恵比寿デート/カットバック
あの季節のことを、今でもふと思い出す。忘れられない場面は、ちゃんと記憶のなかで、ずっと色あせずに、呼吸している。まだ胸の奥で、やわらかく、灯ってる。あのときの私たちは、たしかに、そこにいた。何気ない仕草も、まなざしも、ずっと忘れずに、残ってるから。
ひらひらと風に舞うスカート。ガラスの反射に映る笑い声。街のざわめきのなか、手を繋いで歩いた昼下がり。その指のあたたかさが、胸の奥にまだ残っている気がする。すれ違ったことも、あった。言葉がうまく届かなくて、心がちょっとだけ迷子になった時間。でも、それはすぐに解けて、やっぱり笑い合って、前よりも少しだけ深く、心が繋がった気がした。
みんなで食べた、甘すぎるパンケーキ。笑い声とシロップがとろけるように混ざって、まるであの日の幸福そのものみたいだった。湯けむりのなかで話した夜もあった。やわらかくて、すこしだけ泣きたくなるようなことを話した。あたたかい水と、触れあった肩先が、わたしたちの絆を、そっと確かめてくれた気がした。
制服姿で働くその子の背中を、ふと見かけた夕暮れ。帰り道の静かな通りで、ゆっくりと口づけを交わして、言葉じゃない気持ちを、唇で伝え合った。その夜は──灯りの落ちた部屋で、ふたり、何度も深く深く、心を重ねた。朝、カーテンの隙間から光が差し込んでいて、目を覚まして見つけたのは、静かな書き置きだけ。でも、それだけで十分だった。優しい匂いが、まだそこに残っていたから。
夜の水に浮かびながら、あの人の肩にもたれて過ごした時間も忘れられない。濡れた肌と光の粒子が溶けあって、そのあと──ふたりきりの湯に沈みながら、愛をたしかめあった。鼓動の音だけが響いて、世界がとても遠くに感じられた。海辺の煌めきを眺めながら、女の子同士で並んで、ひとこと、ふたことだけで心が通じる──そんな夜もあった。にぎやかな夜、灯りに彩られたおまつりも。浴衣の袖を引き合って、花火に目を細めて、あの時は、世界のすべてがまるごと味方してくれてる気がした。
観覧車のてっぺんで交わした約束。どちらからともなく、視線が重なって、そのまま何も言わずに、身体が近づいて……夜の部屋で、何度も、深く、愛された。古い街の路地裏を、ふたりで歩いた日もあった。ふざけ合いながらも、どこか真剣に、心が重なる“その瞬間”を探していた。あの人が風邪を引いた日、部屋の灯りがすこしだけ薄くて、水を渡す手のひらの温度が、まるでふたりの暮らしのようで、そのまま、何もかもを共有するように──ひとつになった。
会えない時間が一年も続いたこともあった。なにもできない日々に、記憶だけが支えだった。でも──そのあとの再会。あの笑顔、あの涙、あの「おかえり」の響き。あの夜は……本当に、全部だった。笑って、泣いて、触れあって、名を呼びあって、ふたりじゃない、“みんなで”愛し合った。あれは、ひとつの季節の終わりであり、始まりだったと思う。
そして、別れの季節がやってきて──あの人が最後に誰の手をとるのか、わたしたちは、心の奥で、きっとみんなわかっていた。選ばれた子は、泣いていた。選ばれなかったわたしたちも──それでも、最後まで笑おうとした。だって、ぜんぶが、愛だったから。手を振った。ぎゅっと、笑って。永遠じゃないって、知ってた。でも、あの季節だけは、たしかに、ずっとここにある。声も、ぬくもりも、やさしい夜も。いまもこうして──胸の奥で、ちゃんと息をしてる。
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【瑞希と誠の待ち合わせ、瑞希の視点から】
恵比寿ガーデンプレイスの時計広場は、土曜の昼下がりの光に満ちていた。アーチ状のガラス屋根から差し込む陽射しが、石畳の上に淡い影を描いている。その中で、瑞希は小さく深呼吸した。何度目のデートだっただろう。もう、指折り数えられないくらい、彼とはたくさんの時間を過ごしてきた。だけど――
(……やっぱり、今日も緊張してる……)
無意識に、スマホの画面を何度も点けては消し、時間を確認してしまう。そのたびに、指先が汗ばんでいることに気づいて、そっとブラウスの裾で拭った。風に揺れた前髪を整えるふりをしながら、ガラスのショーウィンドウに映った自分をちらと見て、口角を上げてみる。ぎこちない。そう思って、もう一度整えようとしたその瞬間――
「お待たせ」
背後から響いた声に、身体が跳ねた。振り返ると、そこにいた。少し伸びた前髪の奥から、柔らかな眼差しがこちらを見ている。
「まーくん……!」
思わず声がこぼれ、瑞希の頬が一気に熱を帯びた。嬉しさと、安堵と、そして――ちょっとだけ恥ずかしさ。彼の姿を見るたびに、まるで初恋みたいに心臓が跳ねるのは、どうしてなんだろう。時計塔の針が午後一時を指す。観覧車のように、今日という一日が、ゆっくりと回り始めていた。
***
恵比寿ガーデンプレイスを抜けた坂の途中に、ふたりは並んで歩いていた。日曜の午後。陽が高く、木洩れ日の中をくぐるたびに、瑞希の髪が柔らかく光る。
「ね、こっちで合ってる?まーくん」
「うん、すぐそこ。角のとこ、あの木の看板見える?」
「あっ、ホントだ!わぁ、かわいいお店……」
白い木の扉と、軒先のグリーン。カフェは、街の喧騒から少し離れた場所にある、静かであたたかい雰囲気のカフェだった。
「パンケーキ、楽しみだね」
「もう、昨日からずっと食べたかったの。インスタで見たやつ、めちゃくちゃ可愛くって……」
テラス席に通され、白いクロスのテーブルに腰を下ろす。季節限定の“苺とラズベリーのパンケーキ”を注文すると、目の前にはふわふわの厚焼きパンケーキが、たっぷりの果実とクリームに彩られて運ばれてきた。
「きゃーっ、見て!やばい、かわいすぎるっ……!ちょっと待って、まだ食べないで。撮るから」
瑞希はスマホを構え、角度を変えながら何枚もシャッターを切る。
「ねぇ、まーくん、ちょっとお皿押さえてて」
「はいはい。……撮れた?」
「うん、ばっちり!……じゃあ、タグつけて……ごほうびスイーツ……ふふっ」
瑞希がにこっと笑って、フォークを手に取る。
「半分こ、しよ?」
「うん、瑞希からどうぞ」
「……ありがと。じゃあ……あーんっ」
一口運ぶたびに、甘い香りとバターの風味が広がって、ふたりの距離がさらに近くなる。笑い合いながらスイーツを分け合う、そのひとときは、まるで永遠の午後のように、やさしく満ちていた。
***
【瑞希のSNS投稿】
休日カフェ巡り念願のお店に行ってきました〜
ふわっふわのパンケーキ、いちごたっぷりで大満足!
この日はお天気もよくて、窓際の席でのんびり店内の雰囲気も落ち着いてて、とっても素敵な時間でした
カフェって、気持ちがリセットされる場所だなぁって思う
また行きたいお店が、ひとつ増えました
#恵比寿カフェ #パンケーキ部 #休日の楽しみ方 #ごほうびスイーツ#笑顔の理由
***
【七海と飛鳥、七海のマンションにて】
昼下がりの柔らかな陽が、カーテン越しにリビングへ差し込んでいた。飛鳥はソファに寝転がり、スマホ片手に足をぷらぷら。黒の短パンから伸びた細い脚が、リズムもなく宙を泳いでいる。
「……あ」
ぽつりと声が漏れたのは、瑞希の表垢を開いた瞬間だった。
> 念願のお店に行ってきました〜
> ふわっふわのパンケーキ、いちごたっぷりで大満足!
投稿写真には、瑞希らしい洗練された構図と、見覚えのある店内の背景。そして――
「いやこれ、絶対デートでしょ!」
飛鳥が急に起き上がり、ソファの背もたれに肘をかけて身を乗り出した。
「パンケーキとか、撮り方とか、テンションとか!」
その声はキッチンまで届いたらしく、七海がくすっと笑った。
「飛鳥さん……あんまりそういうの、コメントしない方がいいと思いますよ」
「えー?でもこれ、見る人が見たらバレバレでしょ?むしろ隠してる方があざとくない?」
「ふふ、でも……“あざとい”って言葉を飛鳥さんが使うの、ちょっと面白いです」
「なんでよ!」
文句を言いながらも、飛鳥の指は止まらない。コメント欄を開き、打ち込みながら口を尖らせる。
「……“笑顔の理由、パンケーキだけじゃないよね?”」
「やめてください、それ完全に匂わせを指摘するやつです……!」
七海はお皿にサンドイッチを盛り付けながら、笑いを堪えて首をすくめる。そんなやりとりを横目に、飛鳥は得意げにスマホを掲げた。
「ふふん、送ったった」
満足げにスマホを放り投げた飛鳥の声が、キッチンにまで届いていた。コンロの前では、七海が手際よくパスタを仕上げていたところだった。
「……飛鳥さん、ほんとに送っちゃったんですか?」
「だってー。匂わせだもん、どう見ても。あれで“パンケーキが主役です”って風に書かれても、ね?」
そう言いながら、またスマホを取り上げ、コメントが反映されたのを確認してニンマリ。
「……まぁ、怒られたら消すけど?証拠はスクショ撮ったし」
「それ、余計にタチが悪い気が……」
苦笑しながら、七海はお皿にトマトとバジルの冷製パスタを盛りつけていく。飛鳥の口は達者だけれど、その顔はちょっとだけ寂しそうだった。ふいに、ぽつりと。
「……ねぇ、七海。今度、お店いっしょに行こ。パンケーキ、食べたい」
「いいですよ。ふたりで行きましょう」
そう言いながら、微笑む七海。だけど、飛鳥はすぐに察した。
「……あー。まことと行ったこと、あるんでしょ?」
「……ノーコメントです」
「うわぁー……!そっちも黒だぁ……!」
飛鳥の声が、さらに響いた。
***
【瑞希と誠のデート、カフェにて】
ふわふわの苺パンケーキをひと口、口に運ぶたびに、頬がゆるむ。クリームの甘さと、苺の酸味と、ふんわり焼かれた生地の香ばしさが、口の中でゆっくり溶けていく。
「……しあわせ……」
瑞希は目を閉じて、陶酔するように呟いた。恵比寿のカフェ、テラス席。午後のやわらかな光に包まれながら、誠と並んで座っている。ふたりでひとつのパンケーキをシェアしながら、笑いあって、寄り添って――
「おいしい?」
と誠。
「んー……好き……」
パンケーキのことか、誠のことか、曖昧なまま笑って見せる。そんな幸せな時間の中、瑞希のスマホがポロン、と控えめな音を立てた。
「……あっ」
画面を覗いた瑞希の顔が、途端にふくれっ面になる。
「飛鳥からコメント……って、なにこれ!?ちょっとぉ!」
小声になりつつも、ぷりぷりと怒る瑞希。誠が身を乗り出してスマホを覗き込むと、そこには──
「その笑顔の理由、パンケーキだけじゃないよね?」
という、挑発的な一言が表示されていた。
「もう~!これ絶対わかっててやってるーっ!」
瑞希はスプーンを握ったまま、ほっぺをぷくっと膨らませる。頬が赤くなっているのは怒りのせいか、それとも――
「どうしよ。コメント返してやる!」
そう言って、打ち込もうとしたのは、──
「あのね?パンケーキと彼氏、どっちも甘いの!」
「ちょ、待って。それ投稿したら即バレだよ。ていうか燃える」
誠が笑いながら、瑞希のスマホをそっと押しとどめる。
「えーでもー、やり返したい……!絶対ニヤニヤして送ってきたんだもん……!」
「落ち着いて、それよりツーショット撮らない?」
「……あ、それいい!」
途端に表情を切り替えて、瑞希は嬉しそうにスマホを自撮りモードにして構え直す。
「ちょっと寄って?」
「もっと?こう?……えへへっ」
パンケーキと恋人と、ちょっとしたいたずら。すべてが愛おしい午後だった。
***
カメラロールに収まった、瑞希の笑顔。頬にパンケーキのクリームがついたまま、誠のほうを向いて笑っている。その画像を見ながら、ふたりはテラスの席でスマホを囲んでいた。
「……飛鳥と、仲いいよね」
ふと、誠が言った。瑞希は、一瞬だけ言葉に詰まって――すぐに、えへへと笑った。
「仲良くないって言おうとしたでしょ?」
「うん。……でも、仲良しだよ」
素直に白状するような口ぶりが、なんだか瑞希らしくて、可愛かった。カフェの奥から流れる音楽。風に揺れるテラスの木漏れ日。ふたりの間には、自然な静けさが流れていた。
「飛鳥と七海って、瑞希にとってどんな存在?」
そう聞くと、瑞希は少しだけ考えて――
「えーっとね。飛鳥ちゃんは……弟、かな」
「妹じゃなくて?」
「うん。手のかかる弟って感じ。ふふっ、ツンデレでしょ、あの子」
言葉の端に、どこか嬉しそうな響きが混じる。
「じゃあ、七海は?」
誠が続けて尋ねると、瑞希は一瞬だけ、視線を遠くにやった。その瞳は、少しだけ真剣で――でも、やっぱり優しかった。
「……七海ちゃんはね、羅針盤」
「羅針盤?」
「うん。七海ちゃんがいれば、きっと迷わずに進めるの。方向を教えてくれるっていうか、そういう安心感があるの」
誠は、そっと頷いた。
「それ、わかる気がする」
「でしょ?あとね……」
「あと?」
少しだけ言いよどんでから、瑞希はにっこり笑って――
「……大好きなライバル、だよ」
言ったあとの照れ笑い。それは冗談めいていたけど、たしかな本音でもあるのだと、誠は感じた。その笑顔を見ながら、思った。この人は――ほんとうに、強くて優しい。
「……みんな、いい子だよね」
そう呟いた誠に、瑞希はふふっと笑って返した。
「うん。だからまーくんも、ちゃんとしないとね?」
「お、おう……」
「ふふふ。がんばってね、王子さま」
頬杖をついたまま、少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべて。瑞希は、またパンケーキをひと口すくった。
***
カフェのテラス席に、風が抜ける。パンケーキの甘い香りが、午後の陽射しと一緒に、テーブルを包んでいた。
「……ねえ、まーくん。七海ちゃん、最近小説書いてるんだよ。知ってた?」
フォークをくるくる回しながら、瑞希がふいに口を開いた。誠はちょっと驚いた顔で、
「高校の頃のやつは知ってる。最近のは……読ませてくれないんだよね」
「だってさー、最近のは、えっちだから……」
「そうなの!?」
ちょっと声が上ずる誠に、瑞希はくすっと笑った。
「見せたら……まーくん、変な想像しちゃいそうじゃん?」
「いやいや、そんな……いや、ちょっとだけ……いや、違う!」
慌てて否定する誠に、瑞希は大笑いしながら、グラスのストローをくわえた。だけど――そのあと、瑞希はすこしだけ、視線を落とした。
「……ねえ、まーくん。時々思うことがあるの」
その声は、さっきよりずっと柔らかくて。
「もしかして、この楽しい毎日って……誰かの夢なんじゃないかって思うの。あるいは、誰かが書いてくれた物語なんじゃないかって」
カフェの音が、ふっと遠くなる。誠は、聞き返すように小さく言った。
「……物語?」
「うん。本当はもう終わってしまってるの。未来から、楽しかったあの頃を懐かしんで綴った物語……その登場人物が、わたしたち」
瑞希は、少しだけ目を伏せたまま、テーブルに視線を落とした。風が吹いて、メニューの端がぱらっとめくれる。その一瞬だけ、空気が変わった気がした。だけど――
「……なーんてね!」
次の瞬間、瑞希はぱっと笑顔を取り戻した。
「毎日があんまり楽しいからさ、ついそんなこと思っちゃうの。夢なのかもって。……でも、夢なら醒めないで欲しいな。物語なら、終わらないで欲しい」
誠は、言葉の代わりに、そっと笑った。目の前にあるパンケーキ。手の届く距離にいる、瑞希。そのすべてが、
「夢じゃないよ」
と告げている気がして。
「……まーくん?聞いてた?」
「うん、全部」
「ふふっ、よし。じゃあまたパンケーキ食べよ?」
「もう1枚、追加で頼む?」
「やったあ!」
手を合わせて喜ぶ瑞希を見て、誠はまたひとつ、確信した。この瞬間は――物語の中じゃない。たしかに、ここにあるんだ。
***
【七海と飛鳥、七海のマンションにて】
午後二時過ぎ。日が傾きはじめたリビングに、ふたり分の遅めの昼食の香りが漂っていた。窓辺に置かれた丸いテーブルには、サンドイッチとポタージュ。七海が用意したそれを、飛鳥は胡座をかいた姿勢で黙々と食べている。
「ねえ、飛鳥さんにとって……瑞希さんって、どんな存在ですか?」
ふいに、七海が尋ねた。食べかけのサンドイッチを一口噛み、飛鳥は少し考えるそぶりを見せる。
「瑞希?そうだなー……実家の犬かなー」
「……わんちゃん、ですか?」
七海がくすりと笑うと、飛鳥は
「そうそう」
と頷きながら、ポタージュをスプーンですくった。
「キャンキャンうるさいし、ずっと構って構ってうるさいの。でも……いないと、ちょっと寂しい」
「ふふふ。寂しい気持ちは、あるんですね」
「まぁね。悪いやつじゃないし。……ちょっとだけ、かわいいとこもあるし」
ふてくされたように言いながら、目元だけが緩んでいた。
「瑞希さんは、飛鳥さんのこと……妹みたいに思ってるかもしれませんよ」
「うげー、それやだ」
飛鳥はスプーンを止めて、眉をしかめた。
「妹って、なんか扱い雑そう」
「ふふふ。たしかに想像できますね」
七海が柔らかく笑う。その笑みはどこか、慈愛を含んだものだった。
「じゃあ……わたしのことは、どう思ってますか?」
「んーとねえ……お姉ちゃん!あと、お母さん!」
飛鳥は間髪入れずに答えた。
「ご飯作ってくれるし、なんでも許してくれるし。あと、お風呂も入れてくれる」
「……完全に生活面の評価じゃないですか」
「いやでも、そういう人がいちばん偉大なの。ほっとするし」
ふわりとソファに寝転がって、飛鳥は両腕を伸ばした。それを見て、七海は穏やかな声で呟く。
「……つい、甘やかしたくなってしまうんですよねえ。飛鳥さんって」
「ふふーん」
ちょっと得意げに笑う飛鳥。テーブルに残るポタージュの湯気が、午後の光に溶けていく。リビングには、笑いと日差しと、優しい余白が流れていた。
***
窓の外では蝉の声が遠く響いている。サンドイッチの残りをつまみながら、七海はふっと、つぶやいた。
「……ずっと、こんな風でいられたらいいですね」
「んー?うん、そうだねー」
飛鳥はあっさりと返事をする。そこに深い意味はなさそうだった。でも――その軽さが、むしろ心地よかった。
(わたし、今ちょっとだけ、翳ってたのかも)
七海は気づかないふりをしながら、もう一度飛鳥を見つめた。
「飛鳥さん、口元が……」
「えーどこー?わかんないー、拭いてー」
「はいはい……じっとしててくださいね」
七海はペーパーナプキンを取り、飛鳥の口元をそっと拭った。その仕草は、まるで年の離れた妹を世話するお姉さんのようで――だけど、そこには確かな愛着と、やわらかい幸福が流れていた。
***
【瑞希と誠のデート、つづき】
恵比寿ガーデンプレイスのシネマは、どこかヨーロッパの美術館を思わせるような空間だった。少し硬派な映画だった。異国の小さな村を舞台に、少女の目を通して世界の終わりと再生を描いた作品。照明が落ちると、瑞希も誠も言葉を交わすことなく、椅子に深く腰掛けた。暗闇のなか、音と光だけが降り注ぐ。最初は少し戸惑っていた。どこか抽象的で、台詞も少なく、カメラもゆっくりとしか動かない。だけど、少女の澄んだ瞳がスクリーンいっぱいに映るころには、ふたりともすっかり物語に引き込まれていた。ラストシーン。誰もいない廃墟のなかで、少女が空に手を伸ばす。エンドロールが流れると、瑞希が小さく息をついた。
「……すごかったね」
「うん……言葉、出ないね」
「最後のあれ、どう解釈した?わたしは――」
出口へ向かうエスカレーターでも、ロビーのベンチでも、話は止まらなかった。
「途中、すごく寂しくて不安だったけど……最後、なんか、救われた感じしたんだよね」
「うん。たぶん、あの子の中の怪物が消えたんじゃないかな」
「……それ、いい解釈かも」
どこか似た感性を見つけたようで、瑞希の頬がふわりとほころんだ。映画館を出たあと、ふたりは敷地内の雑貨店へふらりと立ち寄った。
「これ、なんだろ。猫の形の……石鹸?」
「いや、たぶん文鎮じゃない?重いし」
「えー、文鎮って今どき使う?」
「……じゃあ置き物?」
結論は出なかったが、楽しそうだった。
「あ、このクッションかわいい。触ってみて?」
「うわ、もちもち。」
「ねー、ソファもあったらもっとヤバかったねこれ」
他愛のない会話。だけど、言葉よりも、その隣に立っている時間が愛おしかった。ガーデンプレイス内のビール記念館では、真面目な展示を見学したあと、テイスティングカウンターへ。
「三種類、選べますよー」
「じゃあ、わたしこの“黒”と、“琥珀”と……まーくんは?」
「俺は……“白”と、“春限定”と……あとこれ。なんかラベルが可愛い」
「えー、それで選ぶの?」
「うん」
「……わたしもちょっとだけ飲ませて?」
グラスを交換しながら、少しずつテイスティングを楽しむ。頬を赤くして笑う瑞希の横顔が、ガラス越しの光に照らされていた。そして夜。ライブとディナーの予約時間に合わせ、ふたりは近くのお店へ。木と石材の質感が調和した空間。中央のステージにはジャズカルテット。ボーカルは若手女性シンガー、深く甘い声で、夏の夜を濡らすように歌う。ふたりはテーブル席に案内され、静かに乾杯した。
「すごいね……雰囲気も、音も全部」
「うん……この曲、なんか映画に合いそう」
余韻に浸るまま、コースのディナーが運ばれてくる。オードブル、魚料理、肉料理、デザート。どれも一皿ずつ、驚きと微笑みをくれる。
「こんなにゆっくり食べるの、久しぶりかも」
「だね。さっきの映画、まだ頭の中に残ってる気がする」
瑞希はふと窓の外を見た。ライトアップされたガーデンプレイスの夜景が、まるで夢の世界のように揺れていた。
「ねえ、まーくん。今日って、夢だったりしない?」
「ん?」
「……ううん、なんでもない」
そう言って、微笑んだ。指先がそっと重なった。温かかった。この一日が、物語のように――終わらなければいいのに、とふたりは同時に思っていた。
***
【七海と飛鳥、七海のマンションにて】
午後の光が、柔らかく差し込んでいた。七海の部屋のリビングには、心地よい静けさが流れている。飛鳥はソファの端で丸くなりながら、本を読んでいた。少し難しめの文芸作品。ときどき眉をひそめ、また黙ってページをめくる。隣では七海が、膝にノートを乗せて何かをメモしていた。大学のレポートか、プレゼン資料の下書きか。ペンの音が、部屋の静けさに溶け込んでいた。しばらくして、飛鳥がぽつりと呟いた。
「……瑞希と誠、いま何してるかな」
七海が顔を上げる。
「まだデート中じゃないですか?映画に行くって言ってましたし」
「ふーん……」
視線を本に戻しながらも、ページが進まない様子に、七海は小さく笑う。
「気になるんですか?」
「べ、べつにー」
目を逸らす飛鳥。その耳が、ほんのり赤い。七海は少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「でも、今日はわたしたちもふたりきりなんですよー?」
そう言うと、ふいにノートを置き、体を横に倒す。飛鳥の肩にもたれかかり、頬をすり寄せてきた。
「ちょ、や、なに、やめろー!くすぐったいって!」
「ふふっ。飛鳥さん、あったかい……いいにおい」
「う、うそだー、やめろー、やめろー!」
ジタバタしながらも、飛鳥は笑っていた。顔をそむけながら、押しのける素振りをするけれど、本気ではない。七海はそのまま、指で飛鳥の髪をくしゃっと撫でる。
「こら、まじめに読んでるのに~!」
「えへへ、ごめんなさい。でも、かわいくて、つい……」
しばらくして、七海はそっと離れ、またノートを手に取った。口元は満足そうな笑みがある。飛鳥はふうっと息をついて、本に視線を戻したが、ページをめくる手は少し緩んでいた。
***
【瑞希と誠のデート、つづき】
ライブとディナーが終わる頃、空はとっくに夜の帳を下ろしていた。灯りのついたテラスから見えたのは、少しだけ霞んだ都心の灯。音楽の余韻と、美味しかった食事の幸福感が胸の奥にとろけるように残っている。誠が、会計を済ませる。その手つきに、自然と安心感が滲んでいて、瑞希は無言で隣に並んだ。
「……もう少し、歩ける?」
誠の問いかけに、瑞希は首をすこしだけ傾けてから、笑ってうなずいた。
「うん。……でも、きっと、ずっと歩けちゃう気がする」
そんな冗談めいた言葉が、今夜はなんだか本音に聞こえた。恵比寿ガーデンプレイスから、ゆっくりと歩いて坂をのぼっていく。深夜の気配が、街の輪郭を柔らかくしていた。夜風は穏やかで、どこか夢の続きを歩いているような気持ちになる。──そして、彼はそのまま、何も言わずにホテルのエントランスへと向かった。ロビーに近づいた瞬間、胸の奥が、そっと跳ねる。それがどんな意味を持つのか、瑞希はもちろん知っていた。だけど、彼の背中を見つめていると、なぜか怖くなかった。自動ドアの向こう、静かで柔らかな香りの漂うロビー。天井が高く、白を基調とした内装。花々が飾られたアトリウムの奥で、シャンデリアが優しく光っていた。受付で名前を告げる誠の横顔を、瑞希は少し離れて見つめていた。その姿が、すごく頼もしくて──そして、やっぱり少しだけ、恥ずかしかった。カードキーを受け取った誠が、瑞希の方へ向き直る。
「……いこっか」
やさしい声。瑞希は小さくうなずいて、彼の隣に並んだ。エレベーターの中、沈黙が落ちる。でも、変な緊張ではなかった。ドキドキする胸の奥に、あたたかな光が灯っている。──今日は、特別な日だから。ずっと、ふたりで過ごした、夢みたいな一日だったから。扉が、静かに開く。このあと、どんな夜になるのか。それを想像するたび、心臓がくすぐったく跳ねた。
***
部屋に入った瞬間、世界が音を失ったように感じられた。厚手のカーテンに覆われた窓の奥には、ぼんやりと都心の夜景が滲んでいる。天井の高い、落ち着いた色味の空間。シックなブラウンを基調にした内装は、どこか非日常の匂いを纏っていた。柔らかく絨毯の沈む床に、ふたりの足音だけが落ちる。瑞希は部屋の中央で、そっとくるりと身体を回した。まるで、ここが舞台か何かのように。
「……すごいね、ほんとに。映画のセットみたい」
彼女の声が、深く静かな空気に溶けていく。ベッドは広く、真っ白なリネンが夜の静けさとよく似合っていた。間接照明の灯りが、ガラスのランプシェードに反射して、天井に淡く模様を描く。瑞希が、そっとヒールを脱いだ。カーペットに素足を沈めると、ふわりとした感触が足裏に伝わる。
「……ねえ、まーくん」
振り向いた彼女の瞳は、どこか熱を帯びていた。
「このまま、ここにいたら……夢だって思っちゃいそう」
誠は笑いながら、瑞希の近くへ歩み寄った。
「……じゃあ、夢でもいいかもね。今日は」
近づいたその距離に、ふたりの息がふと重なる。瑞希の心拍が、すこしずつ早くなっていくのが自分でもわかった。でも逃げる気持ちはなかった。むしろ──このまま、溶けていきたいとさえ思っていた。誠が、瑞希の髪にそっと指を触れる。それだけで、彼女は目を伏せて、小さく息をのんだ。肩に回された手が、温かい。時間が、やわらかく流れていた。夜の空気と、ホテルの静けさ。静謐な空間に包まれて、ふたりの距離が静かに溶けていく──。何も急ぐ必要なんてなかった。でも、ふたりとも、知っていた。この夜が、きっと──特別なものになることを。




