#154 慈しみの報酬(後)
誰も知らない、彼女が愛したひとについて。
夜。今川氏真の屋敷の一室に二つの人影があった。
寝床で目を閉じ、規則的な寝息を立てているのが部屋の主、北条結。その様子を見守りながら部屋の隅で片膝を立てているのが、昼に続いて不寝番を請け負っている側付き侍女の百子である。
本来ならば、侍女や使用人の負担を軽減するために輪番が組まれているため、正午から夕刻までを担当する『昼番』から休み無しで『不寝番』を勤める事など有り得ないのだが、百子は自ら進んでその役目を請け負っていた。より正確に言えば、早朝から正午までを担当する『朝番』も勤めており…詰まる所、今日はほぼ丸一日を主のために献上している事になる。
それもこれも、敬愛する主の身の回りの世話をしたい…その一念によるものだ。
(あの歩き巫女…九十九にこびへつらうのは苦行以外の何物でもなかった。今日は奥様に尽くす事が出来て、誠に佳き日であった…。)
静かに感慨に浸っていた百子は、昼間のやり取りをふと思い返した。
“もしもこの先また没落、いいえ大没落したとしても…百さえいれば生きていけるかしらね~…。”
「…奥様。もし奥様さえよろしければ…わたくしと二人で欠落してはくださいませんか?」
百子の発言は、結が熟睡している事を承知の上で発せられたもので、独り言も同然だった。だが、そこには紛れもない本音が込められていた。
「不老の禁術を用いて、わたくしと共に悠久の時を生きてはいただけませんか。いつまでも若く、お美しい姿のままで…日々の暮らしに決して不自由はさせませぬ。日本が乱れようと治まろうと、変わりなく、穏やかな暮らしを…。」
勢力間の境界線をまたいで活動する百子は、日本各地に隠れ家を多数確保している。
その多くは山林の奥深くにあり、余人の目に付く事はまず有り得ない。
「澄んだ水がございます。田も畑も耕します。禽獣は追い払います。病を得る事があれば、わたくしが治します。ですから…。」
百子にとって、結は生きる理由そのものだった。
出会ったきっかけこそ、結の父である氏康の気まぐれだったが…日を追うごとに敬慕の念は強まり、今や尊崇の域に達している。それは結が有能だからでも、名家の生まれだからでもない。ただ生きて、そこにいるだけで意味があるのだ。
だが、結がこのまま乱世の只中を生きる限り、あらゆる危険が彼女を襲う。直接的な暴力は勿論、敵対勢力の陰謀、病気、災害、妊娠出産…。
いっそ二人で俗世を離れ、人里離れた地で暮らす方が彼女のためなのではないか…そう考えた事は一度や二度ではない。
(けれど…。)
百子の想像の中に生きる結は、世間の雑事から解放され、寝食に不自由なく暮らしているというのに物憂げな表情を見せる。そして百子に問い掛けるのだ。
『宗誾殿が亡くなって、幾年経ったかしら?』
『子供達は、幾つになったかしら?』
その場面を思い浮かべる度に、百子は胸が締め付けられるような痛みに襲われる。
極論、俗世がどうなろうと…結さえ生きていてくれればそれで良い、それが百子の行動原理だ。だが結はそうではない。
百子を大事に思ってくれている事は分かっている…だが、結は愛する者、守るべき者が多すぎる。例え永遠に等しい生を得たとしても、いずれ残して来た人々の行く末を憂える余り心を病み…正真正銘の化生に成り果ててしまうだろう。
操心術を用いて、結の記憶や思考を書き換える事も考えたが…結の魂のかたちは余人と一線を画していたため、手の施しようがなかった。
(何より…宗誾殿やお子様達と戯れておいでの時ほど、奥様が美しく見える事は無い…。)
百子は困ったような微笑みを浮かべたまま、小さなため息を吐いた。
(やめよう。やはり…奥様は俗世にて生涯を全うされるべきお方。わたくしはそれを陰からお助けする、それで良い…。)
迷いを振り切るように頭を振ると、百子は再び不寝番の務めに戻り、結の安眠を見守った。
このまま夜明けが来なければいいと、叶わぬ願いを胸に抱きながら。
百ちゃんがいわゆるヤンデレだったら、有無を言わせず結を拉致監禁していたでしょう。
相手の気持ちを思いやれるタイプで、本当に良かったと思います。




