渡し守の物語
もう一度聴衆を眺め渡してから、鍵盤奏者は楽器の前に座りました。
明るい小品が何曲か演奏された後、女性歌手が再び姿を現しました。
2人の音楽家は互いに目を合わせて呼吸を揃えます。
鍵盤楽器から涼しげな響きが流れてきました。
歌手は音楽に合わせて数度体を揺らしてから、明るい声で歌います。
その歌は物語形式の長いものでした。
舞台は青く美しい河、主人公は渡し守の男でした。
渡し守は数日に一度、マーシャという名の娘を乗せます。彼はマーシャに恋をしていました。
けれどもマーシャには既に恋人がいます。マーシャは渡し守の思いも知らず、恋人を訪れるために彼の舟を利用しているのです。
渡し守はマーシャに恋人がいることも、彼女が向こう岸の恋人の家へ行くことも知っています。渡し守は自分の思いを押し隠して、ほんのひと時、2人きりで水の上にいる時間を慈しみながら櫂をこぐ日々を送ります。
岸へ着くとマーシャは短くお礼を言って野うさぎのように駆けていきます。渡し守はその背中を見送ると、背を向けて河を引き返します。
ある嵐の日、河のそばの小屋の扉を誰かが叩きます。渡し守が開けてみるとそこにはマーシャが立っていました。マーシャは頼みます。向こう岸まで連れて行ってほしいと。
渡し守は茶色くうねる河を見せて断りました。それでもマーシャは聞き入れません。彼女の真剣な黒い瞳に、とうとう渡し守は舟を出す決心をしました。
荒れ狂う河の上、渡し守は必死で櫂を操ります。小さな舟は雨風に弄ばれて今にも転覆してしまいそうです。マーシャは思い詰めた表情で舟の進む先を見つめていました。
もう少しで陸へ着くという時のことです。マーシャは岸に立つ人影を見つけてたまらず立ち上がってしまいました。あっという間に舟はバランスを失い、マーシャは濁った河の中へ倒れ込みます。彼女を迎えにきた恋人の声も風雨にかき消されて届きません。
渡し守が差し伸べた手は彼女に触れることはありませんでした。渡し守はある決心をし、ちらりと後ろを振り返ってマーシャの恋人がその場を離れていないことを確かめました。
渡し守は櫂を捨て、マーシャの恋人が見ている前で、マーシャを飲み込んだ河に飛び込みます。彼女を助けるためではなく、彼女と共に死ぬために。
冷たい水底に沈みながら渡し守は微笑みました。死にゆく間際、口からこぼれる泡の中にマーシャの姿を見たような気がしました。
私は雨に打たれて河岸に取り残されていました。こんなに悲劇的な詩なのに旋律は美しい河の様子を歌った時のままに明るく美しく、それがやるせなさを際立たせていました。
部屋の中の聴衆は拍手をしましたが、それすらも地面といわず水面といわずあらゆるものを打つ雨のように聞こえました。




