第4話 洗礼式
1週間後。洗礼式の当日だ。
ぐっすりと眠っていたアルデアは壁掛け時計の鐘の音で目を覚ました。
「んー?もう朝……?」
寝起きの良さには自信がある。
なのに今日は、異様な眠気がまとわりついていた。
ぼんやりとした頭で昨日のことを思い出す。
昨日は近所の住民たちと式で使う花飾り用の花を摘んだり、教会で供物を載せる祭壇の準備や、参加者に振る舞う料理の下ごしらえの手伝いなどをしていた。
準備にはメルとその父親、さては日頃よく遊ぶ子供たちも来ていた。
皆で話をしながら教会の中を色とりどりの花で飾り付けて、全ての準備が完了して帰路に着くとき、メルは「また明日の朝にね」と……。
「寝坊した!!!」
現実に頭が追いついたアルデアはハッと目を開ける。
そのままベッドから身を起こそうとするが、体は鉛のように重く思うように動かすことが出来ない。
寝そべったまま壁掛け時計を見上げると、針は既に昼を指していた。
「嘘でしょ……?どうしよう。お母さん!お母さん!」
身体を芋虫のようによじってやっとベッドから降りた彼女は、壁につかまりながらよろよろと立ち上がる。
部屋の真ん中にあるテーブルには昨日ルーナが運んできたホットミルクのカップと、今日のために畳んでおいた白いワンピース、そして白い封筒が置いてあった。
「何これ?」
封筒を手に取るとその下には見慣れた道具入れがある。
ルーナがいつも使っているものだ。
封筒に入っていた便箋には、ルーナの殴り書いたような筆跡があった。
『アルデア、ごめんなさい。こんな形でしか伝えられないなんて。お願い、教会には行かないで。あなたが無事ならそれでいいの。大切なものをあなたにあげる。お母さんも、おばあちゃんも、あなたをずっと愛してる。』
よほど急いで書いたのだろうか。筆跡はところどころかすれて、滲んでいる。
この短い手紙の内容が、まだ少し頭がボーッとしているアルデアには理解できなかった。
どうして教会へ行ってはいけないのか、母と祖母の身に何かあったのか、考えても考えても分からなかった。
アルデアは便箋と道具入れを持ったまま壁伝いに階段を下り、家の中を歩き回る。
「お母さん!おばあちゃん!どこにいるの!?」
しかし彼女がどれだけ呼びかけても返事はなかった。
返事どころか、家の中は、水を打ったように静まり返っていた。
いよいよ不安に駆られたアルデアは寝間着のまま裸足で家を飛び出す。
9歳の自分が、どこに行けばいいのかなんて、分かるはずもなかった。
雨が降り出しそうな湿った風が彼女の寝間着の裾を弄ぶ。
何が何だか分からない。ただ、とても良くないことが起きている。そんな確信めいた予感がアルデアの頭を支配していた。
「お母さん……おばあちゃん……!」
気付いた時には教会に向かって走りだしていた。
ただでさえ重い体を無理に動かしているので、焦る気持ちとは裏腹になかなか前に進んでいる気がしない。まるで泥の中を走っている気分だった。
足がもつれて転ぶ。
アルデアはよろよろと立ち上がると、地面に落ちた道具入れと手紙を寝間着の中にしまい込み、リンゴ畑に囲まれた一本道を必死に走った。
リンゴ畑の向こう側に教会の屋根が見え、屋根から周りの木々の間に張られたロープにぶら下がった木製の風鈴が出すコロンコロンという音が聞こえてくる。
大きな扉の前にたどり着いた時、強い疲労感に襲われたアルデアはその場にしゃがみ込みたい衝動に駆られた。
しかし、とにかくルーナとスピカのところに行かなくてはという一心で重い扉を力いっぱい押し開け、中へと体を滑らせた。
薄暗い廊下を通り過ぎて礼拝堂の前にきたアルデアは、思わずその場に立ち尽くした。
見慣れた扉である。これを開ければ昨日皆で飾り付けをした礼拝堂だ。
きっと洗礼式はもう終わってしまっていて、今頃は皆で食事会をしているはず……なの、だが、何と言い表せない違和感があった。
住民たちが集まっているはずの礼拝堂から全く音がしない。
赤ん坊の泣き声どころか、人が話す声も、カトラリーの当たる音すらしない。
あまりにも人の気配がないのだ。違和感が膝をくすぐり、よどんだ空気がビリビリと肌を刺す。
アルデアは一瞬逡巡するが、ドアノブに手を伸ばして礼拝堂の入り口を開ける。
「あれ……?」
正面奥には、村の守り神とされる白鳥のステンドグラスがあり、祭壇を穏やかに照らしていたはずだ。
しかし、ステンドグラスどころか中の様子が全く見えない。
彼女が立っている入り口から数十センチほどの範囲が淡く照らされているだけだった。
ステンドグラスの下には祭壇があり、祭壇から出入口に向かって白いクロスのかかった大きなテーブルが設えられている。
これも昨日住民同士で協力して用意したもので、祭壇やテーブルの上にはアルデアと村の子供たちで活けた花や供物のリンゴが飾られているはずだ。
「だ、誰か……いませんか?」
アルデアは恐る恐る中に足を踏み入れる。
むっと重たい空気が体にまとわりついてくるような心持がして不快だった。
「お母さん、おばあちゃん……?」
返答はない。
暗闇と静寂の中、嫌な臭いが漂っていた。
けれど、それが何なのかは分からない。
「メル、ラナおばさん……?」
手探りでテーブルにつかまりながら奥に向かって歩みを進める。
「何をしてる」
無機質な低い声がした。
アルデアがびくりと振り返ると、礼拝堂の出入り口に黒い影があった。
「だ、誰ですか!?」
影というのは比喩ではない。
それは、闇そのものが人の形を真似たかのようだった。漆黒の闇がモヤモヤと揺らめき、まるで生き物のように形を変える。
その不気味な存在感に気圧され、彼女の頬に冷や汗が伝う。
「……君、名前は?」
どこが目かも分からないがそれはまっすぐ自分のことを見ている気がした。
アルデアはそれを直視することが出来ず、服の裾をギュッと握りしめた。
「えっと、あの……。」
「名前は?」
影は彼女の言葉尻を奪い取る。
「な、名前……私のですか?」
「名前は?」
「アルデア……です」
「アルデア」
影が炎のように揺らめいた。
「アルデアに聞きたいことがある」
「な、何でしょうか……。」
目を逸らしたまま答える。彼女にそうさせているのは恐怖だけではない。
心と体がそちらを向くのを全力で拒絶しているのだ。
「あれはどこだ?」
「あれ……?って、何ですか……?」
「君のところにあるはずなんだ。2人は教えてくれなかった」
「2人……?」
「ルーナ・ヘロディアス、スピカ・ウィルゴー」
聞きなれた名前にアルデアは弾かれたように顔を上げた。
「2人に会ったんですか?」
「あとは君だけなんだ」
会話が噛み合っているようで全く噛み合わない。
返答に困ったアルデアは自分の靴先を見つめて次の言葉を探すが、頭の中は真っ白で何も浮かんで来はしなかった。
「アルデア、あれはどこにあるんだ?」
それはなおも問いかける。
「ごめんなさい。分かりません……。」
「正直に答えて」
「キャッ!」
一瞬だった。数メートルは離れていたはずのそれの声が真横で聞こえた。
突然のことに腰を抜かしたアルデアは祭壇にぶつかり、供物として積まれていたリンゴがゴロゴロと転がり落ちる。
「分からないわけないんだ」
暗闇に溶け込んで姿が見えない。だがそれはアルデアの顔に触れそうなほど近くに来ていると分かった。
相変わらず自分をじっと見つめている視線を感じる。
アルデアは必死にそれから距離を置こうとするが、体は言うことを聞かず、無駄に足をバタつかせることしか出来なかった。
「し、知らない……。本当に知らないんです!」
瞬間、アルデアの体に衝撃が走り、何が起きたか理解しないまま彼女は床に倒れ込んでいた。
どうやら彼女は壁に叩きつけられたらしかった。
視界がパチパチと爆ぜ、うつ伏せになった顔に生暖かい液体が伝う。
「俺は覗きができない。死ぬ前に答えてくれ」
他人事のようにそれが言う。しかしその言葉はアルデアの耳には届かなかった。
先ほど壁に叩きつけられた衝撃で窓を覆う何かが一部剥がれ、わずかな隙間から射す光が礼拝堂の中の光景をぼんやりと照らし出している。
天井や壁が黒いカビのようなもので覆われ、ところどころに細長く大きな塊があった。
繭のような塊の中からは人の顔が覗いていて、その中に自警団長――メルの父親の顔もあった。皆一様に青白く、生きているのかいないのか分からないほどぐったりとした様子である。
床に落ちた細い光の中に、きらりと何か光るのが見えた。
力なく投げ出された手、左手だろうか。
人差し指に嵌められた白鳥のループリングが光を反射している。
きれいな銀色だったそれは赤黒く汚れていたが、毎日見ていたアルデアにはすぐ分かった。
手の横には、レースで覆われた持ち手の杖が無惨にも真っ二つになって転がっている。
そのすぐそばに、赤いワンピースを着た……「誰か」が倒れている。
受け入れがたい現実に視界が揺れた。
体は冷え切っているのに、全身の毛穴という毛穴から火が噴き出るようなちぐはぐな感覚が彼女を襲う。
何が起こったのか、
どうしてこんなことになったのか、
そんなことが頭の中をぐるぐると回っていた。
「なんで……?おかあ、さん……?」
喉の奥から絞り出した声はほとんど聞こえないほどか細い。
アルデアは冷え切った体を引きずって二人の下へ行こうとした。
「どいつもこいつも愚かだ」
それはアルデアを素早く捕えると、勢いよく床にたたきつけた。
受け身もとれず頭や背中をしたたかに打ち付けたアルデアの呼吸は一瞬止まり、こみ上げてくるものを床にぶちまけて激しくせき込む。
「二人とも最後まで君のことを言わなかった。こっちは全部分かっているというのに」
無機質で抑揚のない声と裏腹に激しい雨のような暴力が降り注ぐ。
アルデアは小さな体を縮こまらせて苦痛に耐えることしかできなかった。
「命がけで俺から逃したつもりだったんだろうに。君がここに来てしまったせいで二人の死が無駄になってしまった」
口の中に広がる鉄の味が、絶望をより濃くした。
彼女の朦朧とした頭の中にそれの声が何度も何度も反響する。
「最後までくだらない人生だったね」
手足の力が抜けていく。
アルデアが思い出していたのはルーナ、スピカと三人で過ごした平和な日々のことだ。
服や鞄、テーブルクロスにカーテン、それぞれの得意分野を活かしてたくさんのものを作った。
デザインについてああでもないこうでもないと議論した。
喧嘩になることもあったけれど、三人で食卓を囲めばあっという間に仲直り。
特別なことはなにもない幸せな日常だった。
厳しくも優しく、職人としての全てを教えてくれた二人のことをアルデアは心から尊敬していた。
「そんなこと、言わないで……」
だからこそ、侮辱されるのは耐えがたかった。
「あまり時間がないんだ。アルデア、あれのありかを言え。これが最後のチャンスだ」
「本当に、知らないってば……」
「往生際が悪いな」
涙で視界が歪む。喉が焼けるように痛い。それでもアルデアは叫んだ。
「知ってても……あなたなんかに教えないんだから!!」
ささやかな抵抗だ。アルデアの言葉を聞いたそれは「そうか」と言い、身にまとった影を炎のようにたなびかせる。
人型のシルエットから生えた足は節くれ立ち、硬質な音を立てながら床を這い、全身を覆う影はどす黒く濁っていた。
「素直に答えれば家族と同じところに行かせるつもりだったが、やめだ。お前は今ここで食う」
影が自分を飲み込もうと迫ってくるのがスローモーションのように見える。
頭の中で何かが囁いた。声にならない誰かの声が「呼んで」と言っている気がした。喉の奥から勝手に言葉がせりあがる――
「スピンドラ!」
何故そうしたかは分からなかった。
ただ、そうしなければならないと
本能が
告げていた。
アルデアの叫びに答えるように不思議な音が響き渡る。
彼女が音の方へ視線を向けると、ルーナの胸元で微かな緑色の光が揺れているのが見えた。
痛みをこらえてルーナの下へ這い寄った彼女が震える手でペンダントを引っ張り出した刹那、宝石が、まるで意志を持っているかのように、燦爛と彼女の目の前に浮かび上がった。
前に見た時とは比べ物にならないほど強烈な光を目の当たりにした彼女の目に焼けるような痛みが走る。
「それをよこせ!」
低い叫び声が響くと同時に周りの景色は急激に遠ざかり、アルデアの意識は再びあの水の中に引き込まれる。
何の音も聞こえない静かな水中、彼女の眼前には緑の少女がいた。
少女は痛々しい面持ちでアルデアを見つめ、彼女に向けて手を伸ばしてきた。
アルデアはまるでそうしろと言われてでもいるかのように、その手に触れた。




