第3話 しあわせの輪郭
ブティックシネレアの店先。ルーナはショーウィンドウのカーテンを閉めた店内で掃除をしていた。
ウォールナットの棚に並んだ刺繍のドレスをきれいに畳みなおし、小さな箒で床のほこりを掃き清める。
規則正しい振り子時計の音と、スピカがキッチンで料理をしている音が聞こえてくる。とても静かで穏やかな時間であった。
嗅ぎなれた木の香りを胸いっぱいに吸い込み、ルーナは「今日もいい一日だった」と幸せを噛みしめていた。
しかしその平穏は、次の瞬間に吹き飛ばされた。
「お母さん!聞いて!私見たの!」
勢いよくドアが開き、飛び込んできたのはアルデアである。
頬を興奮で紅潮させている姿を見たルーナは、驚きで止まりそうな心臓をおさえながら倒してしまった箒を拾い上げた。
「お帰り。帰るなりどうしたの?そんなに興奮して」
「見たの!見たの!すっごいの!」
「何を見たってぇ?」
アルデアの声を聞きつけたスピカがキッチンからゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「おばあちゃん!ただいま!あのね!私ね……!」
興奮のあまりむせ込んでしまった娘を呆れたように見ながら、ルーナは小さな背中をトントンと叩いてやる。
「そんなに急いで話さなくても私たちは逃げないわ。落ち着いて話しなさい」
「よっぽどいいことでもあったのがね?」
アルデアは抱えていた紙袋を傍らのテーブルに置くと、深呼吸をひとつして呼吸を落ち着けた。
「あのね、帰り道で見たの!ウィザードさんが空飛んでたの!」
一瞬、時が止まったように静寂が訪れる。
スピカはぽかんと口を開け、ルーナの顔は固く強張っていた。
「夕日が眩しくて顔は見えなかったんだけど、キラキラでね!あ、なんかおっきくて!かっこよかった!本当にいるんだね……!私見るの初めてで……」
アルデアは先ほど見た3人の人物について必死に説明しようとした。
夕日を反射してキラキラと輝く宝石のような箒や、鷲のような羽と大きな足を持つ大きな動物……そして……。
「やっぱり制服は特別な生地で作ってあるのかなぁ。戦ったりもするっていうし、丈夫な糸を使ってるんだろうなぁ。もっと近くで見てみたかったなぁ~!」
ブティックシネレアは、村でも有名な仕立て屋だ。
遠くの街からも注文が来るほどの腕前を持つ母と祖母に囲まれて、アルデアの服に対する興味は自然と強くなった。
「魔法機関の縫製部で働けたら、毎日上等な生地で制服を仕立てられるのかなぁ。夢みたいだよね~!」
ほくほくした顔で話したアルデアは、「そう思わない?」とルーナに問いかける。
しかし、予想とは違ってルーナはこわばった顔をしており、その顔面は青ざめていた。指輪をはめた左手をギュッと握りしめ、何か思いつめたような表情であった。
スピカはそんなルーナの背に優しく手を置くと、アルデアに向かって微笑んで言った。
「そうだねえ。しっかし、あの方々がこんなところに来るなんてねぇ。何かの任務だったのかな?例えば……」
スピカは首をかしげるアルデアをがっしりと抱きかかえ、その脇をものすごい勢いでくすぐった。
「こうやってめんこい子供を笑わせるとか!」
「ちょっとおばあちゃん!やめて、やめてよぉ!」
たまらず大笑いするアルデア。
戯れる2人を見て少しだけ表情の和らいだルーナは、無理やり笑顔を作ってその輪に加わった。
「そうね!きっとそうだわ!」
2人に捕まったアルデアはその後しばらくくすぐられ続け、メルが言っていた巨大な蜘蛛のことなどすっかり忘れてしまっていた。
「あ、そうだそうだ。2人に見せきゃならないものがあるんだった」
ひとしきりアルデアをくすぐり倒したスピカが顔を上げ、2人を作業部屋へと誘う。
「これね、よーうやく完成したんだよ」
「わぁ!すごーい!」
作業台に乗っていたのは、3人分の白い服であった。
ウェスト切り替えのシンプルなドレス。襟元とスカートの裾にはタティングレースのブレードがあしらわれ、ブレードを引き立てるようにガラスビーズの刺繍が施されている。
正に『繊細』の一言に尽きる逸品であった。
「きれいねぇ……。この繊細さは私には出せないわ」
「んだべ?年季が違うからさ。これに名前をつけるんなら、んだねぇ……リリーヴァってとこかな。清廉な乙女にぴったりだ」
ドレスに見とれる2人にスピカはいたずらっぽく笑って見せる。
「アルデア、ちょっと来てみてけね?細かいとこ調整さねば」
「え!いいの……?」
アルデアはスピカに手渡されたドレスに恐る恐るそでを通し、ルーナが背中のファスナーを引き上げる。
姿見に映る自分は、まるで別人のようだった。
妖精か、異国の姫か――まるで物語の世界から抜け出してきたようである。
「おばあちゃん……私このドレス一生大切にする……」
「何言ってんの。あんたの結婚式のドレスだって私は仕立てるんだからね」
スピカはそう言いながら、アルデアの足元にしゃがみこんだ。
針を持った手はいつものように軽やかに動いていたが、その目は伏せられたまま動かない。
その姿勢では足に負担がかかってしまいやしないか――そう思って声をかけようとしたルーナは、ふとスピカの横顔を見てはっとしたように目をそらした。
やがて調整を終えたスピカはいつも通りの笑顔で顔を上げると、ルーナに向かってテーブルを指した。
「ルーナも着てみな……」
「ちょっと待って!なんか焦げ臭くない!?」
言いかけた言葉はルーナによって遮られる。
キッチンの方を見たスピカはぺろりと舌を覗かせて言った。
「そういえばスープ火にかけたままだった」
「もう!しっかり!アルデア、ドレス脱いでスピカさん立たせてあげて。鍋下ろしてくるから!」
「分かった!」
てんやわんやの夕食を終えた後、湯気がもうもうと立ち込める浴室でアルデアとルーナは湯船に浸かっていた。
ルーナは目の粗い櫛でアルデアの髪をとかし、アルデアは気持ちよさそうに鼻歌を歌っている。天井から湯気の雫がぽたりと落ちたとき、彼女は何かを思い出したように言った。
「今日は嬉しいことばっかりだったよ。ドレスはすっごい喜んでもらえたし、赤ちゃん抱っこさせてもらったし、おばあちゃんのドレスは素敵だし、それに……」
その小さな手がすくい取った湯からハーブの香りが広がる。
「ウィザードさんにも会えた!」
無邪気に笑う彼女を「よかったわね」と穏やかな表情で見つめるルーナ。
アルデアの髪をとかし終えた彼女は櫛を浴槽のふちに置き、髪をまとめあげたタオルを外した。
アルデアはうっとりした表情のまま櫛を持ち、背を向けたルーナの髪を丁寧に梳かし始める。
「私今日が一番幸せかもしれないよ……」
アルデアと同じ色をした長い髪。
背の半分を覆う髪に櫛が通ると、橙の薄明かりに照らされた毛束がつやりと光る。
「そんなこと言わないの。あなたはこれからもっともっと幸せになるんだから」
そう言ったルーナがどんな顔をしているのか、アルデアは見ることが出来ない。
「お母さんは今まででどんな時が一番幸せだった?」
「んー、そうね。幸せな思い出がたくさんあって一番を決めるのは難しいわ」
「例えばどんな?」
「まず、あなたを産んだこと」
ルーナの言葉にアルデアは照れ臭そうに笑う。
「それからやっぱり、あなたのお父さんと結婚したことと、素敵なお友達と出会ったこと。かな」
「お父さんとその友達の話、いつもするよね。私も会ってみたいなぁ」
「今はまだ難しいかもしれないわね。でも……」
湯の中で明かりを反射した指輪がきらりと光を放った。
「きっとまた会えるわ。糸は人と人をつなぐから」
「おばあちゃんみたいなこと言ってる」
クスクスと笑ったアルデアはルーナのとかし終えた髪を持ち上げる。
すると髪で隠れていた背中が露わになり、うなじの真下にある不思議な形をした痣が現れた。
だがアルデアにとってそれは見慣れたもので、彼女は特に気に留めることもなく濡れた髪をタオルでくるりとまとめあげる。
「そういえば洗礼式、もう来週ね」
ルーナはアルデアの方に向き直り、ゆったりと浴槽の壁に背を預けた。
「だね。ラナおばさん、あのドレスを洗礼式に着せるって言ってたから私まで緊張してきちゃった……」
洗礼式は、赤ん坊の泣き声と村の実りを神に捧げる儀式である。
赤ん坊が一生食べ物に困らぬように――そう願う、古くからの祈りのかたちだ。
「素敵なことじゃない。アルデアにとっても仕事をお披露目するいい機会だわ」
「でも、本当にあれで大丈夫かなぁ……」
不安げなアルデアの顔を見たルーナは、もじもじと指をいじる彼女をまっすぐ見つめる。
「自信を持つの。あなたにはお母さんもおばあちゃんも教えられることは全力で教えたわ。あれだけの仕事ができたら職人として十分生きていける。この店も一人でだって切り盛りしていけるわ」
「もう、気が早いよ。私まだ9歳だよ?」
「そうだけど!気持ちの話よ!」
ルーナはアルデアの肩をがっしりと掴んで言い聞かせる。
「アルデア、あなたは立派な職人よ。自分の手で誰かの笑顔を作れる人。だからね――この先どんなことがあっても、自分を信じて。あなたには、糸みたいにしなやかで優しい力があるのよ」
「う、うん……分かったよ……」
肩を掴む手が微かに震える。彼女のいつになく真剣な様子にアルデアはそれしか言えなかった。




