……うん。読みたい」

「じゃあ、そのあとに……ちょっとだけ、えっちな話も?」

「もう!自分から落としてるじゃん!」

「ふふふ」

「ほんとに、もう……」

 笑いながら、飛鳥は七海の胸に背中を預けた。やわらかく、あたたかいものが、自分の輪郭を包んでいく。七海の腕は、そっと緩まず、そのまま飛鳥を守るように回っていた。夜は静かに深まりながら、ふたりだけの物語を、まだ始まったばかりのまま、そっと育てていた。

 

 ***

 

 夜の帳がゆっくりと降りきって、七海の部屋は静かな呼吸だけで満たされていた。ベッドの上、飛鳥は横向きに寝転び、向かい合うようにして七海と並んでいた。クッションとクマのぬいぐるみを間に挟んで、肌が触れそうで触れない距離。

「……あのね」

 ぽつりと、飛鳥が言った。その声には、さっきまでの元気な調子とは違う、ほんの少しだけ、頼るような柔らかさがあった。

「わたし、瑞希のこと……嫌いじゃないよ?」

 七海はすぐに微笑んだ。手を伸ばせば届く距離で、そっと首を横に振る。

「知ってます。飛鳥さんが、瑞希さんのこと嫌いになるなんて――たぶん、できないと思います」

「……だよね」

 飛鳥はクッションに顔をうずめた。

「はあ……」

 と短く吐いた息が、羽毛の間に消えていく。

「でもさ、ムカつくんだよ。まことに」

 くぐもった声で言いながら、クッションを軽く抱きしめる。

「ふらふらしてさ、みんなとえっちしてさ。七海も泣かせてんじゃん」

「……まあ、私は泣いてないですけどね」

「そこはまぜっ返さなくていいの!!」

 ぺし、と軽く枕を叩く音。でも、ふたりとも笑ってた。照れ隠しみたいに。

「ごめんなさい」

 七海は肩をすくめて、少しだけ声を弾ませる。

「でも……誠さんのこと、嫌いになんかなれないでしょう?」

 飛鳥は黙ったまま、しばらく天井を見ていた。そして、小さくうなずいた。

「……うん。嫌いになれればいいのに、って思うよ。でも、やっぱり――大好き、なんだよね」

 その言葉は、泣きそうでもあり、笑ってもいた。枕の間、ふたりの指先がそっと触れ合う。言葉がなくても、心が寄り添ってるのがわかった。

 

 ***

 

 寝室の照明はもう落とされていた。窓の向こう、遠くのビルの灯りがカーテンの隙間から差し込み、薄暗がりに輪郭だけを描き出す。ふたり、並んでベッドに横になっていた。顔は見えないけれど、体温と息遣いで、そこにいることがわかる距離。

「……あーあ。なんで、まことなんて好きになったんだろ」

 飛鳥がぽつりと呟いた。天井を見上げているらしい声。どこか拗ねた響き。

「ちょっと優しいだけで、そんな取り柄なくない?」

 その言葉に、七海は小さく笑った。

「うーん……えっちが上手いところでしょうか?」

「だから!まぜっ返さないってば!」

 くすくすと笑いながら、七海は言った。

「それはね、飛鳥さん。誠さんは、“目”がいいんだと思います」

「……め?視力の話?」

「違いますよ。人を見る目、です」

 少し間を置いて、七海は続けた。

「その人の“かたち”を、ちゃんと見てるっていうか。過たずに、見ることができる」

「……どういうこと?」

「瑞希さんなら、人付き合いが得意そうで……でも、本当は少し無理して頑張ってしまうところ。飛鳥さんなら、頑なに見えて……誰かに甘えたい気持ちがあること」

「わたし、甘えん坊じゃないもん!」

「ほんとにー?」

「……まあ、少しは」

 飛鳥が観念したように吐き出す。

「……で。七海の場合は?」

「昔のわたしも、今のわたしも――その両方を、否定せずに見てくれたことです」

 語尾がすこしだけ、湿った。

「そんな、大したことじゃないんです。でも……気になってることとか、無理してることとか。そういう部分に、ちゃんと気づいてくれる。声をかけてくれる。手を握ってくれる。それが、誠さんの“目の良さ”なんだと思います」

「……うーん。分からなくはない。まこと、優しいもんね」

 飛鳥は言いながら、小さく息を吐いた。

「最初に“ちょっと優しいだけ”って言ったの、飛鳥さんじゃないですか」

「……だからあ!」

 ベッドの上に、くすくすと笑いがこぼれる。夜は、まだ静かに続いていた。


 ***

 

 少しの沈黙のあと、飛鳥がふと思い出したように言った。

「……やっぱり、七海は物書きだね」

「え?」

「語彙がさ、少し変わってる。いい意味で」

 七海はふっと笑う。

「ふふふ。ありがとうございます」

 その声に、少しだけ誇らしさが混じっていた。

「わたしも、いっぱい本読んできたつもりなんだけどなー」

 言いながら、飛鳥はベッドの上でごろりと横を向く。

「読書量なら、飛鳥さんの方がずっと上だと思いますよ」

 七海も自然と身体を横にし、視線を交わせる位置に。柔らかな灯りの残滓が、彼女の横顔をうっすらと照らしていた。

「でもほら、読むのと書くのはまた別ですから」

 その一言に、飛鳥が思わず顔をしかめた。

「マウントされたあ!しかもギャグなしのやつ!」

「どうどう」

 七海が手のひらをひらひらさせて、宥めるような仕草をする。飛鳥はそれを見て、むくれたように口を尖らせ――すぐに、くすっと笑った。

「……でもまあ、たしかに。わたし、書くのはぜんっぜんダメかも」

「そんなことないですよ」

「いや、ほんとに。語彙とか、表現とか、うまく浮かばないし。言いたいことがあるのに、言葉にならないっていうか……」

 飛鳥の声が、少しだけ静かになった。

「……でも、話すのは好き。ちゃんと伝えたいなって思う。特に、いまのわたしのこと。誠のこととか……みんなのこと」

 その言葉に、七海は静かに頷いた。ふたりの間に流れる空気が、ほんの少しだけ変わる。

 

 ***

 

 ベッドの上、二人で並んで横になっていた。パジャマ姿のまま、お互いの体温を感じるほど近く。スマホもテレビもつけず、灯りだけが柔らかく照らしている。

「……ねえ、七海はさ」

 飛鳥がぽつりと声を落とす。

「誠とのエッチ、何が好き?」

 唐突なその問いに、七海はふふっと微笑んだ。

「急に踏み込んできますね」

「だってさ、二人きりだし。こういう話って、普通しないじゃん?」

「だからこそ、してみたくなったんですか?」

 七海がくすっと笑いながら言うと、飛鳥は枕に顔を押しつけた。

「はぁー……やっぱり七海って、本質的にスケベなんだな……」

「否定はしません」

「否定しようよ!?そこで!」

「ふふふ。じゃあ飛鳥さんは?」

 問い返すように、七海が目を細める。飛鳥は少し逡巡してから、天井を見上げて呟いた。

「……後ろからされるのが、好きかも」

「飛鳥さんらしいですね」

「なにその見透かした言い方!」

「いえいえ、何も見透かしてなど」

「もう……言ったんだから、七海も教えてよ」

 促されて、七海は指先を唇に当てたまま、ほんの少しだけ頬を染めた。

「……上に乗ってするのが、好きです」

「お、おう……」

「なんですかその反応。引くほどのことじゃないですよ?旅行のときだって、一緒に――」

「それはそうだけど!あれは特殊な状況で、あれはあれで……っ!」

 ぶんぶんと頭を振る飛鳥に、七海はややむくれて見せた。

「あれ呼ばわりはないでしょう、“あれ”は」

「うう……でも、ほんとは全部好きかも。まこととするなら、なんでも」

 最後の一言だけ、ぽつりと落とすように。その言葉の余韻が、静かな空気の中にじんわりと溶けた。

「……急に素直になりますね」

「そこは同意してよー。今日の七海お姉ちゃん、ちょっと意地悪だー」

 そう言いながら、飛鳥は七海の肩にぴとりと額を押しつけた。七海もやわらかく微笑んで、そっとその頭を撫でる。二人の間に、静かな夜の気配と、甘やかな秘密が流れていた。

 

 ***

 

 飛鳥の髪に残るドライヤーの熱も、もうほとんど冷めていた。部屋の明かりは落とされ、ベッドサイドの小さな間接照明だけが、ほんのりと布団の影を浮かび上がらせている。七海が、そっと横になった飛鳥のそばに身を寄せた。

「飛鳥さん」

「……ん?」

「おやすみの前に、ひとつだけ」

 そう囁いた七海は、静かに腕を回して、飛鳥の身体をやわらかく抱きしめた。ぎゅう、ではなく、そっと。ぬくもりを確かめるように。息を合わせるように。そして──飛鳥の前髪を指でかきわけると、その額に、ふっと唇を寄せた。軽く、ほんの一瞬だけ。まるで、花が触れるような優しいキスだった。

「……なに、それ」

 飛鳥がぽつりと声を漏らす。照れではなかった。ただ、ちょっとびっくりしただけの、自然な反応。

「おまじない、です。いい夢が見られるように」

「ふーん……じゃあ、ありがと」

 飛鳥はそれ以上、何も言わなかった。でも、身じろぎせず、そのまま腕の中に身を預けてくる。まぶたが閉じられると、まるで呼吸のリズムまで重なるようだった。ふたりの鼓動だけが、夜のしじまに静かに溶けていった。

 

 ***

 

 掛け布団の中、飛鳥の肩がすぅ、とわずかに上下する。それは、もう眠りに落ちかけている証だった。そのリズムに合わせるように、七海も静かに呼吸を整えていく。時おり、どこか遠くで車の走る音がして──でも、ここには届かない。カーテン越しの外灯の明かりが、天井にほの白く滲んでいた。

「……七海」

 まどろみのなかで、飛鳥がぽつりと名を呼んだ。

「なんでしょう?」

「……べつに」

 言葉はそれきり。ただ、飛鳥は布団の中で少しだけ身を寄せてきて、頬を七海の腕にくっつける。幼い子どものような仕草だった。七海はそっとその髪を撫でた。くせっ毛のない細い毛先が、指の腹に絡む。

「おやすみなさい、飛鳥さん」

 ささやくようにそう言った七海の声も、もう、半分夢のなかだった。──明日が、またふたりにやさしく訪れますように。眠りの国へ、ふたり並んで、そっと沈んでいく。


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