眠れない夜の境界
──決め手は、一つの情報だった。
ヴェルナから届いた手紙。
難民街に、似合わない少年がいた。
迷わず私の前に来て、無言で差し出した。
説明は何も無かったけど、
なぜか受け取ってしまった。
開いた瞬間、視線が固定された。
”スージュルベージにて──”
報告はヴェルナらしく、簡潔に記されていた。
その文字列の裏に、どれほどの出来事があったのか。
指先でそっと、なぞることが私のできる全てだった。
閉じようとして、ふと気付く。
他よりも少しだけ小さく書かれたもの。
”進軍成功”
息を吸う間も無かった。
その直後の一文。
ラセルト・バルドレイン負傷。
慌てて書き足したような文字。
几帳面さを示した手紙の中で、それだけが異様だった。
顔を上げると、
さっきまで一緒に遊んでいた子供達が心配そうにこっちを見ていた。
大丈夫よ、と声をかける。
声は思ったよりも軽く響いた。
手紙を抱えて、歩き出す。
迷う時間は、もう残っていなかった。
*
──静か。
横になっても、思考だけが沈まない。
ヴィーラの声が聞こえてくる気すらしてくる。
また、背負わせている。
19歳の、彼女に。
みんなで話し合った。何時間も。
ここで別れること。
それが、最善だと結論を付けて。
ある日の彼女の言葉が脳裏にこだまする。
盾の血。
これが私の責任だ、と。
それでも──。
「……シグ?」
隣にいる気配に、そっと手を伸ばす。
彼に触れた瞬間、そのまま抱き寄せた。
正確には、その背中に引っ付いた。
子どものようだと、自分でも思う。
離したくないから。
強く、抱きしめる。
「……どうした?」
その声は、いつもより落ち着いて聞こえてくる。
それが心地よかった。
「怖いの」
反応を伺った一瞬で、シグがこっちを向いた。
そのまま、抱きしめてくれる。
私は甘えて、その胸に顔を埋めた。
「また、ヴィーラに背負わせてしまうのが」
しばらく返事はなかった。
やがて、静かな声が返る。
「彼女は……アルゲンフィストの──盾の血だ」
「……聞いたわ。でも、血が全てを決めるの?」
思ったよりも強い声が出た。
シグに優しく頭を撫でられる。
嬉しいのに、誤魔化されている気がしてしまう。
「ヴィーラはまだ…19歳なのに……」
最後の方は、ほとんど声にならなかった。
顔を埋めているシグの胸が、動いた。
「……それでも、盾なんだ」
ざらついた感情がある。
言葉にならない感情。
それが、少しずつ膨らんでいく。
正体が分からないまま、ただ熱だけが上がっていく。
「盾の血って」
呼吸が浅くなって。
頭の奥が、じんと熱を帯びた。
「──おかしいよ。マグナレオールには歴史が残っていない。
それでも、役割と責任だけがあるの?」
考えが止まらない。
勢いも、熱も。止められなかった。
そのときだった。
額に、何かが触れた。
少しだけ冷たくて、細い感触。
シグの指。
気付くよりも早く。
す、と。
何かが引いた。
思考の熱がほどけていく。
霧がかかるように。
ざわついていた感情が、遠ざかっていった。
「……リラ」
耳元で静かな声がする。
「今は、休もう」
言葉が、やけに素直に落ちた。
確かにあったはずの、さっきまでの感情が思い出せない。
水のように、指の間から抜け落ちていく。
「……シグ」
ゆっくりと顔を上げる。
「今、何したの」
「何も」
少しだけ、眉を寄せる。
「嘘。さっきまで、私……」
言葉が続かない。
続けようとしても、次に紡ぐ言葉が見つからない。
──私は、この感覚を知っている。
どこかで、似た感覚を。
「……」
そこまで考えて。
ふっと、途切れた。
「……ありがとう」
気付けば、そう言っていた。
自分でも、少し驚く。
ありがとう?それは、本当に私が思ったこと?
違和感がある。
なのに、楽になっている。
「……明日も忙しくなる」
シグは、目を閉じたまま言う。
「ゆっくり休んで」
その声音は、変わらない。
ずっと、優しくて、落ち着く声。
大好きな声。
おやすみも言葉にできないまま。
私の意識は沈んでいった。
小さく呼びかける。
静かな夜の中、シグだけが起きている。
「マグナレオール、盾の血」
遠くで木々の揺れる音がする。
「何か──近いのか」
誰にでもなく。
暗闇に向かって溶かすような声だった。
*
まだ空が完全に起き上がる前。
ヴィーラと、向かい合って座っていた。
机には良い香りのする金色の液体が揺れている。
朝ごはん代わりに持ってきた焼き菓子は、
どちらも口を付けることなくそのままになっていた。
別れの前なのに、
何でこんなに……落ち着いているんだろう。
違和感はあるのに、脳が上手く働いていないみたい。
「……疲れが残っているようですね、リラ」
ヴィーラに声をかけられる。
その目は優しいけれど。
奥に、隠しきれない緊張があった。
「そんなことないわ。
昨日はむしろ、良く眠れたの」
……本当は、良く覚えていないけれど。
「ヴィーラ。その……気を付けてね」
「ええ。リラとシグさんも、気を付けて。
ノクスヴァイへの道中に危険が無いとは限りません」
少しの間、二人で見つめ合った。
私はすぐに目を逸らしたけど、彼女は私を見つめ続けていた気がする。
緊張した腕を摩り、背筋を伸ばす。
「計画通りに。
私たちも必ず、辿り着くから」
「……」
ヴィーラから、返事はなかった。
複雑であろうその胸中を推し量るのは難しい。
もう何度も、何時間も。
ヴィーラとは話し合ってきたはずなのに。
肝心な時に紡ぐ言葉は、見つからなかった。
そんな私を気遣ってか、ヴィーラが口を開いた。
「私は……救われたのだと、思います」
「えっ?」
「リラ。あなたの笑顔にです。
先が見えなくて不安な時も、食料が底を尽きかけても……」
ヴィーラが少しだけ目を伏せて、ふっと笑った。
「覚えてますか?
最後のパンがを焼こうとして……全部真っ黒にしたこと」
「やめて。あれは、最悪だったわ」
一瞬見つめ合ってから。
二人で、声を出して笑った。
「──エリックが、リラに任せるんじゃなかった!なんて言って」
「あの時は本当に自信があったの!
それに、とんでもなくお腹が空いていたし……」
「あんな状況なのに……みんな、良い炭ができたなって、笑ってました」
「最悪なのは、その後よ」
「その後?」
ヴィーラが記憶を掘り起こすように、首を傾げた。
「シグが来て言ったの。
『君にしては上手だ』って」
「嘘でしょう!?それ……」
「当然、彼は本気だったわ。
だから私も怒れなくて、途方に暮れたのよ」
私が怒った顔を見せると、その顔を見てヴィーラがまた笑って。
また二人で、膝を抱えて笑った。
「──こんなに笑って毎日を過ごせるなんて、
マグナレオールから出てきた時は想像もしていませんでした」
「不安な時も、みんなといれば笑っていられた」
「……私もよ」
二人同時に、カップを手に取って一口啜った。
少し冷めて、ちょっとだけ苦い。
「シグさんとの関係は、どうなのですか」
「変わらないよ。いつも冷静なのに優しくて、甘えすぎなくらいかも」
「あんなに毎日、クマを作って起きてきたリラの顔色が良くなりましたからね」
ヴィーラが少しだけ意地悪な声を出す。
「昨日なんて、少しだけシグに無理やり寝かされたのよ」
軽く笑う。
冗談のつもりだった。
けれど。
「……無理やり?」
返ってきた声は、予想よりも低かった。
思わず瞬きをする。
「え?どうかした?」
「無理やり、とは」
ヴィーラの視線が、わずかに鋭くなった。
その変化に、少しだけ戸惑う。
「いや……そんなに大袈裟な話じゃないよ。
ちょっと考えすぎてて、寝れなくて」
「それで?」
食い気味にヴィーラの言葉が重なる。
明らかに、反応がおかしい。
「不安な気持ちをシグにぶつけてしまって。
頭に熱がこもって……更に目が冴えてしまったんだけど」
「……シグの指が、額に触れたの」
言葉を探しながら、続ける。
「その瞬間に、ふっと楽になって。
──思考にもやがかかったみたいに」
その瞬間。
ヴィーラの動きが止まった。
「……それは」
声に、かすかに緊張が宿っている。
「どういう現象でしたか。できるだけ正確に」
空気が変わった。
さっきまでの柔らかさが消えている。
さっきまでの優しげな表情は消え、
代わりに冷静な研究者の顔があった。
戸惑いながら、思い出す。
「えっと……」
「感情が高ぶってたのが、一気に引いた感じ。
考えようとすると、途中で止まるの」
「考えられないわけじゃない。でも……」
言葉が詰まる。
「深く考える必要が、なくなるっていうか」
伏せた視線を上げると、ヴィーラが何か考え込んでいるのが見えた。
「……シグが何かしたって、思った?」
「はい」
頷く動きに、迷いはない。
「でも、本人は何もしてないって」
そこで、少しだけ視線を逸らす。
「……嘘だとは思うけど」
ヴィーラは少しの沈黙の後、小さく息を吐いた。
「落ち着いて聞いてください」
迷いのない目を、一直線に向けられる。
その目線だけで、嫌な予感が膨れ上がった。
「現在における魔法技術は完成されており、
その完成度の高さから新技術の開発が稀であることは有名です」
「ヴィーラ?
どうしたの?何が、言いたいの?」
「魔法を用いて他者に影響を与えることは不可能です」
はっきりと断言する。
その言葉には、確かな確信があった。
「精神干渉も、感情操作も。
理論上、成立しません」
一拍置いてから、そこに彼女は付け加えるように言った。
「……少なくとも、私たちが知る魔法体系では」
呼吸が止まった気がした。
不自然な静けさが落ちる。
「……でも」
思わず立ち上がる。
腰掛けていた椅子が、小さく悲鳴をあげた。
私は、小さく呟く。
何かに繋がった細い糸を、手繰り寄せるような声だった。
「実際に、起きた」
ヴィーラは、意図的に目を開いたように見えた。
私を、安心させるかのように。
「それが事実なら」
ゆっくりと言葉を重ねる。
「それは──」
ほんの一瞬、言葉が止まる。
「……現代魔法ではない」
黙ったまま、立ち尽くした。
胸の奥に──何かが沈んでいく。
昨夜の違和感。
思考が止まった瞬間。
あの、言葉。
「……ヴィーラ」
少しだけ声を落とす。
「シグって……マグナレオールでは、どんな人だったの?」
ヴィーラは視線を遠くに向けていた。
どこか、過去を見るように。
「詳しく知っているわけではありません」
続く言葉は、もしかしたら私の世界を変える可能性があったのかもしれない。
でも、最後まで続くことはなかった。
「リラ?ヴィーラ?」
後ろから聞こえてきた声に、思わず飛び上がりそうになる。
いつもと変わらぬ、優しい声。
「もうすぐ出発の時間だ」
「シグさん……ありがとうございます。すぐに」
立ち上がる寸前、ヴィーラは視線を投げた。
その視線は、どういう意味を持つのか。
私は、何も言えなかった。
まだ、整理できない。
分からないことだらけだった。
ただ、シグは──
“普通じゃない”。
それは、私の心に小さな棘のように刺さった。
ここまで来てくれて、ありがとうございます。
次回も引き続きよろしくお願いします。




