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「申しわけありません。ああでも言わないとあなたは車に乗らない、そう考えての嘘でした。工藤教授の指示は『なんとしても神内さんを連れて戻れ』でしたから――。お嬢さんが無事でなによりでした」
確かに車は限界だった。あそこで引き返してなければ、誰ひとりとして生きては帰れなかっただろう。デレクたちを見殺しにしたと責めるのは酷と言うものだ。僕は質問を変えた。
「M駅でぶつかってきたチンピラ風の男は戸崎さんだったんですね? あの時、僕のパスケースをスリ取ったんだ」
いま、思い出した。埠頭倉庫の一件の後も、僕は定期券を使っていたのだ。
「その節は失礼を。他に神内さんに接触するいい理由が思いつかなかったものですから」
戸崎調査官はひとつ咳払いをして答えた。あの時のように『意識操作をされたのでなければ』の条件はつくが、彼との間に奇妙な信頼感が生まれていたように思う。騙されたことを知っても特に腹も立たなかった。
「さっきは、なぜあんな助言をしてくれたんですか?」
「プロジェクトの中止で暇を持て余した教授の好奇心が、神内さんの不思議な能力の解明に向かわないようにです」
「僕の頭なんか開いたところでなにも見つかりませんよ、あれは――」
必死の抗弁を試みる僕に、戸崎調査官は口元を緩めた。
「冗談です。先ほど、神内さんに触れた時、あなたが〝意思〟の媒質だったことを知りました。本当に存在するのですね、ああいうものが。監視しているつもりが監視されていたとは――。驚きました、ユウェナリスの懸念――番人の監視は誰がするのか――は杞憂だった訳だ」
「その存在を知ったいま、それでも戸崎さんは教授に従いますか?」
「第一世代の我々にとってMER―αは父親なら、工藤教授は母親なのです。彼への反発はわたしたちの遺伝子から削除されています」そう答えた戸崎調査官の眼はどこか悲しげだった。「MER―αが決定し、工藤教授が実行しようとするプランが、現時点で考え得る最良の策だとは思われませんか?」
常人と懸け離れた能力を持ち、ましてや、あのデイヴィッドをリーダーとする一団を放置しておいて、この社会と摩擦が起きないはずはない。教授の提唱する収拾案には納得せざるを得なかった。
だけど……。考えに沈む僕の無言は肯定ととられた。戸崎調査官が続ける。
「そのためには神内さんの協力が必要なのです」
「僕に? 僕に大したことはできませんよ」
「簡単なお願いです。今回の一件、先ほど教授が話されたことを含め、一切合財を神内さんの胸のうちに仕舞っておいてはもらえばいいんです。我々が第二世代の回収に当たると同時に、MER―αは記録の改竄に着手します。ご存知でしょうが文書やひとの記憶は個別に削除していくしかありません。それができる者はごく少数なため、現在、把握している以上に情報が広がるのは困るのです」
沈黙の要求か――。僕は考えた。単に口封じが目的だったのなら、戸崎調査官を炎に包まれた森には寄越さなければいい。その意味では彼らに借りもあり、告発してやろうにも、こんな奇想天外な話をどこに持ち込めばいいやら見当もつかない。狂人扱いされるのが関の山だろう。
「わかりました、誰にも話しません」
「ありがとうございます。これで安心しました」
戸崎調査官は協定成立の握手を求めてくる。僕はその手を強く握り返した。
――わたしに連絡をとり、あなたとお嬢さんの救出を依願してきたのは知世さんです。教授の思惑は『できることなら全員、焼け死んでくれればよかった』でした。
戸崎調査官は、ジャケットの襟を開いてインターコムの存在を示す。僕は、喉元まで出かかっていた「えっ? でも、さっきは――」を呑み込んだ。




