第5話 まさかの事実.....!?
「......何? ……ヴィオラの部下か?」
「その可能性はあります。ただ――」
私は別の帳簿を取り出した。
今度は、さらに古いもの。
紙は黄ばんでおり、端には長い年月を感じさせる傷みがある。
「こちらにも同じ筆跡が残っています」
「いつの記録だ?」
「六年前です」
「…………六年前?」
「はい」
部屋の空気が、完全に変わった。
ヴィオラが公爵家の財政に深く関わるようになったのは、それより後だ。つまり、この不正が本当に同一人物によって行われているのなら――。
「ヴィオラ様が始めたわけではない……?」
私が呟くと、ヴァイスも言葉を失った。
これまで私は、ヴィオラが公爵家の財政を利用して何らかの不正を行っていた可能性を疑っていた。
けれど、それならば話はもっと単純だった。
彼女が権力を握った後に始まった不正なら、関係者を辿ればいい。だが、六年前から存在していたというなら話はまったく違う。
ヴィオラは、この不正を始めた人物ではない。
もしかすると――彼女自身も、もっと大きな何かの一部に過ぎなかったのかもしれない。
「……誰が?」
ヴァイスが低く呟いた。
「誰が六年前から、北東部の税を操作している?」
私にも答えは分からない。けれど、一つだけ確かなことがある。これは単なる横領事件ではない。長い年月をかけて、公爵家の内部に根を張っていた何かだ。
そして、その何かは――私が当主になった今も、まだ北東部で動いている。
「だからこそ、直接見に行く必要があります」
私は帳簿を閉じ、立ち上がった。
「北東部へ行きましょう」
窓の外では、ようやく朝日が昇り始めていた。
新しい一日の始まり。
けれど私にとっては、それだけではない。
六年前から続く、不正の真相を暴くための始まりでもあった。
「……マーサ」
「はい」
「出発の準備をお願いします」
「承知しました」
「それから――」
私は隣に立つヴァイスを見上げた。
「眼鏡の商人さんの準備も、忘れずにお願いします」
「……なぜ俺だけそんな呼び方をされるんだ?」
「変装するのでしょう?」
「……そうだが」
「なら、今から慣れておいたほうがいいと思いまして」
「リーシェ……」
困り果てたようなヴァイスの声を聞きながら、私は小さく笑った。
――北東部で何が待っているのか。
今の私には、まだ分からない。
ただ一つだけ確かなのは......
もし私の領地で、私の知らないところで誰かが公爵家の財産を好き勝手に弄んでいるのだとしたら――。
「……徹底的に調べて差し上げますわ」
その言葉だけは、朝の静かな執務室に、妙にはっきりと響いた。
ーーー
――その日の午後。
私たちは、北東部へ向かう馬車の中にいた。
表向きの目的は、新たな公爵家当主となった私による領地視察。
けれど、その実態はまったく違う。
目的はただ一つ。
公爵家の帳簿に残された不自然な数字の裏側に何があるのかを突き止め、長年にわたって領地の税収を蝕んできた何者かの正体を暴くことだった。
そのため、今回の同行者は私、マーサ、ヴァイス、そして必要最低限の護衛だけに絞っている。
正式な調査隊など連れていけば、こちらが何かを疑っていると相手に知らせるようなものだ。あくまで、若い当主が突然思い立って領地の様子を見に来た。
そう思わせなければならない。
そして、そのために一番苦労したのが――。
「……どうだ?」
目の前のヴァイスだった。
「どう、と言われましても……」
私は思わず彼の姿を上から下まで眺める。
普段の騎士団長としての軍服は脱ぎ、仕立ての良い茶色の上着に身を包んでいる。髪も染料で暗い茶色に変え、顔には細い金縁の丸眼鏡までかけていた。
確かに、いつもの彼とはかなり印象が違う。少なくとも、顔だけを見れば別人に見えるだろう。
「これは........完璧ですね」
「やはりそう思うか?」
ヴァイスが満足そうに胸を張る。私は一度頷いてから、もう一度じっくりと彼を見た。
「ええ。顔だけなら、本当に別人です」
「……顔だけ?」
「はい」
「その言い方だと、他に問題があるように聞こえるのだが?」
「問題というより、致命的な欠陥ですね」
「致命的!?」
思わず声を上げたヴァイスに、マーサが小さく笑った。私は眼鏡の奥にある彼の目を見ながら、淡々と指摘する。
「まず、背筋が伸びすぎています。商人にしては姿勢が良すぎますし、座っているだけなのに、いつでも剣を抜けるような体勢を取っているでしょう?」
「それは……長年の習慣だ」
「さらに、馬車が停まるたびに外を確認するだけではなく、窓の外にいる人間の動きまで一人ずつ確認しています。商人というより、どう見ても護衛を探している護衛です」
「……職業病というやつだな」
「あら、随分と便利な言葉ですのね?」
「そうだ、便利だろ.......?」
「少なくとも、変装の失敗を正当化する言葉としては便利そうです」
「リーシェ……」
ヴァイスが恨めしそうな顔をする。
けれど、私は構わず続けた。
「それから、商人らしく見せたいなら、もう少し肩の力を抜いてください。それに、そんな鋭い目つきで周囲を見回していたら、誰も普通の商人だとは思いません」
「では、どうすればいい?」
「もっとこう……愛想よく」
「愛想......?」
「ええ。商人というのは、品物を売るために相手へ笑顔を向けるものです」
「……こうか?」
ヴァイスが口元だけを無理やり持ち上げた。
「…………」
私は数秒、黙った。
「どうだ?」
「やめてください」
「なぜ!?」
「とても怖いです、あと気持ちが悪いですわ」
「お前がやれと言ったんだろう!」
思わず吹き出す。
ヴァイスは不満そうに眉を寄せているが、私だって笑いを堪えられない。
「もう少し自然にしてください。商談をしている商人ではなく、笑顔の練習をしている騎士にしか見えません」
「……変装というのはこんなにも難しいものなのか」
「ヴァイス様の場合、変装そのものより『普通の人間として振る舞う』ことのほうが難しいのでは?」
「それはどういう意味だ?」
「そのままの意味です」
マーサが口元を隠して笑う。
「お嬢様、そろそろ出発前から旦那様をいじめるのは、そのくらいにして差し上げてはいかがでしょう」
「だから、まだ旦那ではない」
「失礼いたしました。未来の旦那様でしたね」
「マーサまで!?」
今度は私まで笑ってしまった。
最近は、当主になった直後から問題ばかりが押し寄せてきた。
前任者が残した仕事、ヴィオラの件、そして今度は、領地の税収不正......
息をつく暇もない日々だったからこそ、こうして何でもないことで笑える時間が、思っていた以上に心地よかった。
――けれど。
馬車が北東部へ近づくにつれて、その穏やかな空気は少しずつ薄れていった。
最初に違和感を覚えたのは、街道を行き交う馬車の少なさだった。
北東部は公爵領でも有数の穀倉地帯であり、収穫期ともなれば、王都へ作物を運ぶ荷馬車が頻繁に行き交うはずなのだ。
ところが、窓の外に見える街道は妙に静かだった。
たまに農民らしき人影が見えるだけで、穀物を積んだ荷馬車はほとんど通らない。
「……少なすぎますね」
私が呟くと、ヴァイスも窓の外へ目を向けた。
「帳簿では、今年の出荷量は前年より増えていたはずだな」
「ええ。だからこそおかしいのです」
さらに進むと、今度は広大な農地が見えてきた。
そこで私は思わず眉をひそめた。
畑はところどころ荒れ、水路の一部は崩れたまま放置されている。農具を置いてある場所も整理されておらず、道沿いには雑草が伸びたままになっていた。
帳簿に記された「前年並み」という数字から想像していた光景とは、あまりにもかけ離れている。
「……これで、本当に前年並みの収穫があったのでしょうか」
「数字のほうが間違っている可能性が高そうだな」
「ええ。ですが――」
私は窓の外を見つめた。
「数字だけではなく、領地そのものが疲弊しているように見えます」
ヴァイスは何も言わなかった。
ただ、先ほどまでの軽い表情が消え、窓の外を見つめる目が鋭くなる。
私も同じだった。
帳簿の数字だけを追っていた時には、これは単なる横領事件だと思っていた。けれど、実際に現地を見れば見るほど、別の疑問が浮かんでくる。
誰かが税を抜いている。
そのせいで公爵家の収入が減っている。
それだけではない。
もしかすると、その裏で本来領民のために使われるはずだった金まで、別の場所へ流されているのではないか。
もしそうなら――。
被害を受けているのは、公爵家だけではない。
ここで暮らす人々そのものだ。
やがて馬車は、今回の調査対象の一つである小さな村へ到着した。私たちは目立たないように馬車を降り、村長の家へ向かう。
訪問を告げてしばらくすると、初老の男が慌てた様子で姿を現した。
「これは……リーシェ様。まさか、このような場所までお越しになるとは……」
深々と頭を下げる。言葉だけを聞けば、実に丁寧な対応だった。けれど......
私は、その男の視線が一瞬だけ私の背後へ向いたのを見逃さなかった。
人数を確認している、私の護衛の数、そして、同行している人間......
まるで、誰が来たのかを確認することそのものを恐れているようだった。
「突然の訪問で申し訳ありません。少し領地の様子を見て回りたくて伺いました」
「滅相もございません。当主様自ら足を運んでくださるとは、我々にとってこれ以上ない喜びでございます」
「そう言っていただけると助かります」
私は微笑んだ。
「では、いくつか確認させていただいても?」
「もちろんでございます。私に答えられることであれば、何なりと――」
「今年の収穫量についてですが」
その瞬間。
村長の表情が、ほんのわずかに強張った。
「……今年の収穫量、でございますか?」
「ええ。帳簿では前年より少ないと報告されていますね」
「はい。天候の影響もありまして、今年は少々厳しい年となりました」
答えが早い。
まるで、その回答を何度も練習してきたかのようだった。私は何も言わずに帳簿を取り出し、机の上へ置いた。
「それでは、この記録について教えてください」
「……これは?」
「商会の仕入れ記録です」
村長の目が動く。
「こちらによれば、今年この村から出荷された穀物は、前年より増えています」
「…………」
「それだけではありません。公爵家へ提出された収穫量は減っているにもかかわらず、村の倉庫にはかなりの量の穀物が残っていました」
私は帳簿を開いたまま、静かに村長を見つめる。
「収穫量は減った。けれど、出荷量は増えた。そして、倉庫にも余剰がある。――村長、この三つを同時に成立させるには、どこかの数字を偽る必要があると思いませんか?」
沈黙。
村長は答えない。
私は急かさず、その顔を見つめ続けた。
こういう時、余計な言葉を重ねる必要はない。
相手が言葉を探している時間こそ、こちらにとっては一番重要なのだから。
やがて、村長の額に汗が浮かんだ。
「……お帰りください」
「それは、どういう意味でしょう?」
「どうか……今すぐ王都へお戻りください」
声が震えている。
私は、そこで初めて確信した。
この男は何かを知っている。
そして、それを話すことを心の底から恐れている。
「私が何かを尋ねることが、そんなに恐ろしいことですか?」
「恐ろしいのではありません」
村長は唇を震わせた。
「……恐ろしいのは、私が話した後に何が起きるかです」
胸の奥が冷たくなる。その村長の言葉で私は一つのある確信に至った。
「......誰かに脅されているのですね?」




