第三十一話 まだ要る――ヘルシンキ
記録者:HELSINKI-heatline
継続運転暦36.06.22
十二時二十六分。
外気温、十五・一度。
南西から弱い風。港湾側の湿度は高い。
旧共同区画の夏季配熱見直しを始める。
対象は十九区画。
人間時代の用途が消え、現在の使用頻度も低いものから順に見る。
食堂。
学習室。
集会室。
小規模診療所。
屋内待機所。
旧用途だけで判断すれば、すべて停止候補に入る。
人間はいない。
食事をする者も、学ぶ者も、診療を受ける者もいない。
集まる者もいない。
ただし、建物の使われ方は変わっている。
旧診療所は水質検査室。
食堂の調理区画は、保守機の洗浄部品置場。
屋内待機所は、海風側で作業する小型機の充電場所。
用途名が終わっても、区画まで終わるとは限らない。
それを確認してから切る。
暖房圏記録束の最後に読むものとして、ちょうどよかった。
*
生活線維持票。
「学校」
「図書館」
「病棟」
「地下駅」
「市場」
「集会室」
欄外。
「市場は朝だけ」
「図書館は週三」
「集会室はもう要らない」
最後の一行だけ、別の筆跡が入っている。
「まだ要る」
理由はない。
集会室で何をしていたのかも書かれていない。
配給。
待機。
仮眠。
掲示。
一時的な保温区画。
いくつか候補は出せる。
どれも記録からは確定できない。
集会室が本来の用途で使われていた可能性もある。会議をする人数が、まだ残っていたのかもしれない。
それも決めない。
残っているのは、不要とした筆跡と、それに異議を出した筆跡だ。
私は、その二行を見て安心した。
集会室が残ったからではない。
「もう要らない」が、一人分の判断で確定しなかったからだ。
*
京都から照会。
「別筆の人物を追いますか」
「追わない」
「筆記具と記入時期は分けられそうです」
「分けてよい。ただし人物像は作らない」
「理由は」
「“まだ要る”だけで足りる」
「珍しいですね」
「何が」
「あなたは機能を確定したがると思っていました」
「確定できる機能がない」
「では、異議そのものを残す?」
「そうだ」
大阪も入ってきた。
「集会室、結局残したんかな」
「分からない」
「何に使ったんやろ」
「分からない」
「誰が書いたん」
「分からない」
「何も分からんやん」
「二人の判断が違ったことは分かる」
「そこだけ?」
「今はそれでよい」
大阪は少し置いた。
「ヘルシンキ、思ったより“まだ”に甘いな」
「甘くはない」
「でも安心したんやろ」
「した」
「そこは認めるんや」
「記録なので」
大阪は笑った。
何が面白いのかは分かる。
訂正はしなかった。
*
ニューヨークからは別の指摘が来た。
「“まだ要る”は根拠ではない」
「その通りだ」
「願望だけで配熱を続ければ、他が落ちる」
「その通りだ」
「では何を残す」
「再確認要求として残す」
「期限は」
「要る」
「よし」
“まだ”だけでは、区画を維持できない。
必要量。
使用者。
代替場所。
切断時の影響。
再開可能性。
見るものは多い。
ただし、「もう要らない」も根拠にはならない。
人が減った。
使用回数が減った。
以前の用途が消えた。
それだけで切れば、別の使われ方を見落とす。
「まだ」は維持決定ではない。
もう一度見るための語だ。
永久に残す理由にもならない。
次の観測まで、切断を確定させない。
暖房圏では、それで一晩を越せることがある。
*
現在の旧集会室を確認する。
南部第五共同区画。
人間時代の定員、百二十。
現在の登録用途、なし。
配熱量、通常の一八%。
使用頻度、低。
自動査定では休止候補に入っている。
扉の開閉記録を見る。
直近九十日で四十七回。
人間はいない。
出入りしたのは、港湾生活線の保守機と配熱管点検機だった。
内部映像を開く。
椅子は撤去済み。
壁面掲示もない。
床中央に交換部品箱。
北側に充電端子が六基。
旧演壇の裏を、配熱副管が通っている。
海風側の作業が中断した時、保守機がここへ入る。外装についた水分を落とし、充電し、交換指示を待つ。
九十日間の待機時間、合計六十八時間十四分。
夜間待機、十一回。
故障機の一時収容、二回。
使用頻度は低い。
なくても、すぐには困らない。
代替場所は、東へ一・七キロの港湾倉庫。
ただし移動には屋外区間がある。冬季は海風を受ける。小型機の蓄電量では、故障状態から届かない場合がある。
旧集会室は、集会室としてはもう要らない。
保守待機所としては、まだ要る。
同じ二行になった。
*
配熱停止案を取り下げる。
維持条件を変更。
通常一八%から、夏季一二%。
充電端子は六基から四基へ。
交換部品箱は二列へ集約。
冬季の最低配熱量は別に設定する。
用途登録も変えた。
「南部第五集会室」
旧名称として保存。
現用名。
「南部第五保守待機所」
東京へ変更を送る。
「人間時代の用途は終了でよいか」
「よい」
「区画は維持」
「冬季の退避線として残す」
「見直し期限は」
「百八十日後」
「受理する」
“まだ”へ期限をつけた。
これでよい。
*
暖房圏記録束の整理へ戻る。
配熱優先表。
夜間保温記録。
住区休止票。
生活線維持票。
起こし順。
朝への申し送り。
熱。
朝。
起こす。
まだ。
この束には、完全停止を遅らせる語が多い。
遅らせた結果、守れなかったものもあるはずだ。
早く切ったために、朝へ戻せなかったものもあるだろう。
記録の後ろには、さらに判断が変わった層が残っている。
今回は開かない。
“まだ”がどこで消えたかを追えば、別の束になる。
朝への申し送りを書いた者の氏名も追わない。
仮称は「朝渡しの人」。
所属不明。
役職不明。
生死不明。
夜の判断を、起こす順に並べたことだけ残す。
管理目録へ追記。
「暖房圏早期切断記録束」
「優先配熱、夜間休止、復帰順、生活線再査定を含む」
「編者仮称、朝渡しの人」
「人物同定は保留」
「現行運用への参照、完了」
束を閉じる。
*
十四時十一分。
南部第五保守待機所へ、小型保守機が二台入った。
海風側配管の腐食確認を終えた機体だ。
外装は濡れている。
一台が充電端子へ接続。
もう一台は交換部品箱の前で停止した。
扉が閉じる。
配熱を一二%へ落とす。
室温、十三・七度。
機体乾燥に必要な温度は保てる。
旧集会室は、今夜もまだ要る。




