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125 ―最終話―

 ――次は、N、N駅でございます。T線乗り換えのお客様は――

 車内にアナウンスが流れるとアヴリルのようなアイメイクをした女の子と赤いトサカが腰を上げかける。金髪が「ちょっと待て」と言うように携帯電話を持たないほうの手を延ばした。

「ヒロシのヤツ、Uにいるんだってさ。降りねえでこのまま合流しようぜ。テルも一緒なんだって」

「なんだ、そっか」

 座り直した若者たちの前に、乳飲み子を抱いた若いお母さんが乗ってきて立った。

 あれ? どこかで見たような――。

 発車した電車の車両を再び傍若無人と嬌声が満たす。乗客の間には諦観が拡がっていった。

「ここは優先座席よ。あなたたち席を譲ってあげなさい」

 凛とした声が車内に響きわたり、人々の眼が声のするほうに向かう。僕のいたところからは斜め後方になるそちらを指差し、愛が声を上げた。

「あっ!」

「どうしたんだい?」

「あのおねえさんだ」

 あのって? あっ! 乗客の隙間から見た声の主は、アンカレッジ空港で飛行機の時間を訊ねた女性だった。目を瞠るほどの美しさは忘れようたって忘れられるものではない。

「なんだよ、てめえは」

 赤いトサカがいきり立って勇気ある女性に詰め寄る。小刻みに首を縦に振る動作は威嚇のつもりなのだろうが、どうにも白色レグホンの食事に見えて仕方ない。

「すみません、この子をお願いします。愛、おとなしく座っているんだよ」

 僕は老婦人に愛を託し、混み合う車内を騒動の場に向かって進んだ。僕らしからぬ行動だった。そこへ行ってなにをしようというのか。喧嘩などしたことのない僕だ、柄の悪い若者に殴られそうになって謝るのが関の山だというのに。

 いま、行動を起こさないと生涯、後悔する――。僕を駆り立てたのはそんな衝動だった。

「あのう……」

 なんとも情けない台詞が口を突いて出る。

「なんだよ、てめえは」

 同じ台詞を繰り返す赤いトサカの語彙の乏しさに、僕の口元は思わず綻んでしまった。

「なにがおかしんだよ」

 金髪の、近くで見るとまばらなヒゲを伸ばした若者が立ち上がり、僕の胸倉を掴んで凶相を近づけてくる。彼が赤ら顔だったせいで僕はサツマイモを連想してしまった。

〔お仕置ターイム〕

 頭の中で声がする。続いてバチバチっと音がして金髪との間に凄い静電気が走った。

「てめえ、なにしやがった!」

 金髪は手をさすりながら居丈高に叫ぶ。僕はなにもしてない。静電気が走っただけじゃないか、そう答える代わりに肩をすくめた。

「なに、好き勝手言わせてんのさ。そんな女に」

 アヴリルが赤いトサカをけしかける。

 好き勝手やってるのは君たちじゃないか、ねえ。と、同意と応援を求める僕から乗客の誰もが目を逸らしていった。

「ちょっとばかし美人だからって調子に乗ってんじゃねえぞ」

 調子に乗ってるのは君たちじゃないか。それにその女性の美貌は『ちょっとばかし』じゃないぞ、ねえ。

 今度も乗客の応援は得られなかった。勇気ある女性に手を伸ばしかけた赤いトサカを止めにはいろうとする僕の肩を金髪が掴んで向き直らせる。

〔一度で懲りろよ、今度は手加減なしだぞ〕

 再び頭の中で声が聞こえた途端、金髪は目に見えない力に突き飛ばされたように後ろにふっ飛ぶ。ステンレス製のバーに後頭部をしたたかぶつけたそいつは、そのままズルズルと床に身体を沈めていった。

 どうなってるんだ? 戸惑いながらも進行中の緊張に目を戻した僕は信じられない光景を目撃していた。

 勇気ある女性に手を掴まれた赤いトサカが泡をふいて床に横たわっており、アヴリルはブルブルと打ち震えている。そして彼女のもう一方の手には……

 ――次はT、T駅でございます。

 車内アナウンスが流れると、勇気ある女性は僕の手を取って言った。

「行きましょう」

 ドアが開いて駆け出す僕たちの背中に乗客からの拍手が贈られる。勇気ある女性のもう片方の手は愛がしっかと握っていた。愛はとびきりの笑顔で女性を見上げて言った。

「ママ、おかえりー」

 ママだって? その言葉が引き金になり、繋がれた女性の手から僕に流れ込んでくるものがあった。すべてが鮮明に蘇り、僕は足を止めた。

「なにか忘れものかい?」

 勇気ある女性、いや、知世は軽く目を閉じ「ええ」と頷く。

「ショーツはなかったよ」

 知世は首を横に振った。

「忘れものはもうみつけたわ。いまはこの両手の中にある」

 フォレスト・ガンプの母は言った。「人生はチョコレートの箱のようなもの、開けてみるまでなにがはいっているかわからない」と。シュレーディンガーの猫をご存知だったのだろうか? だとしたら凄い女性だったに違いない。それを踏まえた上で、科学界を量子論が席巻するこの時代に、僕はこう言い換えよう。

 人生は複素数みたいなもの。曖昧な知覚が僕たちに存在を示すものはすべて虚数で、それを形あるものにするためには『愛』という実数が必要なのだ、と。

 春風にたなびく桜の枝からひとひらの花弁が飛翔する。それは静かに知世の肩に舞い降りてきた。


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