第1話 不動産会社社員・真留村富士夫の死
以前、4話連載で書いた作品の長期連載版です。以前完結させた作品ですが、後から色々と補足したり追加したりしたいところを思いついたので、これから思い切って再スタートします。
第1章(第1話~第13話)の大まかな流れは短期連載版(ショート版)の第1話~第3話とほぼ変わらないですけどよろしくお願いします。
ブラックな不動産会社の営業社員だった男性はある日突然、命を落とした。
そして西洋の雰囲気が漂うどこか不思議な世界を救う勇者に転生、これまでとは全く異なる身分の人間として生まれ変わったことに、彼は戸惑いの感情が入り混じった産声を上げた。
それでも新たな環境に新たな姿で降り立った男性は、前世とは大きく異なる生活を送るはずだったのだが。
「おい勇者。・・・吾輩、妻に愛想をつかされて出て行かれてしまったんだ。ちょっと相談に乗ってくれるか?」
「ええ、もちろんです。まずはどうしてこんなことになったのかお話しください」
何故だか勇者は世界ではなく、魔王と魔王の妻との仲を救おうとしていた。
◇
5月にも関わらず、その日はとても暑かった。
それは夜になっても変わることがなく、ネクタイを緩めたサラリーマンたちは、真夏さながら仕事帰りに立ち寄った居酒屋でキンキンに冷えたビールを喉元に流し込んでいた。
しかし、ある地方都市に所在している小さな不動産会社に勤める男は、そのような些細で素朴な贅沢すらできずに時計の針が夜の11時を回ってもオフィスのキーボードを叩く。
その男の名前は真留村富士夫。来月に40歳を迎える彼は冷えたビール、ではなくぬるくなったブラックコーヒーをがぶがぶと飲みながら資料作りをしていた。
「ようやく社長に提出する今月の営業報告書、ここまで書けましたね・・・」
狭いオフィスに1人残りながらそう呟いた富士夫は、キーボードから手を離すと眼鏡も外し、大きく伸びをする。ただこれで彼の仕事は終わったわけではない。
「後は部下達の進捗も確認しないといけませんね。日中はあの夫婦の取引完了に全ての労力を注いでしまいましたので・・・」
彼の主な業務内容は中古不動産の売買仲介、つまり売り手(不動産を売りたい人)と買い手(不動産を買いたい人)の間に立つような仕事。
この道のキャリアは15年を超える富士夫。
彼は投資を目的とした不動産の取り扱いには苦手意識があったものの、実際に居住用として使われる不動産の仲介は得意だった。取引をした顧客からの評判も良く、口コミで彼の下に訪れた者も多い。おまけにその仕事ぶりは同業他社の人間からもひそかにリスペクトされていたほど。
しかしその労働環境は最悪。夜遅くまでの残業や休日出勤は常態化しており、そんな状況に耐えかねた退職者の尻拭いもいつものこと。それにワンマン社長からの理不尽な要望も山ほど受けていた。
「・・・隣の席にいつもいた子が突然いなくなるのはまだ慣れませんね・・・」
富士夫はすっかり片付けられた隣の机を見ながらポツリとこう口にする。
そこにはまだ20代中盤の若手社員がつい最近まで座っていたはずだが、彼はこの劣悪な労働環境に音を上げて突然会社を辞めてしまった。
このようなシチュエーションは不動産業界では珍しいことではない。それにその若手社員に限らず過去何度も同じようなことを経験してきたのだが。
「彼も早く再就職先が見つかっていれば良いのですが・・・」
富士夫は効率を求める男だが、ドライにはなり切れなかった。それは今まで一緒に働いてきた人物の名前と顔は今でも全員覚えているほど。そうすると、どうしても退職した仲間のことも心配してしまう。
「本当は私がもう少しフォローしてあげていれば。でもどれだけ言ってもあの社長は変わらないので意味ありませんけど・・・」
ブラックコーヒーが入ったペットボトルを手にしながら富士夫は天井を見上げる。
確かに富士夫自身の心身も、実はもう限界に近い。
彼はすでに両親を亡くしており、恋人もおらず、人生における時間をほとんど仕事に費やしていた。会社で朝を迎えることも珍しくなかった。
この会社には不満は多い。いっそのこと辞めてしまえば良い。
しかし富士夫はそれができなかった。
たとえ酷い労働環境の会社であっても業務内容自体にはやりがいを感じているし、そもそもここは就職に困っていた学生時代の頃の自分を拾ってくれた場所。
退職願を書いても、最後の最後でこの場所への『恩義』という余計な感情が彼の邪魔をしてしまう。
それにこのタイミングで自分がここを離れたらわずかにいる部下達はどうなる?
自分というワンクッションがいなくなったら大変なことになるに違いない。いやしかし・・・。
この時、富士夫の脳裏にはこれまで考えないようにしてきた言葉が浮かんできてしまった。
『別に私がいなくても会社は回るんじゃないか?自分は自分のことを買いかぶり過ぎではないか?』
そう思った直後、彼は大きな音を立ててその場に倒れ込んだ。
猛烈な痛みを襲う胸を押さえながらも、富士夫は不思議と「もう自分には死期が迫っている」ことを冷静に確信できた。そして意識が失われていく彼が最期に目にしたものは、倒れると同時に机の上から床に落ちた一通の便せん。
それはこの日、富士夫の仲介によって念願のマイホームを購入できた若い夫婦から受け取った、深い感謝の意が綴られた手紙だった。
◇
富士夫は悟った。
「ああ、私はもう死んでしまった」
実はそれなりに後悔がある。恐らく周囲からは無趣味だと思われていただろうが、実は好きな映画のシリーズがあった。しかし、自分はその完結を目にすることなくこの世を去るのか。
意識を無くした後、肉体から離れた彼の魂は何もない空間をただ彷徨っていた。静かで、暗く、しかし・・・どこか心地が良い。
じきに後悔の念も薄くなっていき、ふわふわとした状態でしばらくボーっとしていると、突然聞き慣れない女性の声が耳に届いた。
『真留村富士夫。余が貴方のことを転生させます。喜びなさい』
実は忙しい中でも寝る間を惜しんで深夜アニメも少し齧っていた富士夫はこの瞬間に色々なことを察し、しかしこう返答した。
「ああ、もしかして俗に言う女神様でしょうか?・・・お気持ちは嬉しいのですが、もっと将来性や才能のある者を転生させた方が良いと思います。私はしがない中年ですから」
彼は控えめな男だった。
『いいえ真留村富士夫。貴方は神々の手によって選ばれたのです。神に背くことなどできません』
「女神様。私のような人間など、このまま死後の世界へと送ってください。寂しい人生でしたが、最後にあの若い夫婦に良いマンションを仲介できて良かったです」
『真留村富士夫。そういうのは良いので早く喜びなさい。・・・ある世界に非常に凶悪な魔王がいるのです。貴方をその魔王が煽動している、人間と魔族との醜い争いを止めるべき勇者に選ばれたのです』
「いや、あの。私は」
『本音を話しましょう。実を言うと、恋愛経験豊富なイケメンをハーレム世界へと転生させるのが余の担当でした。すごく楽しみだったのです。しかし急に退職者が出たので、嫌々、嫌々、嫌々、余が貴方のような者を転生させなければならないことになりました。良いから言うことを聞きなさい』
「女神様、知ってます?死んでも罵倒されたら涙って出るみたいですよ?」
富士夫の魂は死後にも関わらず泣いていた。
『せっかくこんな美しい女神の誘いを断るだなんて、これだから40手前まで恋愛経験の無い男は。貴方に拒否権などありません、さっさと転生させます。余も早く帰って録画しているドラマを観たいんです』
「面倒な仕事扱いで人を転生するのやめてくれませんか?」
こうして女神は文句やクレームなど全く聞き入れてくれず。
「見て、あなた。この可愛らしい顔。わたし達の子供ですよ。名前は・・・。ふふ。ずっと言ってましたよね。『レザ』にしましょうね」
「・・・!?」
不動産会社に勤めていた真留村富士夫は後に勇者となるレザとして転生した。