第12話 抱きしめたい
「それじゃあ、今日も始めていくわね」
カモミールが香る。カウチソファに体を預けたアルデアは、いつもの狭い部屋の天井を見つめて「はい」と返事をした。
「ヒプノル」というささやきの後、フロースの瞳が淡く光を放つ。
(いつ見てもきれいだなぁ……。)
最初に催眠療法を受けた時、アルデアは自分の感覚が現実と切り離されていくような怖さを覚えた。目に見えるもの全てが琥珀色の光にうずもれ、自分自身もその中にいる。あたたかい光はアルデアの全てを包んでくれているようで心地よくもあり、どこか知らない夢の中に放り込まれたような孤独をも感じさせた。
フロースの瞳がアルデアの視線をとらえる。あたりが鮮やかな琥珀色へと、落ちる――。
「ゆっくり呼吸して、一緒に数を数えて。1、2、3、4……」
聞き慣れた、柔らかな声に続いて数を数える。
「5、6、7、8……」
数えるごとに、思考がにじんでいく。
「9、10」
目を開けた時、彼女は再び教会の前に立っていた。
少し冷たい風が頬を撫でる。教会の周りに設置された木製の風鈴が、カラ、と寂しく鳴った。
あたりに広がるのは、いつもと何も変わらないリンゴ畑の風景だ。
(ここにいると、気持ちがザワザワする。)
足音がしてそちらを見る。一本道の向こう側から誰かが走ってくる。自分だ。
息を切らした自分が、寝間着の裾を翻してよろよろとこちらへ走ってくる。その顔は青白く、裸足のつま先は土で汚れていた。
(髪、ボサボサだ。)
何が起こっているかも分からず、ただただ不安な気持ちでいっぱいだったことを思い出す。あんな手紙を残して母が一体何をしようとしているのか。どうして自分だけがおいていかれてしまったのか。その答えが教会にあるはず、と、頭の隅で思っていた気がする。
扉の前にたどり着いた自分が教会の中に入ったところで一度映像が途切れる。
次にアルデアが見たのは、真っ暗な礼拝堂の中を歩いている自分の姿だ。はぁはぁと荒い呼吸をしながら、ルーナやスピカの名前を闇に向かって呼びかけている。
(誰も返事をしてくれなくて、不安だったな……。)
しんとした礼拝堂に、裸足の自分が歩みを進めるヒタヒタという音だけが聞こえる。
(お母さんたちも、ラナおばさんも、メルも……。)
「何をしてる」
チリ、と意識がガラスの向こうに引きずり込まれそうになる。しかし、この映像が現実ではないと理解しているアルデアはぐっと踏みとどまり、声の主の方を振り向く。
そこにいるのは全身に影をまとった人のような何かだった。
自分は顔を伏せ、影に向かって必死に言葉を絞り出していた。寝間着の裾をギュッと掴み、緊張しているのが分かる。
(怖いよね……。私も、怖い。)
場面が変わって、床に倒れ込んだ自分の姿が見える。
頭から血を流し、うめき声を上げる自分を影が見下している。
(すごく痛そう……。可哀想。)
心がまたチリ、と音を立てる。
教会の中に日が差し込む。光の中に見えるのは、仰向けに横たわるルーナと、その隣で蹲るように倒れているスピカだ。
2人とも血にまみれ、ひどい怪我をしているのが分かった。
身体の下に広がった血だまりが、2人が着ているリリーヴァを真っ赤に染めている。
(どうして、こんなにひどいことを……するんだろう。)
また、チリと鳴る。
2人の姿を見た自分は体をよじって近づこうとする。しかし、影は自分の体を捕えると床に向かって強く投げつけた。自分は泣きながら頭を抱え、胃の中のものを吐き出している。
(苦しそうだね……。可哀想。)
場面が変わる。
煙のようにゆらいだ影が自分を飲み込もうとしている。
「スピンドラ! 」
自分が叫ぶ。
ルーナの胸元から浮かび上がった宝石を掴んだ自分は、全身が緑色の光に包まれる。
影が何か叫び、まっすぐそちらを振り向いた自分の体から出た何本もの糸が影へと伸びていき――。
「はい。ここで終わりよ」
柔らかい声が聞こえて、目の前の光景が光と共に遠ざかる。
ふと、耳に音が戻ってくる。背中に感じるクッションの柔らかさ、カモミールの香り、カーテン越しの午後の光――。いつもの病室だ。
目に入ったのは、彼女を見つめるフロースの瞳。そして、後ろで咲いている白いピンポンマムの花だ。スピカが好きな花。懐かしい笑顔をぼんやりと思い出す。
「気分はどう? 」
フロースは、いつものように優しい笑顔で問うてくる。
アルデアはかすかに残った痛みを鎮めるように胸に手をやり、一呼吸おいて話し出した。
「……悲しくて……苦しくて……痛くて…………可哀想な、気持ち、です……」
心の底の本当の気持ちに限って、口からスラスラと出てきてはくれない。
鉛を吐き出すような心持ちで言ったアルデアに、フロースは静かに答える。
「……そっか。辛い気持ちがたくさん浮かんできたのね」
「はい……」
「もしあの時の自分に声をかけてあげられるとしたら、何て言ってあげたい? 」
アルデアはしばし考えこみ、病院着の裾をギュッと掴んで言った。
「泣いてもいいよって……言って、ぎゅーってしてあげたいです。……一人じゃないって、伝えてあげたい」
――
アルデアが病室に戻った後、フロースはラルスのいる詰め所の扉を開けた。
「お疲れ。セッションどうだった? 」
机に向かって試験管を見つめるラルスは、振り向きもせずに問う。
「すごくいい感じですね。あの子はちゃんと、傷ついた自分自身を受け入れてあげることが出来てますよ。きっとこれからも大丈夫」
――
病室。フロースとの催眠療法を終えたアルデアのもとに、アズキが訪れる。
「アズキさん! こんにちは! 」
「こんにちは。元気そうで何より」
アズキは、バスケットから円盤状の風船のようなものを取り出して床に置く。
「今日はこの上に乗ってバランスの訓練をします。立てますか? 」
ベッドから降りたアルデアは、数日前よりも数倍自然に立てるようになっていた。
アズキはアルデアに円盤の上に乗るよう促し、片手を自らの肩につかまらせる。そして左足で片足立ちをするように指示した。
「わ、グラグラします」
「姿勢が安定したら手を離してみてください。そう、いい感じです」
相変わらず淡々としている。2人はしばらく片足立ちの訓練をしたのち、今度はまたベッドに腰掛けて足首のマッサージを行う。
「アズキさんの手って、あったかいですよね」
「特にそう感じたことはありませんが」
「私、アズキさんの手、好きです」
「……それは光栄です」
視線を逸らしたアズキがポツリと言う。冷えたつま先がゆっくりと揉みほぐされ、心地よい感覚に、あくびが漏れる。
「アズキさんはずっと髪が短いんですか? 」
「長い時もありましたが、それが何か? 」
「マフラーを、編みたくて…………」
アルデアは今にも眠ってしまいそうだ。
「マフラー? 」
「その……ふわふわの髪で…………」
アズキの手がピタリと止まる。黄金色の瞳が少し揺れたことに、アルデアが気付くことはなかった。
ノックの音がして、病室のドアが開く。いつもの給仕係の女が昼食を運んできた。
「あ! セダムさん! こんにちは! 」
うとうとしかけていたアルデアは、その姿を見てパッと目を輝かせる。
セダムと呼びかけられた女はにっこりとアルデアに笑いかけ、小さく片手を振って見せた。
「名前、教えてもらったんです」
「手話をしたいとおっしゃったのはそういうことでしたか。名前が知りたいのなら教えましたのに」
「自分で聞きたくて」
「……いい心がけです」
話しながらバスケットに荷物を詰めたアズキは、セダムに手振りで何か言うと、アルデアに「では」と言って病室を出て行った。
「今、何て言ってたんですか? 」
アルデアはセダムに問う。食事の乗ったトレイをテーブルに置いたセダムは、人差し指を口元に寄せ、いたずらっぽくウィンクして病室を出て行った。
セダムが行った後、アルデアは昼食のトレイに目を落とす。
香ばしい香りのパンに、野菜のスープ。そして、うさぎ型にカットされたリンゴ――。
一瞬、胸の奥が脈打つ。しかしあの時感じたような恐怖はない。
恐る恐るつまみ上げたリンゴを一口、かじってみた。
口の中に甘酸っぱい風味が広がり、いつか3人でテーブルを囲んだ時の情景が浮かび上がる。それはアルデアがずっと愛してきたあの味だった。
「……美味しいなぁ……」
あのとき、確かにここにあった。
いつかの食卓。いつかの笑い声。
それはまだ、消えてなんかいない――。
目の奥がツンと熱くなる。なんだか気が抜けてしまいそうな気がした。
アルデアは匙を取り上げ、一口一口噛みしめるように食事をすすめていった。
少し開いた扉の陰で、視線を交わしたセダムとアズキが頷きあっていることは――もちろん知る由もない。




