【プロローグ】あの季節が、まだ胸の奥にいる
「俺、ちゃんと決めるから」
花びらが舞った。春の光を透かしながら、一本の樹の下で四つの影が並んでいた。沈黙の中で、ただ風だけが騒いでいた。選ばれる瞬間の、手前の呼吸。それが胸を押しつけるように、ひどく痛かった。
ここから、話を、始めようと思う。あの春にたどり着くまでの、わたしたちの話を。今でも思い出す。放課後のカフェ。にぎやかな声。アイスコーヒーの氷が、グラスの中で小さく鳴った音。皆で行った恵比寿のお店。いちばん上だけ崩れたパンケーキ。溶けたバターが皿の縁まで流れていって、誰かが「いちばんおいしいとこ」と言って笑っていた。高円寺の薄暗いゲームセンター。ぬいぐるみを拾い上げてはしゃいだこと。池袋の店で、缶バッジを握りしめたまま立ち上がれなくなっていた、あの手。
ふざけあって、笑い転げて、くだらないことで真剣になって。まるで、それが永遠に続くかのように。誰かがふざけて、誰かが照れて、その空気の中に「好き」がたくさん、こっそり混じってた。あの頃のわたしたちは、いろんな気持ちを抱えてた。嬉しさも、ちょっとした寂しさも、誰かを想う胸の痛みも。でも、全部ぜんぶ、愛おしかった。眩しくて、笑っちゃうくらい素敵だった。だから、今もふとしたときに、あの声が聞こえる気がする。
もし、時間を戻せるのなら。記憶のフィルムを。逆再生のように、想い出がほどけていく。声、光、肌の記憶。言いかけた言葉が映像の端へと滲む。まるで古いフィルムのリールが回転を止め、巻き戻しを始めるように。映画が始まる前の劇場の空気に似ている。照明はまだ落ち切らず、客席には静かなざわめきだけが残っている。この物語がどこへ向かうのか、誰も知らないまま。物語は始まる。フィルムが再び、音を立てて回りはじめる。
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目を開けると、朝の光のなかにまーくんの顔があった。嬉しくなって、シーツをかぶったまま彼の上にシーツごと覆いかぶさる。髪が頬にかかるのも気にしないで、じっと見つめていたら、なんだか熱い視線になっちゃったかもしれない。
「おはよう、まーくん」
「あっ……瑞希……?」
シャツのボタンがふたつ外れたまま、寝ぼけ眼の彼に、わざといたずらっぽく微笑んでみる。まーくんの胸の奥が、またドクンと疼いたのがわかった。
「シャワー、浴びようか?一緒に」
そう囁くわたしの声は、まだ夢の余熱をまとっていて、自分でも少し甘えているのがわかった。シーツをかき分けながら、子猫みたいにまーくんの身体にすり寄っていく。そのまま彼の広い胸にあごをのせて、ちょっといじわるに目を細めた。
「ね、行く前に……ちょっとだけ」
枕元に置いていたスマホを手に取って、まーくんの方へくるりと向き直る。
「ねぇ、まーくん。これ、見て?」
スマホの画面を彼の胸のあたりまで持ってきて、わざとこれ見よがしに寄りかかってみた。自分でつけているフルーティな香水の匂いが、ふたりの間にふわりと広がる。
「朝からね、ふたりのこと心配、してる人たちがいるよ」
楽しくなって、グルチャをスクロールしながら見せつける。まーくんの腕に頬を預けて、わざとらしく耳元で囁いた。
「ほら、飛鳥ちゃんも七海ちゃんも……まーくんのこと、いっぱい気にしてるの」
すこし誇らしげな気分でまーくんの顔を見上げると、彼は眩しそうな顔をしてわたしを見ていた。スマホの画面には、いつもの3人のやり取りが並んでいる。
【グループチャット】
飛鳥:ねえ、瑞希、今朝ぜんぜん静かじゃない?珍しくストーリーも上がってないし。
七海:たしかに……。たぶん、きっと……誠さんとお泊まりでは……?
飛鳥:あーーーやっぱりそういうこと!?こいつ、完全にオフラインモードだな。
瑞希:おはよー。ふふ……寝ぐせ、なおらない。これからシャワー浴びてくるね。
飛鳥:出たーー!核心ワード!!完全にお泊まり確定。
七海:……いいですね。朝のシャワー、きっと気持ちいいですよね。うらやましいです。
瑞希:な、なにそれ〜普通の朝ですけど!?(たぶん)
飛鳥:はいはい、“ただの”ね(笑)あとで根掘り葉掘り聞くから覚悟して。
***
わたしの甘え。飛鳥ちゃんのツッコミ。七海ちゃんの、優しい言葉。まさか、こんな日々が来るなんて思っていなかった。わたしたちの恋は、きっと一生交わることのない光のままだと思ってた。それが今では、みんながまーくんに“好き”を向けている。誰かに何度も何度も、“だいすき”って言われる人生を、彼は今、どんなふうに受け止めているんだろう。ほんの少し前までのまーくんなら、想像すらしなかったはずだ。でも、それでも。今、ここにいるわたしは――まーくんの言葉を、表情を、ぬくもりを一番近くで受け取っていることを、たしかに“しあわせだ”と、強く思っていた。
「……まーくん、そんな顔してどうしたの?」
「なんか現実感なくて。まだ夢見ているのかな?」
少し考え込むような顔をしたまーくんの顔をのぞきこんで、そっと唇をゆるめる。
「ふふっ……しあわせすぎる夢だよね」
出会いは春だった。ほんの偶然で、ほんの一瞬で、けれど何かが決定的に変わってしまった、あの春。大学のキャンパスでまーくんに出会った。そして、今がある。毎日が夢みたいで、毎日が少しずつ現実になっていって、それでも、まだ信じられない気持ちになることがある。こんな幸せを、いったい何と呼べばいいのだろう。こんな状態が、いつまでも続くとは限らない。きっと、飛鳥ちゃんや七海ちゃんのことも含めて、いずれ選ばなきゃいけない未来がある。でも今だけは、その影に触れないようにしていた。このぬくもりを失うことなんて、今のわたしには、まだ考えたくなかったから。
小さく指で彼の胸をツンとつついてから、軽く伸びをして立ち上がった。
「じゃあ、先にシャワー行ってくるね」
寝癖を指先で整えながら、名残惜しくてつい振り返ってしまう。
「まーくんも、あとから来ていいから……ね?」
今日という日の続きが、ずっと続くような気がした。枕元で、Emopulseのリングが静かに明滅している。指に戻した瞬間、リングの温度がほんの少しだけ上がった気がした。
***
シャワーを浴びて、結局また愛し合ってしまった。まーくんと二人きり、こうなるのは仕方ない。
「ん~……いい匂い……」
リビングのソファで毛布にくるまりながら、小さく背伸びをする。まだ濡れた髪はタオルのせいでくしゃくしゃのままで、ゆるい部屋着にくるまっている自分の姿が、我ながら相当無防備なのはわかっていた。でも、まーくんの前だからいい。
「ほら、起きたならお腹も空いたろ。とりあえず、簡単な朝ごはんで我慢して」
キッチンからトレイを運んできたまーくんが、テーブルに手際よく料理を並べていく。サンドイッチと、プレーンオムレツ。少し甘めにしたトマトときゅうりのマリネ。そして――お気に入りのマグカップに注がれた、温かな紅茶。ふわっと立ち上る香りが、部屋の空気にやさしく溶けていった。
「わー……ほんと、まーくんは家事力高いんだもん……」
ふにゃっと笑いながら椅子に腰かける。トーストをちぎって、紅茶に添えられたハチミツをすこしだけ舐めてみる。
「うん……しあわせ……」
「昨日の夜も、それにこんな朝ごはんまで……わたし、甘やかされすぎかも……?」
「……いいんだよ、俺が甘やかしたいから」
まーくんはさらっと、自然にそう言った。だけど、その言葉があまりにも優しくて、少しだけ目が潤んでしまう。それを隠すように、そっとマグカップを口元に運んだ。紅茶の香りの向こうに、あたたかい気持ちが静かに流れていく。まーくんも自分のマグを手に取って、向かい側からわたしを見つめていた。カーテンの隙間から、朝の日差しが差し込む。静かな音楽が流れているわけじゃないのに、なぜか心のなかに、優しいメロディが響いている気がした。
「……ねぇ、まーくん。こういう朝が、ずっと続けばいいのにな……」
「……続くよ。きっと」
まーくんがそう答えてくれて、わたしはほんの少し――照れたように、うれしそうに笑った。
***
お腹が満たされると、部屋の静けさがまた心地よく感じられる。ベッドの端に、昨夜の余韻がまだ残っている気がして、少しだけそわそわする。今はふたりでソファに並んでいた。まーくんはわたしの隣に座って、ぼんやりと伸びをしていた。わたしは脚をソファの上に乗せて、スマホをいじっていた。さっきから可笑しくて小さく笑っては、指で画面をなぞる。
「……何見てんの?」
まーくんが身を乗り出してのぞき込んできたので、ちょっとだけスマホを胸の前に引き寄せた。
「んー?ヒミツ」
いたずらっぽく笑ってみせる。
「なんだよ、それ」
まーくんが軽く笑うのを確認してから、スマホの画面を彼に向けて、ぽんと見せてあげた。
「……さっきの、シャワールームのログだよ。Emopulseの」
まーくんの言葉がピタッと止まった。画面には、あのときの光の波形。タグも、時間も、ばっちり記録されてる。Emopulseは、感情やえっちのログを指輪型ガジェットで記録できる、わたしたち20代の必須ツール。AIが勝手に「#息止まるくらい好き」なんてエモいタグや映像を補完してくれるから、喧嘩の火種にもなるけど、ちょっと美化された夢みたいな記憶が残るのがいいんだよね。
「ちょっと、見せてくれない?」
まーくんが言ってきたので、少しだけ首をかしげて焦らしてみる。
「え~、どうしよっかなー」
わざとらしく唇を尖らせてみたけど、嬉しそうなのは顔に出ていたと思う。
「……嘘。いいよ」
スマホを、まーくんの膝の上にぽんと置いた。
「……変な声、入ってるかもだけど」
最後にぽそっと言って、恥ずかしくなって顔をそむけた。頬が、自分でもわかるくらいほんのり赤い。まーくんはスマホを手に取って、再生ボタンに指を伸ばした。
「じゃあ……再生、するよ?」
わたしはクッションをぎゅっと抱きしめたまま、小さくうなずいた。──記録されたあの瞬間が、ふたりの間にふたたび流れ始める。
***
【Emopulseログ|瑞希|再生モード】
状況:シャワールーム内
タグ:#シャワーの中で#声止まらない #溶ける #全部わたしのなかで #これが愛だってわかる
視覚:曇った鏡。そこに映る、ふたりの輪郭。濡れた髪が肩に張りつき、白い背中に水滴が伝っていた。手すりに掴まる指先が、震えている。
触覚:背中にあたたかい胸板。鼓動がどくんどくん、って跳ねる感触。
匂い:湯気のなかにまざる石鹸の香り。でも。それよりもまーくんの、肌のにおいがしてた。熱を帯びた体温の中、わたしの中に、まーくんがいる。
感情:
呼吸ができなくてでも、くるしかったのは、愛されすぎたから。背中に伝わる、心拍。わたしの中で、跳ねる余韻。シャワーの音に紛れても聞こえてた。まーくんの囁き。
「……瑞希……ほんとに、好きだよ」
背中が、ぶるって揺れた。ううん、心が揺れた。
「……まーくん……」
低く、甘く、かすれた声が自分の口から零れたことに、あとで気づいた。
「……わたしも、好き……だよ……」
振り返らずに言った。言葉だけじゃ、たりないくらいの想いだったから。
エモ波形記録:
Peak1:接続直後/刺激
Peak2:深奥到達/内部反応
Peak3:同期/熱波共有
Peak4:受容圧全身共鳴
Peak5:抱擁・言語交歓/感情爆発
→明滅型から持続型へ変化。感情領域における「幸福係数」が最大推定値に達したと推定。
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ログの再生が終わっても、わたしはスマホを見ようとはしなかった。クッションをぎゅっと抱きしめたまま、顔を少しだけそむけたままでいる。
「……あんなの、わたしじゃないもん」
ぽつりと、言い訳みたいに言った。
「え?」
「……あんな声とか……反応とか……Emopulseが勝手に盛ってるだけだし……」
声がどんどん小さくなる。なのに、まーくんは隣で笑っていた。
「ほんとに?」
「ほんとだもん……っ」
真っ赤になった耳を見られたくなくて、さらに顔を伏せる。まーくんの手がわたしの肩に伸びてきて、そっと引き寄せられた。
「じゃあ、さっきの“好き”も、ログの嘘?」
「…………」
「“感情爆発”って出力も、AIの間違い?」
「……それは、ちょっとだけ、ほんと」
「ちょっとだけ?」
「…………ううん、全部……」
ようやく顔をまーくんの方に向けると、彼の瞳がまっすぐわたしを映していた。照れくさくて、なんだか目が潤んでしまう。
「……まーくんが、そうしてくれたから」
「瑞希が、受け止めてくれたからだよ」
まーくんがそう返してくれて、わたしは何かを堪えるように、目を細めて笑った。
「……もうやだ、好きすぎる……」
「俺も」
言った瞬間、まーくんの腕の中にすっと吸い込まれるように入っていった。肌と肌が触れ合う。香りと、温度と、呼吸が重なる。さっきまでログのなかにいたのに、今また、目の前にまーくんがいる。同じ人が、同じように愛おしい。Emopulseのデータなんかじゃ絶対に測れない何かが、わたしの胸の奥に、静かに満ちていく気がした。
「まーくん、今日……帰らなくていいからね」
「うん、帰らない」
ふたりの距離が、もう一度、ゼロになる。ログじゃない。再生でもない。今この瞬間を、ふたりだけの肌で、確かに記録していた。
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光が反転し、色彩が淡くほどけていく。ふっと、別の場面が挿入される。春の丘。風に揺れる薄桃色の花びら。四つの影が、かすかな緊張を帯びて並んでいた。沈黙は静かすぎて、誰かの鼓動だけが聞こえるほど。誰かが息を飲み、誰かが顔を上げ、そして、誰かが選ばれるのを待っていた。選択は、逃げ場のないほど近くにあった。その一瞬は光の粒となり、フィルムの隙間からこぼれ落ちる。再び走り始める。まだ語られていない結末だけをそっと胸の奥に残して。




