116
「では、なぜ知世たちが……」
「印南と戸崎を知らなかったことかな? この三名には、ある役割を担わせる予定で、人類救済プロジェクトの実行部隊となる第二世代から隔離していたのだよ」
「ROHの監視ですか……」
「そういうことだ。実は、MER―αが送ってきた胚盤胞には外見と性別以外、すべて同じ遺伝気質が発現するようコーディネイトされていた。だが、ミトコンドリアDNAの残骸に阻害されたのか、そうはならなかった」
「ミトコンドリアDNAの残骸って――。それはクローンを創る手法じゃないですか」
僕の指摘に教授は不愉快そうに身体を揺すった。
「違うな。除核した卵子に注入した細胞は既に遺伝子操作がなされていてオリジナルは存在しない。従ってクローンとは言えない」
生命の創造を画策した時点で両者に明確な境界などなくなる――2ちゃんねるの言ったことが蘇っていた。
〔つまり、こういうことだ。このおっさんたちの世界で倫理規定をまもろうといった認識が一致するのは、建前であり他者への牽制でしかない。チャンスと学術的裏付けさえあれば、そんな垣根など簡単に乗り越えてしまう。考えてもみろ、遺伝子治療だってウィルスベクターを使うものから遺伝子そのものを書き換える段階にはいってきている、動物の臓器の人体移植にも成功例がある。羊のドリーは有名だが、ポリーは知っているか? ヒトの遺伝子を組み込んだクローンヒツジだ。それは血友病の治療のためという名目で行われている〕
2ちゃんねるが長広舌を終え、僕は教授に訊ねた。
「なぜ第二世代に監視が必要だと思われたのですか?」
「うむ。結果を受けたMER―αは、改良の手を加えた胚盤胞を送ってきた。大幅に改善されたそれは、遺伝気質の発現を限定してあった。性別、外見、不食、不眠などだ。特化した能力はひとつに抑え、発現を確実にしようとしたのだよ。試みは大成功だったが、その代償に、従順さが失われた個体も生まれた」
「あなたは、その時点で計画が破綻していたとは思われなかったのですか。初期条件が僅かでも異なれば、結果は非線形を描く――科学者であるあなたならおわかりになってたはずです」
「そうは思わんね、MER―αは両者を一度に解決するプランを持っていたのだよ。通信機能付きのチップを第二世代の脳に埋め込むことで、情報を共有させ能力の均衡化が図り、そこに脂溶性の有害化学物質を蓄えておくことで、反社会性人格障害者の脳波を示した個体を電気信号ひとつで機能停止に至らしめることができる」
「わたしには」僕は言った。「MER―αは根本的な間違いを犯していたように思えます。物質文明に滅ぼされる人類を物質文明の力を借りて救おう、とんだパラドクスじゃないですか。性急に事を進めれば――」
「待ちたまえ。君は、進化を待つことが性急だと言うのかね」
僕が言い終えるのを待たずに教授が口を挟んだ。
「現在の過ちを正そうともせず、進化に期待するという決定が性急だと言うのです」
今回は僕を救ってくれた〝意思〟も、人類――いや、地球が宇宙の存続にとって害悪だと見倣せば躊躇なく抹殺を図るだろうことを僕は知らされている。、そうなれば、ちっぽけな我々に対抗手段などない。聖書に記述はなくとも己が分を知りて、七つの大罪を極力遠ざけて暮らすことが肝要であるとの教えは、遠い昔、誰かが〝意思〟と接触を持ったことのある証だと僕は考えていた。
工藤教授はたっぷり十秒は僕を無言で見つめ、やがて言った。
「いずれにせよ、このプロジェクトは失敗だったとMER―αは判断した。厳重に保管してあったファイルも、バックアップごときれいさっぱり消失していたよ。わたしはお払い箱だ。いい夢を見させてもらった」
研究所を突き止めて落雷を誘導してやろう。ホキイの無念を晴らしてやるんだ。そう考えていた僕には拍子抜けの感さえある工藤教授の言葉だった。




