23 加速する鼓動
「あんたたちが、どうしてここに……」
それは、こっちのセリフなんだけど?
セシルに手を引かれ、二階から降りてきた女性を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは、先ほど香水店で言い争った女――確か、店主がエリスと呼んでいたかしら。
アルセイン皇子は片腕を広げ、私を庇うように一歩前へ出た。
「ハッ、まさかここまで私を追いかけてきたわけ?」
だが、さっきまでとどこか様子が違う。
焦燥に追い立てられたような青白い顔色。焦点の定まらない瞳。今にも倒れてしまいそうなほど、全身が小刻みに震えていた。
「セシル、知らない人を勝手に家に入れるなんて何を考えているの!」
「お、お母さん、だけどこの人たちは……」
セシルが小さい口をパクパクとさせて、母に向かって必死に説明し始めた。
以前、自分を助けてくれたこと。母の薬代として金貨をくれたこと。
その話を聞くうちに、彼女の吊り上がっていた目元が少しずつ緩み、険しかった表情にも迷いが滲み始めた。
「……そう。その時のことは、お礼を言わなくちゃね」
ぐらぐらと揺れる視線の中、私たちを見つめる姿は、まだ多くの感情に揺れているようだった。
「だけど、あなたたちみたいな高貴なお方がこの家に一体何のよう? 今さら金を返せと言ってきても無駄よ。もう、全部ないんだから」
自嘲気味に口角を吊り上げたエリスが、身体をふらふらと揺らしながらそう言った。
何とも無礼な物言いだったが、自然と眉をひそめた私と違って、アルセイン皇子は至って穏やかな笑みを保っていた。
「突然押しかけてしまい申し訳ありません。病に伏せていると伺いました。お身体の具合はいかがですか」
穏やかに微笑みながら問いかける。
その優しい笑みに、エリスは怯えるように身を縮めた。
「病……そう、病よ。これは病に違いない……」
瞳と身体を大きく揺らし、近くの椅子へ崩れるように座り込んだ。
「セシル……薬を、母に薬を……」
「お、お母さん!」
咄嗟に駆け寄ろうとしたセシルの腕を、アルセイン皇子が掴んだ。
「下がっているんだ」
「で、でも……!」
「今は近付かない方がいい」
セシルを私の後ろへ下がらせると、アルセイン皇子はエリスを真っ直ぐ見据える。
「随分と麻薬に侵されていますね。一体いつからです。まだ会話が成り立っているところを見るに、そう時間は経っていないようですが」
アルセイン皇子の口から飛び出した麻薬という言葉に、彼女は動揺した素振りを見せた。
この反応を見るに、自身が麻薬を使用していることを確かに認識しているようだ。
「どうか落ち着いてください。俺たちはあなたを罰するために来たのではありません。だから、そう怯えないで。あなたを救うためにきたのです」
「う、嘘よ……」
「嘘ではありません」
アルセイン皇子の背後で、私はセシルの震える手をそっと握る。
彼の言葉には不思議な力がある。
私があの晩、らしくもなく自分のことをスラスラと語ってしまったように。
彼女もまた、躊躇いながらもアルセイン皇子に語るべきかと悩んでいる。
誰にも自身の心内を晒すものかと心に決めたとしても、彼の前ではその決意が少しずつ崩れていく。
初めて会った男に自分の罪を明かすなどありえないこと。だけど、アルセイン皇子はそのありえないことをいくつも可能にしてしまうのだから恐ろしい。
「すべて終わらせましょう。あなたの大切なセシルのためにも」
クラっとするほど甘い香りを漂わせた女は瞳を潤ませると、自身の息子をじっと見つめた。
「セシル……セシル、私のセシル……」
掠れたような小さな声でいくつも呟かれるその名前。
ぼんやりとした瞳が激しく揺れている。
自身が渇望する欲望と、子供への愛情の狭間で。
「お母さん、大丈夫なの? 体が悪いんでしょう? だから薬が必要だって……」
私の背から顔を覗かせたセシルが、心配げにそう言った。
異常な母の様子を分かっていながらも、子供は親を心配せずにはいられない。
この世に自身の子を愛せない親はごまんといるけれど、親を愛すことのできない子供はいない。
たとえどれ程酷いことをされても、表ではどれだけ恨み言を言っても、心の底から嫌うことはできないから。
「セシル、ごめんね……私の可愛い子」
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意識はまだ朦朧としていたものの、二階の窓をすべて開け放ち、麻薬入りの香水が染みついた衣服を着替えると、エリスは少しずつ落ち着きを取り戻した。
そして、途切れ途切れに自身の過去を語ってくれた。
セシルが生まれるずっと前、一時期だけ生活のために娼婦として働いていた時期があったという。
そこで親しくなった友人から、ある日一本の香水を無料で譲り受けたという話。
その香水を使った日を境に、その香りを異常なほど求めるようになり……どれほど高額でも手に入れようとして、生活を切り詰めてまで買い続けるほど依存してしまったのだという。
やがて香水をくれた友人とは連絡が取れなくなったが、その代わりに教えられた町外れの屋敷へ通い、香水を買い続けていたらしい。
その経緯を聞き終えた私たちは、セシルの前でこれ以上話を続けるべきではないと判断し、また後日訪ねると約束して家を後にした。
家の前に置かれた古びた木のベンチへ腰を下ろすと、アルセイン皇子が静かに口を開く。
「町外れにある屋敷……。確か、地方の成金貴族が別荘として購入したが滅多に訪れず、今は管理人以外誰も利用していないと聞いていたが」
「彼女の話をすべて鵜呑みにするわけにはいきませんが、調べてみる価値はありそうですね」
「ああ。ひとまず、君を馬車まで送ろう」
「まさか、お一人でその屋敷に行かれるつもりですか?」
「彼女の話をすべて信じるわけにはいかないと言ったのは君の方だろう。俺たちが動いていることに気付き、すでに証拠を隠して撤収している可能性もある。城へ戻って騎士団を率いてくる時間はない」
「そうではありません。私も……私も一緒に行きます」
私の言葉に、アルセイン皇子は眉間へ深く皺を寄せた。
「帝国の皇子妃に、潜入捜査のような危険な真似をさせろと言うのか?」
「そう仰るあなたこそ、この帝国で最も大切な皇子さまでしょう」
私も負けじと言い返す。
「ソルリアは皇子妃である私に任された唯一の場所でもあります。それに……」
心臓が煩く高鳴っていた。
さっきまでのような高揚としたものではなく、もっと複雑な感情に。
「それに、私はテレジアンの姫だから」
本当は分かっていた。
あえて言葉にされずとも、心当たりがあった。
各国で問題となっている麻薬の出どころ。
長い歴史だけが取り柄だった我が国が、ある時期から急速に豊かになったこと。
そして、レディー・マルグリッドという名前。
ここまで条件が揃えば、嫌でも一つの答えへ辿り着いてしまう。
「その反応を見るに、あえて私にお話ししてくださらなかったのですね」
「……ルクレティア」
「わかっています。そう、わかっているのです。だから私は平気です。それに、もう二度と目を背けたくはないから」
恐らく、香水の製造者であるレディー・マルグリッドというのは、私がテレジアン王国にいた頃に何度か顔を合わせたことのある、あの……。
「それに、あなたがいるなら問題はありません。だって、あなたが私を守ってくださるでしょう……?」
言葉にした途端、猛烈な恥ずかしさが押し寄せた。
慌てて視線を逸らすと、しばらくの沈黙のあと静かな声が返ってくる。
「絶対に俺の傍を離れないと約束できますか」
てっきり、またからかうような言葉が返ってくるかと思えば、やけに真剣な声色で思わず困惑してしまう。
何度も大きく頷いてみせる私を見つめ、アルセイン皇子は困ったように眉尻を下げた。
「まったく、あなたには驚かされてばかりだ」
そして、そのまま耳元へ顔を寄せる。
そう言って柔らかい微笑みを浮かべると、こちらに向かって手を伸ばしてきた。
そして私の頬へかかった髪をそっと耳へ掛けると、肩からずれかけていたローブを優しく掛け直してくれる。
反射的に体が強ばり、息を吸うのを忘れてしまう。
アルセイン皇子は私の耳元に顔を寄せると、落ち着いた声色で囁いた。
「約束しよう。何があろうと、あなたを守ると」
深く被せられたフードが視界を覆い、彼がどれほど近くにいるのかも、今どんな表情をしているのかも分からない。
ただ、すぐ隣から聞こえるその声だけが鼓動をさらに加速させる。
「あなたは俺の妃ですから」
幾度となく、彼の口から発せられた言葉。
『俺は、あなたを信じます』
『あなたは俺の家族ですから』
それでも、家族から妃に代わるだけで、ここまで動揺してしまうなんて。
石のように固まった身体のまま、私はようやく小さく声を絞り出した。
「……はい」
神様、お願いです。
一刻も早くこの身体の高ぶりを、この熱を、冷まして。




