愛しみの残響
平和は、日常は、もう死んでいる。
だが、取り返す。必ず。
その思いとは裏腹に、人は死んでいく。
残響だけが残った。
バルドレイン家は、ノクスヴァイ王国において広く知られる名家である。
その名を聞いて、多くの者がまず思い浮かべるのは一人の男。
セルル・バルドレイン。
均衡の維持に人生を捧げた男。
ノクスヴァイ王の右腕。
そして、この国が誇る象徴。
彼は死んだ。
何者かの襲撃によって、命を落とした。
だが──
その志は死んでいない。
セルルに似た、深い灰色の正装。
胸に輝く、双環の勲章。
ラセルト・バルドレインは、
ノクスヴァイにおける総合防衛総監を担う男だった。
セルルを兄のように尊敬し、その思想の元で育った。
同じ家に住み、その背を追い、多くを彼から学んだ。
だが、歩んだ道は違う。
まだヴァルデンが連合国になる前。
小国同士の戦争が続き、世界の均衡が脅かされていた頃。
彼は武力行使を極限まで抑えながら、戦局を整理し、秩序を立て直し、
ヴェルナ・アリキュールを頂に据えるための流れを作り上げた。
戦争を終わらせるための作戦を立案、実行し──
そして本当に終わらせた。
“戦争を終わらせた男”
それが、ラセルト・バルドレインという人物だった。
戦況は、よく見える。
だからこそ、ラセルトは既に理解していた。
前線に異常が発生している。
何かが、起きた。
続いてかすかな悲鳴が聞こえる。そして……黒い、光。
「……総司令!!」
振り返る。
息を切らした男が立っていた。
「伝令が、戻りました」
*
丘の下に設けられた仮設の指揮所。
全体が見渡せるように、少しだけ小高い丘にそれはあった。
木で組まれた足場。簡易的な柵。
中央には机が設置され、周辺の地図が広げられていた。
ラセルトは遠くに見える前線を、少しだけ目を細めて見据えていた。
土煙が絶え間なく立ち上がっている。
風に乗って、金属のぶつかる音と、かすかな悲鳴が混ざって届く。
つい先ほど指揮所へ駆け込んできた伝令は、泥にまみれ、肩で息をしている。
労いの言葉を掛ける時間は無い。
彼は振り向かないまま口を開いた。
「前線が崩れたな。状況は?」
その声は戦場とは思えないほど、静かだった。
だが自然と、その場にいる全員の背筋が伸びる。
「はっ……!
こちらの優勢から一転、敵国による新たな魔法の投入により、前線が大きく後退しております!」
「新たな魔法」
短く繰り返す。
「黒い、光のようなものです。
鎧ごと貫通し、直撃すれば即死、あるいは重傷。
死者数、重傷者数ともに……正確な把握ができておりません」
一瞬だけ、ラセルトの手が止まる。
「防げるか」
「……難しいかと。
大盾であれば、直撃は防げる可能性がありますが……」
伝令の言葉は続かない。
ラセルトは、ゆっくりと拳を握りしめる。
胸元の双環の勲章が、わずかに揺れた。
「……そうか」
小さく息を吐いて、一瞬だけ視線を落とす。
すぐにその顔が上がった。
「私の部下たちを呼んでくれ」
「はっ」
階段の近くにいた兵が走り去った。
しばらくして、重い足音が響き渡った。
巨大な盾を背負った男たちが、ずらりと整列する。
大盾部隊。
前線で命を拾い上げるために存在する者たち。
ラセルトは一人一人の顔を見た。
「……前線が、かなり押し込まれている」
静かに告げる。
「やむを得ん。前線を下げる。お前たちには──」
「ラセルト様」
言葉を遮るように、一人が前へ出た。
その目は鋭い。だが、ラセルトを睨んではいなかった。
「命令してください。私たちは、あなたを信じてどこまでも戦います。
今までも、ずっとそうでした」
空気が、わずかに張り詰める。
ラセルトは、何も言わない。
ただ、拳を握った。
ほんの一瞬の沈黙。
「……前線に出て、一名でも多く救ってくれ」
低く、はっきりとした声。
「そして、耐えてくれ。あの黒の魔法……お前たちなら、防げるかもしれない」
大盾を背負った男が、深く頷いた。
「──必ず」
次の瞬間、全員が踵を返し、走り出す。
「おい」
ラセルトの声に、足が止まる。
誰も振り向かない。
それでも、彼は続けた。
「お前たちも……生きて、帰ってこい」
その声は、彼らに届いたのか。
返事は、なかった。
誰一人、声を上げない。
ただ、そのまま走り出す。
重い足音が、遠ざかっていく。
砂埃が、しばらく宙に舞っていた。
ラセルトはその背を見送ったまま、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……建設の状況は?」
別の兵が答える。
「予定より早く進んでおります。
櫓はすでに14棟、仮設壁の基礎も半分ほどが完成しています」
「よし」
「荷車を倒して、土を盛れ。杭を打ち込め。
そこを新たな前線とする」
「……承知致しました」
伝令が頷き、駆け出していく。
ラセルトは、しばらく地図を見つめた。
口元は、硬く引き締められていた。
──重い。
この光景を、かつて一度だけ、見たことがある。
あの時も、多くが死に。
多くが傷つき。
それでも、終わらせた。
……叔父上。
セルルの顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
だが、すぐに消した。
ここは戦場だ。
感傷に浸る場所ではない。
ラセルト・バルドレインは、静かに顔を上げた。
その目は、前線の向こうを真っ直ぐに見据える。
「……あの黒の魔法」
視線は前線のまま。
「解析できるか」
後方に控えていた部下が、一歩前へ出る。
「……正直に申し上げます」
一瞬、彼は言葉を選んだ。
「魔法は、我々にとって未知の部分が多すぎます。
記録も、体系も、ほとんどが知られていない領域です」
黒の光が、また遠くで弾けた。
土煙が舞い上がる。
誰かの叫び声が、風に乗ってかすかに届いた。
「ですが」
部下は、顔を上げる。
「全力を尽くします。どんな僅かな手掛かりでも、拾い上げてみせます」
ラセルトは、短く頷いた。
「頼む」
その一言には、重みがあった。
部下の男は深く頭を下げ、すぐに持ち場へ戻っていく。
黒の光。
あの異質な軌跡が、頭に焼き付いて離れない。
攻撃に転用される魔法など、ほとんど無いと聞いていた。
なのに、これは何だ。
鎧を貫き、直撃すれば即死。
これでは、まるで──
人を、殺すためだけに存在するものだ。
その瞬間。
叔父の最期が、ふと脳裏をよぎった。
何もない空間から、命を奪われたとしか思えない死。
あれも、同じ──
ラセルトは、そこで思考を止めた。
過去を追う時間は無い。
今、必要なのは。
“知ること”だ。
*
丘を中心に、同盟国の軍勢は半円を描くように展開していた。
総勢、六万。
東西へ長く伸びた前線は、地平の端まで続いている。
旗が揺れ、号令が飛び、無数の兵が波のように動く。
それでも。
丘の頂に陣取るマグナレオールは、崩れない。
正面から押し上げても、押し返される。
左右から圧をかけても、黒の光が降り注ぎ、前線が削られる。
既に包囲しているはずだった。
だが、攻めきれない。
丘そのものが、牙を剥いているかのように。
黒の魔法は、頂上から放たれるたびに射程を伸ばし、
半円状に広がる同盟軍の前線を、確実に削り取っていく。
前へ出れば、死ぬ。
止まれば、こちらが崩れる。
手をこまねいているわけではない。
押し切れないのだ。
六万で囲んでもなお、崩れない。
──この丘全体が、敵の武器になっている。
丘を中心に広がる戦場を見渡しながら、ラセルトは黙っていた。
黒の光がまた一筋、頂上から放たれる。
半円を描く同盟軍の前線の一角が、わずかに崩れた。
だが──それだけだ。
追撃は来ない。
ラセルトは、無意識に顎を撫でた。
……動かない。
六万の軍勢が、丘を囲むように展開している。
正面からの圧。左右からの圧。
本来なら、どこか一箇所でも突破を狙ってくるはずだ。
だが、敵は頂から降りてこない。
押し上げても、下りてこない。
包囲しても、抜け出そうとしない。
ただ──そこに留まり、撃ち続けている。
黒の光が、一定の間隔で放たれる。
そのたびに、前線が削られる。
それだけが、ひたすらに繰り返されている。
「……なぜだ」
誰に向けたわけでもない声だった。
ラセルトは地図へと視線を落とす。
丘の形。傾斜。風向き。兵の配置。
だが、何か決定的な情報が欠損している。
敵の陣は、頂上を中心に横へ広がっている。
だが、後方への伸びは薄い。
補給線らしき動きも、ほとんど見えない。
まるで。
ここから動く必要がない、と分かっているかのようだった。
黒の光が、また一つ弾ける。
丘の斜面に、灰が舞っているのが見えた。
煙のような細かな塵が、空気の中に滞留している。
ラセルトの視線が、そこに留まる。
……撃っている、のではない。
マグナレオールが使う魔法。
リラ・ヴェルノアが留学中に寄越した報告書には、こうあった。
”無から何かを生み出すことは不可能。
既にある現象を変化させることが現代魔法の限界である”と。
それが真実ならば。
何かを、使っている。
この環境そのものを。
丘の頂。
煙。灰。
空気の流れ。
ここに留まることで、成立している何か。
だから、動かない。
動く必要がない。
むしろ──動けば、弱まる。
ラセルトの中で、一つの仮説が形を取り始める。
「……この丘が、武器か」
その時。
指揮所の外で、慌ただしい足音が止まった。
「ラセルト様!!」
魔法の解析に走った部下が、息を切らして駆け込んでくる。
「何か分かったか」
振り向かずに問う。
「はっ……!まだ予想の域を出ませんが……大盾部隊の生存者から、報告が」
ラセルトの目の端が、わずかに震えた。
「防ぐことは、可能です。
そして、盾が焦げ付いていたと」
「私たちが大盾を調べたところ、焦げの正体は灰や煤、空気中に存在する塵のようなものだと分かりました」
短い沈黙。そして、続ける。
「ここからの推測ですが……空気中の塵や灰を圧縮し、空気抵抗の性質を変えて打ち出している可能性があります。
マグナレオールには、空気の性質を変える魔法があると記録にありました」
ラセルトは、前を見たまま聞いていた。
丘の頂。
舞う灰。
黒の光。
静かに、口を開く。
黒の魔法について、ではなかった。
「──私の部下は」
周囲がわずかに息を呑む。
「何人、帰ってきた」
部下の言葉が詰まった。
「……四人です。他は、全て生死不明です」
「……そうか」
それだけだった。
誰にも聞こえないほどの、小さな声で。
「……お前たちを、無意味などにはしない」
ラセルトは、ゆっくりと顔を上げる。
丘の頂を、真っ直ぐに見据えた。
敵が動かない理由が、分かった。
ここを離れれば、あの黒の魔法は弱まる。
強制的に動かし、弱体化を謀る。
ラセルトは、すぐに次の思考へと移る。
部下たちが命を懸けてもたらした情報は、確かな価値をもたらした。
ならば、私がすべきことは。
盤面を、動かし続ける。
*
「総司令!!前線の後退が、一部を除いて完了しました。
マグナレオールは丘の上を陣取り、攻撃が継続されていますが……今は、拮抗しています」
伝令は、ラセルトの言葉を待っていた。
「よくやった。死傷者の数の把握はまだか」
「まだです。医療班が足りておらず……皆、混乱の中戦っています」
場の空気が、少し重圧を増す。
「……攻撃を、継続しろと伝えてくれ。
特に投石器の稼働を止めるな。敵の前線に圧をかけ続けさせる」
命令を受けたはずの伝令は、すぐに動かなかった。
ラセルトは、伝令の様子を静かに見据えた。
「……どうした」
伝令が強く拳を握り、息を吸った。
「総司令、恐れながら申し上げます」
「味方はかなり傷付いています。マグナレオールも、幸い攻撃が弱まっています。
…ここで攻撃を続ける意味が、あるのでしょうか?」
ラセルトが諭すような声を発した。
「敵国がいつ攻撃を再開するか、お前には分かるのか?」
「……観察を続けていれば、対応できるものもあるはずです」
戦場とは思えないほどの静寂が、一瞬辺りを包んだ。
「……そうだな。だが、手遅れになるものもいる。
その場合──その者の死は無意味になる。ただ、死んでいくだけだ」
「全員、何かを守る為に戦っている。
意味の無い死など、到底私には許容できない」
「ラセルト様……」
「もっとも、死なせる気もなかった」
続く言葉は、総司令官としてのものではなかった。
「すまない……」
すぐにまた、前を向く。
「ここでは、たった数秒に価値がある。情報を握れば、それだけで作戦の精度が上がる」
「死に急ぐな。戦い、足掻いて、生きるのだ」
顔を上げた伝令の目には、覚悟が宿っているように見えた。
重要人物がかなり増えてきました。
近いうちに「活動報告」にて人物紹介をまとめる予定です。
投稿した際は、後書きでもお知らせします。




