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15/27

瑞希、新宿デート。また、すぐにね。

【DM:瑞希→誠】


 まーくん、お疲れさま〜!

 次の土曜日って空いてたりする……?


 新宿中央公園の芝生のエリア、最近ちょっと風が涼しくてすごく気持ちいいんだって。

 だから、もしよかったらふたりでレジャーシート敷いて、のんびりデートしよ!


 最近、みんなといるまーくんしか見てなかったから。

 ちょっとだけ、わたしだけのまーくんに、充電させてもらえたら嬉しいな。


 もし忙しかったら無理しないでほしいけど……でも、空いてたらいいなぁ。

 お返事、待ってます!


 ***


 新宿中央公園の芝生は、まだ夏の余韻を残していた。都会のビル群に囲まれた空間なのに、空だけが不思議と広くて、風は少しだけ涼しい。視線の先、ベンチに座る人影を見つけた瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。──いた。誠の姿だった。あたりを見回しているでもなく、スマホをいじるでもなく、ただ風景を眺めていた。風に揺れる木々の音と、遠くから聞こえる子どもたちの声に、彼の輪郭がやさしく溶け込んでいる。瑞希は思わず小走りになった。ヒールが地面を叩く音が、いつもより少し軽い気がした。彼に向かっていくことが、どうしようもなくうれしくて、頬の奥がふわっと熱くなる。

「まーくんっ!」

 声をかけると、誠がこちらを振り返って、ふっと目を細めた。その目が、まっすぐに自分を見てくれているとわかるだけで、息が止まりそうになる。

「お疲れさま、瑞希」

「ううん、全然。すっごく来たかったから……今日」

 笑顔がこぼれる。隠そうとしても無理だった。むしろ隠したら、なにか大切なものまでこぼれ落ちそうで。

「うれしい。わたしも」

「……あ、こっちに座ろっか。レジャーシート、敷いといた」

 誠が立ち上がって、芝生の方へと手を差し出してくれた。その手を取る動作が、なんでもないようでいて、心の奥をやわらかく撫でてくる。

「えへへ、ありがと」

 手を握ったまま歩くのは、少し照れくさい。でも、その照れさえも、大事な一部みたいに感じられた。敷かれたシートの上には、小さな保冷バッグと、並んだ飲みもののボトル。そのひとつひとつが、誠が今日という日を思って準備してくれたものだとわかる。

「……ちゃんと選んでくれたんだね」

「うん。瑞希、緑のあるとこ好きかなって思って。こっちのベンチ、ちょっと木陰が多いから、涼しいし」

「まーくん、天才かも」

 そう言って笑ったら、誠も少し照れたように笑い返してくれた。その笑顔を見るたびに、毎回、胸の奥で「好き」が更新されていく。まるで、新しい感情が、今日のぶんだけ生まれてくるみたいに。

「……なんか、もう来ただけで楽しい」

 ぽつりとこぼれた言葉に、嘘はなかった。料理のことも、準備のことも、ぜんぶもう遠くに感じていた。誠がいて、自分がここにいて、それだけで、今日という日が始まっている。風が、シートの端をふわりと持ち上げた。瑞希はそこにそっと腰を下ろす。心臓が少しだけ高鳴っている。でも、それは不安じゃなくて、きっと期待の音だった。──これから、今日が始まる。それがうれしくて、すこし照れくさくて、でもたまらなく幸せだった。

 

 ***

 

 シートの上に腰を下ろすと、誠がバッグから、丁寧に包まれたお弁当箱をひとつずつ取り出した。その手つきが落ち着いていて、どこか誇らしげに見えて、瑞希は思わず見とれてしまう。

「うわ、すご……これ、まーくんが?」

「うん。前にちょっと練習してて。今日みたいなとき、使えるかなって」

 照れくさそうに笑いながら、誠は箱の蓋を開けた。中には、色とりどりのおかずが並んでいた。卵焼き、唐揚げ、ブロッコリーとミニトマトのサラダ。仕切りもきちんとされていて、彩りのバランスも完璧だった。

「え、なにこれ……ほんとに作ったの?買ってきたんじゃなくて?」

「全部、うちで作った。今朝、ちょっと早起きして」

「……うそ。すごい……。おいしそ……」

 見た目だけじゃない。ふわっと立ちのぼる出汁の香りや、胡麻の風味が、彼のていねいな時間をそのまま語っている。

「じゃあ……いただきますっ」

 箸を手に取って、まずは卵焼きを口に運ぶ。ひと口噛んだ瞬間、ふわっとした食感と、ほんのり甘くて優しい味が広がった。

「……っ、おいしいっ」

 声が漏れた。まるで反射のように、心の底から湧いて出た言葉だった。

「ほんとに、すごくおいしい……!卵焼きって、意外と難しいのに……」

「何回か失敗したけど、今回は成功かな」

「成功どころじゃないって……なにこれ……彼氏料理界の最高峰なんだけど……」

 言いながら、つい箸が止まらなくなっていく。唐揚げも、サラダも、ひとつひとつが誠の性格そのままの味だった。ていねいで、やさしくて、どこか真面目で、でも抜け目がない。──ああもう、こんなのずるいよ。胸の奥に、ぽつんと沈んでいた言葉が、不意に浮かび上がってきた。

「……ほんとはね、わたしも、なにか持ってこようと思ってたの」

「うん?」

 誠が、サラダを差し出しながら顔を上げる。

「ちょっとしたものでも、自分で作って……まーくんに食べてもらいたいなって。……でも、間に合わなくて……」

 最後のほうは、少し声が小さくなった。言い訳じゃない。ただ、素直に気持ちを伝えたくて。

「でも、いいよ。別にそんなの」

「え……」

「今日、こうして来てくれたことだけで、十分うれしいし」

 それは、たぶん誠にとっては、なんでもない言葉。でも、瑞希にとっては、胸の奥がじんわり温かくなるほど、うれしい言葉だった。

「……まーくん、そういうの、ずるい……」

 箸を持ったまま、瑞希は目を伏せた。涙じゃない。でも、ちょっと泣きたくなるような、そんな幸福感だった。

「こんなにおいしいのに……お返し、なにもできないじゃん……」

「今、してくれてるよ」

 誠のその声が、やわらかく響く。どこまでも自然で、どこまでも優しくて──その一言が、今日のお弁当の最後の調味料だった。

 

 ***

 

 陽は、いつの間にか西のビルの向こうに傾いていた。さっきまで明るく照っていた芝生も、今はゆるやかな陰をまとっている。風がすこし冷たくなって、瑞希は無意識に両腕を軽く抱いた。誠が、それに気づいたように、自分の上着をそっと肩にかけてくれる。

「……ありがと」

 声は自然に出た。でも、その裏に乗っていた感情は、うまく言葉にはできなかった。誠は何も言わず、瑞希の横に座ったまま、遠くの空を眺めている。その横顔が、どこまでも穏やかで、でも少し遠く感じて──ふと、ぎゅっと腕を取りたくなった。だけど、そうする代わりに、瑞希はほんの少しだけ、彼の袖をつまんだ。

「……まーくん」

「うん?」

「……なんかさ、今日……もうちょっとだけ、こうしてたくなっちゃった」

 誠は顔をこちらに向ける。その視線がやさしすぎて、言葉がつづけられなくなりそうになる。

「ねえ……このあと、すぐ帰る?」

「別に、急いでないよ」

 その返事に、胸の奥で何かがほどけた気がした。うれしさと、安堵と、すこしだけの期待がまざって、熱をもったまま揺れる。

「じゃあ……どこか、静かなとこ、行かない?」

「うん。行こうか」

 誠の声は、変わらない。変わらないままで、でも、瑞希の中だけで、何かが確かに動いていた。遠くで、子どもの笑い声が消えていく。風も、空も、芝も、すこしずつ夜に包まれはじめていた。──このあとの時間を、ぜんぶ、彼と過ごせたら。そう思っただけで、指先が少し震えた。

 

 ***

 

 新宿中央公園を出たあと、ふたりはしばらく、無言で歩いていた。並んでいるだけで、心の奥がじんわりと熱くなるような、不思議な時間。足元を踏む音も、交わされる視線も、すべてが静かで、あたたかかった。夜の街は、人のざわめきとネオンであふれているのに、彼と歩いていると、なぜか世界の音が遠くなる。瑞希は、手のひらの中で、さっき誠がそっと重ねてくれた指のぬくもりを確かめていた。──どこへ向かっているのか、自分でも、ちゃんとは言えなかった。けれど、誠が黙ったまま、少し歩く速度を落としたとき。その先に見えた、ガラス張りの静かなエントランスに、心がふっと波打った。

「ここ、入ってみよっか」

 誠の声は、静かだった。問いかけではなく、確認でもなく、ただ、そう言っただけのような口調。でも、瑞希は、頷いた。理由なんて、いらなかった。ロビーは落ち着いたトーンの照明に包まれていて、周囲の喧騒とはまるで別の世界のようだった。壁はグレージュ、カウンターの奥には間接照明の柔らかな灯り。香りの薄いアロマが、ふたりの距離をそっと閉じる。チェックインを済ませる間、瑞希はただ黙っていた。自分から誘ったのに、心臓はずっと早くて、手のひらには汗が滲んでいた。──でも、それは恐さじゃない。むしろ、ほんのすこし、うれしい。誰かと一緒にいて、こんな風に心が波立つのは、久しぶりだった。エレベーターの中。鏡に映るふたりの姿を、瑞希はちらりと盗み見た。誠の横顔は、変わらず落ち着いているように見える。でも、その静けさが、余計に胸を締めつける。部屋の扉が開いたとき、視界に飛び込んできたのは、白を基調とした空間だった。シンプルな家具と、柔らかなベッド。すべてが整いすぎていて──それが、逆に不安を溶かしてくれる。

「……わあ……」

 思わず声が漏れた。広すぎず、狭すぎず、でも十分に“ふたりきり”を意識させられる距離感。誠は、窓の方に歩いて、カーテンを軽く引いた。ガラス越しに、遠くのビルの光が静かに揺れている。

「座ってて。お水、入れてくるね」

「……うん」

 ベッドの端に腰を下ろすと、身体がすこしだけ沈んだ。その感覚が、妙にリアルで、心の奥をそっと揺らす。──ほんとは、もっと緊張するかと思ってた。でも、不思議と、怖くはなかった。まーくんとなら、大丈夫。そう思ってしまった自分が、なによりもいま、うれしい。部屋の静けさが、胸の奥の音を際立たせていく。さっきより少しだけ、近くに来てくれた誠の気配に、瑞希はそっと目を閉じた。──この先を、彼となら、進んでもいい。その気持ちが、言葉より先に、身体に染み込んでいくのを感じていた。

 

 ***


 【Emopulseログ|瑞希|再生モード:深層余韻】

 

タグ:

 #息が戻らない #重なる心音 #ふたりだけの夜

 #脚が震える余韻 #奥に甘い波 #抱きしめていたい

 

《視覚》

 薄いランプの光が、乱れたシーツの上で揺れてる。

 結んだ指と指の影がゆっくり呼吸して、

 肌には、さっきまで重なっていた温度がまだ残ってる。

 鏡の端に、赤く染まった頬と潤んだ瞳がかすかに映る。

 “もう何度目かなんてわからない”

 そんな夜の痕跡が、静かに部屋に散らばってた。

 

《触覚》

 胸の上で、まーくんの鼓動がまだ強い。

 重ねられた腕の内側……そこから伝わる熱が、身体の奥にずっと残って、甘い脈になって響く。

 呼吸を合わせるたび、きゅんと吸い込まれるように疼いて、“もっと欲しい”って感情だけが身体の表面に浮かんでくる。

 唇に触れたやさしいキスの余韻。

 首すじを滑った吐息の熱。

 腰に添えられた掌のあたたかさ。

「……まだ、ほしい……」

 その願いが、自分の脈といっしょに静かに跳ねていた。

 

《匂い》

 シャンプーとシーツの匂い。

 まーくんの体温が重なったあとの、

 ちょっと甘くて落ち着く“ふたりだけの匂い”が部屋に満ちている。

 深呼吸すると胸がじんわり熱くなって、喉の奥が締まって、涙が出そうになる。

 「……まーくん、すき……ほんとに、すき……」

 名前を呼ぶと、体温がまたひとつ重なる気がした。

 

《エモ波形記録》

 Peak1:胸下の鼓動同期(心拍の跳ねあい)

 Peak2:呼吸が重なった瞬間の深層安堵

 Peak3:名前を呼ばれたときの意識の白光

 Peak4:触れられた体温が奥に落ちた錯覚

 Peak5:抱きしめられたまま溶けていく幸福

 

 分析:感情優位。快楽より“愛の濃度”が波形の主成分となり、複数のピークが“連続する一つの線”のように重なっている。


 *** 


 朝の気配が、カーテンの隙間から少しずつ差し込んできていた。けれど部屋の中は、まだ夜の余韻を引きずるように、静かで、ぬるい温度に満たされていた。誠は、瑞希の肩を抱いて、ベッドの上に横たわっていた。瑞希は、腕枕に頭を乗せたまま、ぴったりと身体を寄せていた。さらさらの髪が頬に触れ、肌と肌がすべてで会話するような距離。誠の胸の上に指先を置いて、なにかをなぞるように小さく動かしていた。

「……ねえ、まーくん」

「ん?」

「すごかったね、今夜……」

「うん。瑞希が……すごかったよ」

 そう言って、誠が微笑むと、瑞希は小さく、くすっと笑って――そのまま、顔を胸に埋めた。

「……ちがうよ、わたしのことじゃなくて……。まーくんが、すごすぎて……もう、溶けちゃいそうだった……」

「途中、名前も言えてなかったよ」

「うぅ……それは、言わないで……っ」

 瑞希は頬を赤く染めて、ぺしっと誠の胸を軽く叩く。でもその手はすぐ、指先をからめるようにして、離れなかった。

「でも、ログに残ってるんだよなぁ、あの時の……」

「やめてやめてやめてっ、見るの禁止っ」

「じゃあ一緒に観よう。ふたりで反省会」

「……バカ。だいすき」

 急に、ぽつんと落とされたその言葉に、誠はちょっとだけ不意を突かれる。でも、すぐに――

「俺も。ほんとに」

 小さなキスを、おでこに落とす。すると瑞希は、ふにゃっと嬉しそうな顔をして、また頬を誠の胸に埋めた。

「……ずっと、こうしてたいな」

「いいよ。今日は、もう何も考えなくていい」

「ん……じゃあ、ぎゅってして……?」

 誠は、腕に少しだけ力を込めた。瑞希の華奢な背中を、包み込むように抱き寄せる。肌の熱が伝わる。心拍が重なる。呼吸が、ひとつになっていく。静かな朝。ふたりの愛は、まだそこにあった。

 

 ***

 

「……ふふっ」

 瑞希が、小さく笑った。

「な、なに?」

 誠が思わず身じろぎすると、瑞希はふわっと肩を揺らして首をすくめた。

「ううん、なんでもない。……ただ、」

 頬をすり寄せてくる。腕のなかにすっぽりおさまりながら、いたずらっぽく視線を上げた。

「やっぱり、飛鳥ちゃんとか……七海ちゃんにも、してるんだろうなって、思って」

「……っ」

 誠の背筋がぴんと伸びる。

「え、いや、それは──」

「うそうそ。怒ってないよ?だって、わたしも……まーくんのこと、大好きだもん」

 不意に、瞳が潤む。怒っていないと言いながらも、そこには少しの寂しさと、たくさんの好きが滲んでいた。

「でも……ちょっとだけ、ずるいなあって思っちゃうだけ。まーくんのこと、こんなに好きで、こんなに……全部、愛してるのに」

「瑞希……」

 誠は、瑞希の肩をそっと抱き寄せた。

「でもね、わたし……それでもいいの。だって、わたしが“今”まーくんの隣にいる。こうして、まーくんの胸にいる。……これが、いちばん幸せだから」

 それは、やきもちではなく、信頼の言葉だった。受け入れて、甘えて、でも一番を願ってしまう――そんな、恋する女の子の本音。誠は、瑞希の髪をそっと撫でた。

「ありがとう……でも、俺は、ちゃんと分かってるよ。瑞希は、特別だよ。俺にとって、誰よりも……大事な、女の子だから」

「……っ」

 瑞希の瞳に、また光が宿る。

「……まーくん」

「ん?」

「大好き」

 声は小さかったけれど、ベッドのなかには、それだけで充分すぎるほどの、ぬくもりがあった。


 ***

 

 陽射しが、大きなガラス窓から差し込んでいる。新宿の高層ビル群を望むホテルのラウンジは、白いクロスとシャンパンゴールドの椅子が並ぶ、落ち着いた空間。バターの香り、焼きたてのパン、コーヒーの香りが心地よく鼻をくすぐる。誠と瑞希は、窓際のテーブルに向かい合って座っていた。

「……すごいね、これ全部、食べていいんだよ?」

 瑞希は目を輝かせ、トレイの上にパンケーキ、スクランブルエッグ、ソーセージ、フルーツを盛り、さらにカプチーノまで載せて戻ってきた。

「ちょっと取りすぎじゃない?」

 と誠が笑うと、瑞希はふくれっ面で言い返す。

「だって、昨日いっぱいがんばったし……いっぱい、出しちゃったし……!」

「え?何を?」

「……いろいろ!」

 赤くなって目を逸らす瑞希に、誠はくすりと笑いながら、自分の皿のベーコンをひとつ、瑞希の皿にそっと移す。

「ご褒美追加」

「……まーくん、だいすき」

 そんな何気ない一言が、ふたりの間に甘い空気を運んでくる。ふたりはゆっくり食事を楽しみながら、たわいのない話をした。テレビの話、授業の話、次のデートの話。けれどときおり、瑞希の頬がほんのり染まる瞬間があって、そのたびに、ふたりの視線が重なる。

「……なんかさ、普通の朝なのに、すごく幸せ」

「うん。わかる。なんでだろうな」

「……やっぱり、まーくんと一緒だから、かな?」

 少し照れながらも、瑞希はしっかりと目を見てそう言った。誠はその言葉を噛みしめるように、微笑んだ。そして、テーブルの下でそっと瑞希の手に触れる。その手は、ほんのりとあたたかくて、まるで昨夜から続く想いが、まだ指先に残っているかのようだった。ふたりの時間は、ゆっくりと、けれど確かに進んでいく。ビュッフェのクロワッサンはさくさくで、コーヒーの香りは、今朝という瞬間をやさしく包んでいた。

 

 ***

 

「最後に、これだけ……!」

 そう言って、瑞希はふわふわのクロワッサンを皿に載せて戻ってきた。三つ目のおかわりだった。椅子にちょこんと腰を下ろすと、目の前で器用にパンを裂いて、半分を誠の皿にちょこんと置いた。

「美味しかったから、まーくんにもあげるね」

 それだけの言葉だった。けれど誠は、不意に胸がいっぱいになった。瑞希の目が、やさしく細められていた。朝の光を映したその瞳は、どこまでも澄んでいて、まっすぐで――まるで、世界のすべてがそこに映っているようだった。焼き立てのクロワッサンからは、バターの香りが立ちのぼる。小さな指が掴んだ形のまま、ふわりと割られた生地。向かい合う彼女のほっぺたが、ほんのり紅くて、何でもない朝の、その笑顔が、たまらなくいとしかった。誠は、思わず見とれていた。スマホも、時計も、まわりの人も、全部どこかへ消えていく。ただそこに、瑞希がいて、

「ね、早く食べて~」

 と笑っている。そんな当たり前が、奇跡のように思えた。クロワッサンの端をかじりながら、彼女は言った。

「今日、すっごく幸せ。……ね?」

 誠は、うなずくしかなかった。

「……うん。俺も」

 心の奥から、ゆっくりと湧き上がってくる感情。それは恋であり、信頼であり、なにより――この先もずっと、瑞希の隣にいたいという願いだった。彼女がまた笑った。その笑顔を見たとき、誠は思った。きっと、今日がいちばん好きだ。でも、明日はもっと好きになる気がする。

 

 ***

 

 ロビーに差し込む朝の光が、ガラス張りの天井をゆるやかに透過していた。シックな内装の中を、瑞希は歩いている。ヒールの音が控えめに響く。彼女は少しだけうつむき加減だった。チェックアウトの手続きを済ませると、フロントスタッフに笑顔で頭を下げ、さりげなく誠の隣に寄ってきた。

「……もう帰るんだね」

 ぽつりと漏れたその声に、誠はふと、朝食のときよりも静かな余韻を感じた。

「うん。でもまた来よう」

 そう答えると、瑞希は小さく笑った。そして――何気ないような顔をしながら、そっと誠の袖口を掴んだ。エレベーターを降りるまでの短い時間。人目のある場所でも、二人はさりげなく指先を触れ合わせたまま歩いた。大通りに出ると、タクシーのクラクションが遠くで響いた。人が増え、現実の時間が戻ってくる。それでも、手だけは離さなかった。

「……まーくん、今日のこと、忘れないでね」

 そう言って、瑞希は微笑んだ。誠は思わず笑ってしまう。

「忘れるわけないだろ。……今日っていうか、昨日からずっと」

「そっか……えへへ、そっかぁ」

 瑞希は満足そうに笑い、でも名残惜しそうに、もう一度――ぎゅっと、誠の手を握りしめた。

 

 ***

 

 新宿の午前。街はすでに喧騒のリズムを取り戻しはじめていた。ホテル前の車寄せで、誠は手を挙げてタクシーを止めた。瑞希は誠の隣に立ち、日差しに少し目を細める。

「じゃあ……行くね」

 口元だけで微笑んで、瑞希がドアに手をかけたそのとき。――ふいに、振り返った。

「……まーくん」

 誠が反応するより先に、瑞希は背伸びをして、彼の唇にやさしくキスをした。ふわりと風が吹く。その短い一瞬だけ、時間が止まったようだった。唇が離れると、瑞希はすぐに視線を逸らした。耳まで赤く染まりながら、でも、声ははっきりしていた。

「好きだよ」

 そう言って、タクシーに乗り込む。誠が無言で頷くと、瑞希は窓を開け、最後に笑顔を浮かべた。

「また、すぐにね」

 車が動き出す。誠は手を振った。見送る彼の胸には、まだ彼女のキスの熱が、確かに残っていた。


──

───

────

─────

──────

───────

────────


 また、あの丘がよぎる。薄桃色の花が、光の粒になって舞っていた。四つの影は動かない。ただ、ひとつの声が紡がれるのを待っている。「俺、ちゃんと決めるから」――その続きは、まだ巻き戻されたまま。フィルムは、静かに先へ進む。


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