11
「半分だけ」の家出生活を始めてから、二週間が経った。
その間、蒼大は放課後になると欠かさず悠人の世界へ渡り、母、悠人、芽生と四人で食卓を囲んだ。そこでシャワーを浴びてから小屋へ戻り、再び制服に着替えて元の次元へ帰る。その一連の流れは、いつしか新しい日常として定着していった。
当然、本来の次元では帰宅時間が遅くなる。蒼大は自分の世界の母に「部活が忙しくなった」と適当な嘘を吐き、母はそれをあっさりと信じた。帰宅が夜九時を過ぎることもあったが、母がそれ以上に踏み込んでくることはなかった。
おかげで、悠人の家で過ごす時間は日に日に長くなっていった。初日の反発が嘘のように、蒼大は悠人の母とも自然に接するようになった。
家中が冷え切っていた自分の家とは違い、そこにはいつも温かな灯りが灯っていた。四人で料理をし、食後の皿洗いを決めるためにトランプに興じ、映画やドラマを観て笑い合う。響き渡る笑い声は、驚くほど自然に蒼大の耳に馴染んでいった。
「今日、パパと電話したんだけどね」
父が出張から帰ってくる当日。母がネギを刻む快音を響かせながら、皆に切り出した。
「やっぱり、あまり快くは思っていないみたい。二人の事情はともかくとして、家出をしたという事実そのものが気になるみたいで」
蒼大はシンクの前で玉ねぎの皮を剥く手を止め、母を振り返った。調理台にいた悠人と芽生も、一様に作業を止める。
「……それで?」悠人が問い詰める。「二人を追い出せって言われたの?」
「いいえ」
母は首を振った。
「パパも、いきなり放り出すのは忍びないって。今日帰ってきたら、まずは二人の話を聞いてみるって言ってたわ。……たぶん、二人を説得して家に帰らせるつもりなんだと思う」
「……やっぱり」芽生が沈んだ声で頷く。「私たち、出て行ったほうがいいですよね」
「いいのよ、大丈夫」
母は包丁を置き、優しく微笑んだ。
「今すぐ出て行けなんて、パパも言ってないわ。それにパパはまだ君たちのことを知らないだけ。もちろん私だってすべてを知っているわけじゃないけれど、二週間経っても親御さんから連絡一つないのを見れば、君たちがどんなに苦しい状況にいるかは想像がつく。そういうことを直接会って詳しく話せば、パパだってきっとわかってくれる。……それに何より」
母は少し言葉を溜めてから、確信に満ちた声で続けた。
「パパはまだ、二人の顔を見ていないもの」
その言葉の意味は明白だった。しばらくの間、重みのある沈黙が流れる。
その静寂を破ったのは、玄関のドアロックが解除される電子音だった。
母がリビングを出て、玄関へと向かう。彼女が戻ってくるまでの間、三人は作業を止めたまま、互いの顔を見合わせてその時を待った。やがて廊下から母が父に語りかける声が聞こえ、それは次第に近づいてくる。
そして、父がリビングに足を踏み入れた。
父は、蒼大と芽生の姿を認めるなり、その場に釘付けになったように立ち止まった。母が初めて二人を見たときと同じように、激しい衝撃を受けているのは明らかだった。
だが、母の瞳に宿っていたのが「感激」だったとするなら、父の顔に浮かんだのは、一種の「恐怖」に近い戦慄だった。
「どう?」母が父の顔を覗き込む。「驚くほど似てるでしょ?」
父は蒼大と芽生を交互に、何度も凝視した。そして、かろうじて絞り出すように答えた。
「……ああ。本当に、驚いた」
続いて母が、蒼大と芽生を一人ずつ指差して紹介する。
「こちらが橋本ハルちゃん、そしてアキちゃん。悠人と同じ学校の二年生と一年生なの。不思議よね、兄妹で、しかも年齢まであの子たちと同じだなんて」
「……ご両親は?」父が低い声で訊ねた。「君たちがここにいることは知っているの?」
「いいえ、知らないわ」
母が代わりに答えた。
「知らないはずよ。連絡も一切ないし、子供の方から連絡しても無視されるんですって。……ひどい話でしょう?」
父は視線を逸らし、食材の散らばった調理台を睨みつけるようにして言った。
「……いろいろと訊きたいことはあるんだが、時差のせいか酷く疲れている。話はまた後にしよう」
そのまま足早に立ち去ろうとする彼の腕を、母が慌てて掴んで引き止めた。
「ちょっと待って。それだけ? 帰ってきたら二人を説得してみるって言ってたじゃない」
「だから、今は疲れていると言ってるだろ。……また今度にしてくれ」
それでも、母は父の腕を離そうとしなかった。
「あの子たち、今は『兄妹の部屋』で寝てるの。私が家に入りなさいって何度言っても、パパの許しを得ていないから申し訳ないって遠慮して……。ねえ、あの子たちに蒼大と芽生の部屋を使わせてもいいわよね?」
父はしばらく蒼大と芽生を凝視していたが、やがて視線を母へと戻した。
「……お母さんは、それでいいのか?」
「ええ」母は力強く頷いた。「私は、いいと思ってる」
「……わかった。君がいいなら、俺はそれに従うよ」
「あ、それからついでに……」
母が再び腕を引くと、父は重いため息を漏らした。
「……なんだ?」
「小屋の撤去日、たしか明日よね?」
「明後日だ」
「それをキャンセルしてほしいの」
「なぜだ?」
「理由なんてないわよ。ただ……」
母はどこか誤魔化すような口調で続けた。
「考えてみれば、あれだけのお金をかけて作ったものだもの、壊してしまうのは勿体ない気がして。この子たちもあの小屋を気に入ってくれているみたいだし。とにかく、しばらくは家の中で騒々しい工事なんてしないでほしいの。気が散るから」
「……わかった」父は従順に頷いた。「明日連絡して、キャンセルしておく」
「ありがとう」
ようやく母の手が離れた。
「みんなで夕飯を作っていたところなんだけど、一緒にどう?」
「食べてきた」
拒絶に近い即答だった。母もそれ以上は深追いしなかった。
「そう。じゃあ、ゆっくり休んで。お疲れ様」
芽生がそそくさと父に向かって頭を下げる。
「お疲れ様でした。……許可していただいて、ありがとうございます」
蒼大もそれに続いた。父はぼんやりと一度だけ頷くと、無言のままリビングを後にした。
「さてと」
母がどこかすっきりした様子で言った。
「二人とも、今日からは二階の部屋で寝なさいね」
「……今日、今すぐですか?」芽生がもじもじしながら呟く。「まだ、その……心の準備が」
「何の準備よ」母が怪訝そうに聞き返した。「あなたたちが用意するものなんて何もないわよ。今朝、私が大掃除もしたし、布団も枕も全部新しいものに替えたばかりなんだから」
「心の準備をする時間をやってくれよ」
悠人が助け舟を出した。
「いくらなんでも、亡くなったあの子たちが使っていた部屋なんだ。そう簡単に『はい、そうですか』と横になれるわけないだろ」
「あ……」母はハッとしたように頷いた。「そうね、ごめんなさい。無神経だったわ」
「いいよ。だから、二人は今日は小屋で寝て、明日から二階の部屋を使うことにしよう。それでいいな?」
蒼大と芽生が頷き、母もようやく納得した。
『兄妹の部屋』に戻った後、悠人が二人に尋ねた。
「荷物は? あらかじめまとめておいたんだろうな」
「ううん」芽生が答える。「あと少し残ってる。……なんだか、いろいろ多くて」
「最小限に絞れ。どうせ必要なものは、「こちら」で全部手に入るんだから」
「でも……物に残った思い出までは、手に入らないから」
その言葉の重みに、小屋の中に束の間の沈黙が降りた。
「……僕は準備完了だ」蒼大が沈黙を破った。「荷物なんてバックパック一つだけだし、すぐにでも持ってこられる。なんなら、今日からここで寝ようか?」
「いや」悠人は首を振った。「今日は一度、向こうへ戻ったほうがいい。忘れ物がないか、最後にもう一度確認してくるんだ」
「……ところで、お父さんなんだけど」
芽生が曇った顔で言った。
「なんだか、私や蒼大兄ちゃんのことを、あまり快く思っていないみたいだったけど」
「……」
快くないどころか、一刻も早く逃げ出したがっているように見えた――。
蒼大はそう言いかけて、言葉を飲み込んだ。どのみち明日からは、この次元で永遠に暮らすことになる。重要な転換点を前に、余計な波風を立てたくはなかった。
「追い出されはしなかった」悠人が断言した。「今はそれだけで十分だ。点数はこれから稼いでいけばいい」
「……もうちょっとだけ、後で引っ越してもいいかな」
芽生の声がかすかに震えていた。蒼大はたまらず問い詰めた。
「芽生、お前……まさか、気が変わったのか?」
「違うよ、そうじゃない。ただ……小屋の撤去もキャンセルになったんだし、少しは余裕ができたんじゃないかなって。そんなに急がなくても……」
「いや、違う」悠人が冷徹に告げた。
「キャンセルになったのは、あくまで『俺の次元』の話だ。お前たちの次元では、そんなイレギュラーは起きていない。予定通り、撤去が進められるはずだ」
「でも、こちらの小屋はまだ残っているわけだし、それでなんとかなるんじゃないかな……」
本人も屁理屈だと分かっているのか、最後には声が消え入りそうになった。悠人は俯いた芽生をじっと見つめると、宥めるような柔らかな口調で言った。
「うん、そうかもしれない。撤去された後でも、次元を飛び越える別の方法が見つかる可能性もゼロじゃない。……でも、そうならない可能性の方がずっと高いだろうね。よく分からないけれど、入り口であるドアそのものがなくなってしまうんだから」
「僕も、その可能性が高いと思う」
蒼大も言葉を添えた。
「だから、」
悠人が区切りをつけるように言った。
「まずは戻って、そっちの父さんに訊いてみてくれ。もしそちらでも撤去がキャンセルになったというなら、芽生の言う通り、引っ越しを先延ばしにしてもいい。……だけど、予定通り明後日に撤去されるなら、明日、こちらへ移る。いいな?」
蒼大は小さく頷いた後、芽生の表情を窺った。芽生は無反応のまま俯いており、その様子に蒼大の心はざわついた。同時に、内心では芽生が悠人の提案を拒んでくれることをどこか期待している自分に、蒼大は密かに呆れてもいた。
「……わかった」
ようやく芽生が、落ち着きを取り戻した声で言った。
「訊いてみて、撤去するって言われたら、もう説得なんてしない。そのままこっちに来る。……完全に」
話がまとまると、小屋の中にしんとした静寂が降りた。芽生の毅然とした表情を見て、蒼大の焦燥も次第に収まっていく。一度揺らいだ決意が、再び固まっていくのを感じた。
しばらくして、悠人が静かな声で漏らした。
「……ごめんな。こんな過酷な決断を、二人だけに押し付けることになって」
「大丈夫だよ。三人で決めたことだもん」
芽生が言い、蒼大も続けた。
「そうだよ。三人で一緒にいたいから、自分たちで選んだんだ」
三人はしばらくの間、互いを慈しむように見つめ合い、やがてそれぞれの世界へと戻るため、小屋を後にした。




