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11/22

飛鳥、なんでもない日「いつも通りなのに……なんでだろう」

「……でさ、どうする?朝ごはん」

 ソファに身体を預けたまま、飛鳥がぼそっと言った。少し空腹を感じてきたのだろう。けれど、身体はまだ重いままらしい。

「んー……コンビニでいいかな。ていうかカップ麺でも……」

「いいよ、俺が作るよ。冷蔵庫の残りも使えるし、ちょっと待ってて」

 誠が立ち上がってキッチンへ向かおうとすると、飛鳥はソファから起き上がりかけて言った。

「えっ、でも……わたし、なにもしてないし……」

「休んでて。さっきまで頑張ってたんだから」

 振り返らずに言う誠の声は、どこまでも自然だった。押しつけがましくなく、でも頼もしさがあって。飛鳥は、ほんの一瞬だけ逡巡した。だけど、すぐにソファに沈み込むようにして、また座りなおした。

「……じゃあ、ちょっとだけ。甘えちゃう」

 背もたれに頭を預け、腕を組んで身体を丸める。その目の端に、キッチンに立つ誠の背中が映った。冷蔵庫を開け、野菜室を確認し、残っていた卵とトマトとベーコンをさっと取り出す。フライパンに火をつけ、調味料を迷いなく選んでいく手際のよさ。ジュウ、とオイルのはじける音。トントン、とリズムよく刻まれる包丁の音。

「……すご」

 思わず、声がこぼれた。料理の腕前だけじゃない。何も言わなくても、必要なことをしてくれる。頼れる。それ以上に――……かっこいいな、まこと。飛鳥は、あたたかいクッションに頬を寄せながら、誠の後ろ姿を見つめていた。ゆっくり瞬きをして、伸びをひとつ。

「……ずっとこうしてたいな」

 ぽつりと、小さな声で。けれどその呟きは、キッチンには届かなかった。

 

 ***

 

「ごちそうさま……美味しかった」

「よかった」

 食器を片付け終えたふたりは、ふたたびリビングのソファに戻っていた。昼下がりの陽光がカーテン越しに柔らかく差し込み、部屋の空気をゆるやかに包んでいる。飛鳥はブランケットにくるまりながら、スマホを横向きに持ち、画面をスワイプしている。誠はとなりでゲーム機を立ち上げ、何気なく起動した格ゲーに手を伸ばす。

「……なに見てんの?」

「インスタ。あとおすすめの服とか。……てか、このブラウス、誠が好きそうじゃない?」

 飛鳥が画面をこちらに向ける。白くてシンプルなデザイン。だけど、胸元のフリルがやけに可愛い。

「あー、似合いそう。こういうの着てデート行きたいな」

「……言ってくれたら、買うかも」

 顔を少しだけ赤らめながら、飛鳥はそっけなく言って、また画面に視線を戻す。誠はゲームを一時停止しながら、さりげなく彼女の膝に触れる。そのままふたりで膝を並べて、まるで同じリズムで時間が流れていく。

「今日、もうずっとここにいてくれる?」

「もちろん。俺も……何もしなくても、こうしてるだけで嬉しい」

「ん……ふふ、なんか、ヘンな感じ。暇なのに、ぜんぜん退屈じゃない」

「たぶん、それが幸せってやつだよ」

「……ねぇ、今ちょっといいこと言ったでしょ?」

「言ったかも」

「ふふっ」

 何気ない会話。ただのやり取り。けれど、どこか胸の奥がじんわりする。ふたりの時間は、少しずつ、静かに、積み重なっていった。

 

 ***

 

 夕方。ふたりは並んで、ゆるやかな河岸の遊歩道を歩いていた。水面に映る陽光が、もう少しで夜になると告げている。その穏やかな光の中を、小さな犬がリードを引いて駆けていく。すれ違うたび、飼い主の笑い声と、犬の軽やかな足音が風に溶けていく。遠くのグラウンドからは、草野球の声が響いていた。乾いた打球音、走るスパイクの音、仲間たちのかけ声。買い物袋を提げた初老の夫婦が、腕を組んで歩いている。その姿が、妙に印象に残る。飛鳥は、ほんの少しだけ立ち止まった。何気ない、そのすべてが――胸の奥を強く、熱く、打った。

「……こんな、ただの散歩なのに」

 声には出さなかった。でも、目の奥がじわりと滲むのがわかった。横を歩く誠が、ふと振り返る。

「どうしたの?」

 飛鳥は一瞬だけ、顔を上げた。けれどすぐに笑みを作って、首を振る。

「なんでもない。……ね、もう少し歩こう?」

「……うん」

 それ以上、誠は何も聞かなかった。ただ、そっと歩幅を合わせてくれる。飛鳥はその横顔を見ながら、心の中で呟いた。

(……こんなふうに、まことと一緒に歩けることが、こんなに嬉しいなんて……)

 風が頬を撫でる。その風ごと、胸の奥の熱も流れていくようだった。

 

 ***

 

 ふたりは、河岸のベンチに腰を下ろしていた。風は穏やかで、遠くに沈みかけた太陽が、川面を金色に染めている。視界はひらけていて、空と水が、ひとつの大きなパノラマのように広がっていた。飛鳥は、誠の肩に軽く身を預けながら、何も言わずに空を見つめていた。ふたりの沈黙は、重たくなかった。風と音と光が、代わりに語ってくれていた。草野球の声はもう届かない。犬の姿も消えて、今はただ、風の音と、静かな流れの音だけがある。毎日、どこかで繰り返されている風景。見慣れた空、ありふれた川、なんでもない時間。――でも。

「……きれい」

 小さく、飛鳥が呟いた。

「ん?」

 誠が少しだけ顔を向ける。

「この景色、いつも通りなのに……なんでだろう。今日は、すごくきれいに見えるの」

 それは、きっと――誠と一緒にいるから。ただ、それだけのことだった。けれど飛鳥は、それを言葉にしなかった。あまりにストレートで、少しだけ恥ずかしかったから。ただ、夕陽が頬を照らして、飛鳥の瞳を金色に染める。その瞳を、誠は黙って見つめた。時間が、ゆっくりと、流れていく。まるで、世界がふたりのために歩調を緩めてくれているようだった。

 

 ***

 

「今日は……楽しかったね」

 夕暮れの風が、川べりのベンチを撫でていく。並んで座るふたりの間には、言葉よりも深い静けさが流れていた。飛鳥がぽつりと呟いたその言葉に、誠は肩をすこし揺らして笑う。

「うん。なんにもしてないけど、こういう穏やかな日って、すごくいいよな」

「……うん。わたしも、そう思う」

 目を伏せた飛鳥の横顔は、沈みゆく夕陽に縁取られ、赤く染まっていた。ふと、誠が口元をゆるめて、からかうように言った。

「……まあ、なんにもしてないって言っても、いっぱいえっちもしたけどな」

「っ……ばっ、か……!」

 飛鳥の顔が、みるみるうちに真っ赤になる。頬をぷくっと膨らませ、わざとそっぽを向いた。

「……そういうこと、言わないの……」

 小さな声で抗議しながらも、どこか甘えているような声色。誠がちらりと飛鳥を見ると、拗ねたままの横顔の奥で、彼女の唇がわずかにゆるんでいた。ほんとは――嬉しいくせに。誠は、そっと飛鳥の手を握った。指先を重ねるだけの、静かなつながり。でも、心が跳ねる。飛鳥も、しばらくしてから指をからめ返した。夕陽がゆっくりと沈んでいく。その光の向こうに、ふたりの明日が、静かに開いていた。

 

 ***

 

 【DM:飛鳥→誠】

 

 ねえ、なんかさ……今ごろになって、じわじわきてる。起きて、ごはん食べて、ゲームして、ちょっと外出て、帰ってきて、まただらだらして、気づいたら抱き合ってて……。あんなに普通の時間なのに、全部がすごく特別だった。なんかね、わたし、こういうのが幸せなんだって思っちゃった。

 

 ……とか、ちょっと言いすぎたかも。まことのこと、甘やかしすぎたせいだよ、きっと。でも、ほんとに楽しかった。ありがとう。それだけ、言いたくなった。おやすみ、まこと。

 

 ……あの、さっきのDM、ちょっと甘すぎたかも。なんか、読み返したら自分でびっくりした。わたし、あんなにベタベタするタイプじゃないんだけど……いや、ほんとに、違うからね?今回はちょっと、特別だっただけ。アルコールもあったし、気もゆるんでたし……そういうの、あるじゃん。次に会うときは、あんなふうじゃないから。ちゃんと、普通にするから。……たぶん。

(でも、もう少しだけ、余韻に浸っててもいいよね)


 ほんとにさ、何回も言うけど……ふだんのわたし、あんなんじゃないからね?あんな甘えたこと言うのも、くっついてばっかりなのも、べつにいつもそうなわけじゃないし。……だから、誤解しないでよ。ほんとに、今回はちょっと特別だっただけ。酔ってたし、連日だったし、いろいろ重なっただけだから。……まあでも、楽しかったのは、ほんとだけど(しばらく思い出して、ニヤニヤしちゃうくらいには)。


 ねぇ、返事ないとちょっと恥ずかしくなってくるんだけど……さっきの、あれはその、特別っていうか……べつに、普段も甘えたくないとか、そういうことじゃないけど…………なんかもう、わたし、変だったよね。あんまり見ないでほしいというか、でも、忘れられるのもやだし……って、何言ってんだろ。まことが優しいから、調子に乗ったのかも。ふだんはもっとちゃんとしてるんだからね。……でも、ほんとは、ずっと、ああしてたいなって、思っちゃったの。……ばかじゃん、わたし。

 

 ***

 

 部屋の照明は落とされ、ベッドサイドに置かれた照明が、かすかな光を灯していた。白く細い指が、スマホをなぞる。

「……再生、っと……」

 その声も小さく、誰に聞かれるでもないはずなのに、どこか恥じらいを含んでいた。布団の中。飛鳥は薄手の部屋着のまま、仰向けに寝転んでいた。脚を少しだけ折り曲げて、胸元まで布団を引き寄せる。けれどその肩は、ほんのりと赤く火照っていた。スマホに流れるログは――数日前の、ふたりの愛。背中から優しく抱かれ、奥まで受け止めて、自分のなかに流れ込んできた、すべて。その映像と波形が、まるで生き物のように、彼女の視界に広がっていく。音。触覚。飛鳥が感じていたものが、そのまま“再現”される。彼女の指先が、布団の下でピクリと動いた。

(……ほんとに、こんな顔してたんだ……わたし)

 飛鳥の頬が、ゆっくりと赤くなる。羞恥。でも、それ以上に――嬉しかった。彼の声。彼の熱。彼の名を呼びながら、とろけて、崩れて、それでも「好き」 って繰り返していた自分。

「……バカじゃないの、わたし……」

 そう呟いて、目尻をぬぐう。でもそれは、涙ではなく、笑ったあとに滲んだ熱だった。ログのなかで、彼女が「お兄ちゃん」 と呼んだ瞬間。その波形が跳ねるのを見て、思わず顔を隠す。

「や……だ……もう……」

 布団を顔まで引き寄せ、身体を少しだけ丸めた。羞恥の震え。けれどその奥には、確かな幸福がある。誠が、何度も自分を包んでくれた。中まで、声まで、すべてを受け止めてくれた。そして――全部、注いでくれた。その事実が、甘く、切なく、心を満たしていた。

(……また、来てくれるかな)

(次は……わたしから、もっと……)

 そんなことを思いながら、飛鳥は再びログを再生する。声が、息が、温度が――自室の闇に、そっと滲んでいった。

 

 ***


 Emopulse感情タグ

 [愛情]97%→99%

 [快楽感知]62%→93%→連鎖昇華

 [羞恥]74%(開始時)→16%(開放)

 [受容度]100%

 [呼応収縮反応]3→4→6(段階的締付)

 [甘え成分]解放

 Peak波形

 Peak1:背面からの密着に伴う心拍跳ね上がり

 Peak2:象徴の熱を認識、発語による自覚強化

 Peak3:連続的律動による小爆発波(波形2→3→3→4)

 Peak4:感情と接触が同期、“甘え”が口をついて出る

 Peak5:名前呼称「お兄ちゃん」→全身が震え、内部収縮

 Peak6:溶融感・満ちる感覚

 Peak7:最終波:愛の受容と溶解による深層融合反応

 

 ***

 

 ログは停止していた。光が消え、部屋は再び闇に包まれる。飛鳥は、胸元まで布団を引き寄せたまま、静かに瞳を閉じていた。

(……あれより、すごい記録は、たしかにない……けど)

 けど――彼女の心に、もうひとつの風景が浮かんでいた。ゆるやかな夕暮れ。川沿いの遊歩道を、ふたりで歩いたあの日。犬の足音。グラウンドの声。風に乗った笑い声と、川面に跳ねた陽光。なんでもない、ただの風景だった。でも――胸の奥が、きゅっと締めつけられた。不意に立ち止まった飛鳥を、誠が「どうしたの?」と振り返ってくれたこと。それだけで、もう泣きそうだった。声にしなかったけど。笑って誤魔化したけど。

(……嬉しかった……すごく……)

 そのあとベンチに並んで座って、夕陽を眺めながら、肩を寄せ合って、ただ、何も言わずに、風を感じてた。誠の言葉に赤くなって、拗ねたふりをして、でも指先を重ねたとき、鼓動が止まりそうだった。それは、どんな儀式の最中よりも、身体の奥で何かが“あふれてしまいそう”な感覚。幸福。温度。時間。それらが全部、あの夕陽に染まっていた。思い出すたび、心がじんわりと熱くなる。あの横顔、あの指の重なり。頬に当たった風の匂いまで、ちゃんと覚えている。それは、記録できない。けれど、永遠に“わたしの中にある”もの。誠といた、何もない時間。でも、あれが――一番、しあわせだった。飛鳥は、そっと目を閉じて、記憶の中の夕陽を、もう一度見上げた。

(……好き。今も、あのときも、これからも。わたし、あの時間をずっと――)

 胸の奥が、あたたかく、満ちていた。

 

 ***

 

 大学の大教室は、昼下がりの柔らかな光に包まれていた。窓から射し込む陽が、席の背もたれを斜めに照らし、その影が教室の奥に、幾何学模様のように伸びていた。誠は、教室後方の一角に腰を下ろしていた。机に腕を置き、どこか気の抜けた表情で、ぼんやりと前方を眺めている。まだ半分も埋まっていない教室に、少しずつ学生たちの気配が増えていく。そのときだった。――扉が開く、小さな音。誠の視線が、自然とその音の方向へ向けられる。そして、すぐに見つけた。飛鳥だった。教室の前方側の扉から、細い身体を小さく揺らしながら入ってくる。黒髪を軽く結んで、薄いグレーのトップスに、春色のロングスカート。まるで周囲の空気が、彼女だけ別の速度で動いているように見える。

(……いた)

 誠の胸に、ふっと熱が灯る。飛鳥は、一度きょろきょろと教室を見渡す。どこか小動物のような仕草で、瞳をくるくると動かして――次の瞬間、目が合った。スローモーション。時間が、ゆっくりと流れる。視線が、真っ直ぐこちらに伸びてくる。その途端。飛鳥の顔が、ぱあっと華やいだ。笑顔。まるで、胸の奥からいっきに溢れたような。たった今、この瞬間のために生まれたような。瞳がきらきらと輝いて、頬がわずかに赤く染まって、ほんの少しだけ前のめりになって、小さく唇が開く。言葉にはならない。けれど――全身から、伝わってきた。

(……“好き”だって)

 誠は息を飲んだ。ほんの一秒の出来事が、永遠の記憶になるような錯覚。光の粒が、彼女の髪にも、肩にも、頬にも降り注いでいた。スローモーションが終わる。飛鳥は、こちらへ歩きはじめる。笑顔のまま――いや、少しだけ、唇を尖らせて。

(……ちょっと、喜びすぎたかも)

 そんな照れ隠しのように、意識的にすまし顔を気取って。すらりと伸びた脚で、まっすぐに誠の席へ向かってきて。

「よっ」

 軽く片手をあげて、わざとラフに声をかける。どこか無理に平静を装ってるその姿に、誠は思わず笑みをこぼした。

(……可愛いな)

 心の中で、ぽつりと呟く。なんでもない仕草。よくある教室のやりとり。けれど――その一挙手一投足すべてが、愛しくてしかたなかった。飛鳥が隣に腰を下ろす。ほんの少しだけ、袖が触れ合った。それだけで、心が、またゆっくりと跳ねた。


──

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────────


 光が一度、白く飛ぶ。春の丘。風が花びらを連れ去って、四つの影が並んでいた。誰かの指先が、かすかに震えている。選ばれることも選ばれないことも、もうすぐそこまで来ていた。場面は、再びほどけて流れ出す。なにも告げないまま。


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