1 私はお父様の娘です
ひんやりと冷たい大理石の床に跪き、私は男を見上げていた。
大国テレジアン王国の王であり、血の繋がった実の父親であるフリードリヒ・フォン・テレジアンのことを。
「どうしてですか? 私だってお父様の子供なのに。どうしてエミリオお兄様のように、私のことも愛してくださらないのですか?」
大国テレジアン王国の謁見の間にて。王のみが座ることが許される玉座に腰掛けるフリードリヒお父様は口を閉ざしたまま、涙を流しながら跪く私のことを氷のように冷たい瞳で見下ろしていた。
「一体どうして……。私の何がダメだというのですか? 私に、何が足りないと……」
青の瞳を持つ父とは似ても似つかない、私のピンク色の瞳からは止むことを知らない涙が溢れだしていた。幼い子供のように必死になって縋りつく私の姿は、到底大国の姫とは思えないものだった。
「お前のことも、王子のことも、私は一度たりとも愛したことはない」
やっと聞くことができた父の声は、とても冷ややかなものだった。冷酷なテレジアンの国王にはピッタリだとも言えようか。
だけど、そんなことを言っても、お父様はいつだってエミリオお兄様のことを特別扱いしたわ。
お父様自ら付けた名前で呼んで、一緒に食事をして、エミリオお兄様のことを自分の息子として見ていたはず。
少なくとも、遠く離れた場所から二人を見ていた私にはそう見えていた。
お兄様の母親が王妃様で、私の母親が側室だったから? それとも、私が女だからですか?
優秀で聡明で、次期国王のお兄様と違って、私は結婚の道具にしか使えない役立たずだからですか?
いっそのこと、明確なワケを説明してくれたら諦めることができたというのに。
「お前は姫としてのプライドがないのか?」
呆れたようにそう言い放ったフリードリヒお父様。
姫としてのプライド? ええ、ありませんよ。そんなもの、ずっと昔に捨ててしまいました。
私は姫としてではなく、あなたに娘として見て欲しかっただけなのですから。
「どうしてそんなにも冷たい目で私を見るのですか? 私の何が気に入らないと言うのですか? 教えてください、お父様!」
私は、あなたからの愛が欲しかっただけなのに。
「……惨めなやつめ」
私のことを惨めだと言い切ったあなたの目は。
涙を流して跪く娘を見る父親の目は。
あなたと似ても似つかないピンク色の瞳を持つ私が、憧れてやまなかった兄と揃いの瞳を持つフリードリヒお父様の青い目は。
愛情の欠片もない、興味も関心もない、氷のように冷たい目をしていた。
――この日の出来事は、あっという間にテレジアン王国中に広まった。
悪名高いテレジアンの姫君は、傲慢で我儘で、国王である父にたてつくこともいとわない人間なのだと……。
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「姫よ。隣国ヴァレンツィア帝国の皇子、アルセイン・ディ・ヴァレンツィアとの結婚が決まった」
……ついに、私にも来るべきものがやって来たのね。
その日は珍しく、フリードリヒお父様とエミリオお兄様、そして私の三人で食事をしていた。
今まで家族そろって食事を取るということはなかったから、何か大切な話でもあるのだろうとは思っていたが、まさか私の結婚の話だったなんて。
「待ってください、父上! ルクレティアに何も言わずに結婚を決められたというのですか? それはいくらなんでもあんまりじゃないですか!」
「口を慎め、エミリオ。これはもう王国会議で決まったことだ」
突然椅子から立ち上がり大声を上げたエミリオお兄様を軽く睨みつけると、淡々とそう言い放ったフリードリヒお父様。
お兄様はお父様の顔色を見て、何を言っても無駄だと悟ったのだろう。不満そうに眉間を寄せると、「失礼しました」と言って、再度食事を取り始めた。
いつもはお父様の言葉に逆らうことなんてないエミリオお兄様が、私を庇い、フリードリヒお父様の前で声を荒げたのはこれが初めてのことだった。
バカなエミリオお兄様。国王であるお父様に私たちが逆らえるはずないのに。
「国王陛下の命でしたら私は喜んで従います。素敵な嫁ぎ先を見つけてくださって、ありがとうございます」
続けて「嬉しいです」と言い、とびきりの笑顔を作った。
フリードリヒお父様は、一度だって私をルクレティアと名前で呼んでくれたことがない。
それでも、私にとってルクレティアという名前は、とても大切な宝物だった。
この名前はお父様が私にくれた、この世でたった一つのプレゼントだったから。
「そうか」
そう一言だけ呟いたフリードリヒお父様の顔は、心なしかいつもより表情が柔らかいように見えた。まるで何かに安堵したような、そんな顔。きっと、政略結婚で行われる両国の同盟が上手くいくことに対してのものなんだろう。けして、私を想ってのものではない。
お父様は私のことを愛していない。王国の姫として、同盟の道具に使える自分の所有物として私を見ているだけ。
私はそれでも良かった。国のために役立てられるのなら。
この世の何よりも尊敬し、愛する、お父様の役に立てるのなら。
政略結婚だろうが、なんだろうが、私は何だってやってみせる。
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「姫様もついに結婚とはね」
「あの、悪い噂しか聞かない姫様に嫁ぎ先が見つかったことが驚きよ」
「まあ、当然と言えば当然ですが。エミリオ王子様がいらっしゃる以上、ルクレティア姫がこの国の女王になることはないのですから」
「よくよく考えてみると姫様も哀れなひとじゃない。この結婚は他国に人質として売られるようなものよ?」
「陛下も冷たいお方よね。一人娘が他国へ嫁いで行くというのに、見送りにも来られないなんて」
レースとフリルであしらわれた豪華な扇子で口元を隠しながら、私への悪口に花を咲かせている令嬢や貴婦人たち。
全く、誰が誰にものを言ってるのよ。
『ただの令嬢ごときが、姫である私に対して随分無礼な物言いをするのね?』
……そう言ってやりたい気持ちは山々だけど、残念ながら私にそんな勇気は持ち合わせていない。
後々言いくるめられて、全てを私の責任にされるのがオチだろうから。
隠す気がサラサラない様子の令嬢たちが送ってくる熱い視線――もとい、悪意の視線に気づかないフリをしていると、遠くから見慣れた顔の令嬢がこちらに向かって歩いてきていることに気がついた。
「エマ嬢。見送りに来てくださったの? 嬉しいわ」
「ええ、まあ。父に言われて仕方なく来ただけですが」
今までの甘ったるい猫なで声ではなく、冷たく突き放したような声で言い放ったのは私の友人だったはずのエマ嬢。
彼女は侯爵家の四女で、歳は私よりも三つ下の十四歳。妹みたいに可愛がってあげて、この子も私に懐いていたはずだったが……今では、軽蔑のまなざしで私を見つめている。
恐らく、私が他国へ嫁ぐと聞いてもう媚びを売る必要はないと判断したのだろう。
明らか様な態度の変わりように、笑いがこみ上げてきそうになる。
別に構わないけどね。表向きの友情を演じていたのは、私も同じだから。
「ルクレティア」
私の名前を呼び捨てする人物は、この国で――いや、この世界にただ一人しかいない。
「あら、お兄様、来てくれたの」
「ああ。その、父上は……」
「分かってはいたけど、他国へ嫁いで行く娘の見送りにも来てくれないなんてね」
「……陛下はお忙しい人だから」
気まずそうに視線を落として、小さく呟いたエミリオお兄様。
忙しい? 陛下が? まあ、そうね。私たちのお父様はテレジアン王国の偉大なる国王陛下だもの。そこらの父親とはワケが違う。
だけど、他国に嫁いで行く娘を見送れないほど忙しい人でもないはずよ。
「そうでしたね。そういうエミリオお兄様だってお忙しいはずでしょう? わざわざ私の見送りになんて来てくれなくてもよかったのに」
私がそう言うと、エミリオお兄様は柄にもなく寂しそうな目をした。
そんな顔をするお兄様の顔は初めてだったから、少し罪悪感がわいてしまう。
私たちはけして、仲の良い兄妹ではなかったはずよ。行事の時に顔を合わす程度だったじゃない。
問題ごとを起こしてばかりの妹に対して、嫌悪感を抱いていて当然。私のことなんて嫌いだったでしょう? ましてや見送りに来るだなんて本当に信じられないわ。
「ごめんなさい、生意気を言ってしまって。十七年もここで過ごしたのよ。今日の日までは何も感じなかったのに、いざここを去ると思うと寂しくなってしまったの」
「いつでも帰ってくればいい」
「そんなの、国王陛下が許してくださるはずないわ」
最後まで生意気な妹でごめんなさい。
お兄様のことは好きでも嫌いでもなかったわ。強いて言うなら、お父様からの関心が向けられていたお兄様のことが羨ましかった。
「もう行くわ。見送りに来てくださってありがとうございます。嬉しかったです、エミリオお兄様」
これは本心だ。
血の繋がった親族が誰も来てくれなければ、それこそ私は惨めな姫として見られてしまっただろう。
もしかすると、テレジアン王家の最も惨めな姫として歴史に刻まれていたかもしれない。……まあ、手遅れなような気もするけれど。
惨めな姫として名を残すくらいなら、最も極悪な悪女として名を残した方が幾分もマシだ。
「……さようなら、テレジアン王国」
ヴァレンツィア帝国行きの馬車に乗り込んだ後、小窓越しに向けられていたお兄様の視線に対して、私が答えることはなかった。
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「お初にお目にかかります、ルクレティア・フォン・テレジアン姫様。私はロザリア公爵家当主、イシス・ロザリアでございます」
長時間の移動を終えてヴァレンツィア帝国に到着すると、一番に出迎えてくれたのはロザリア公爵家の当主と名乗る男だった。
知的な雰囲気が漂う中年男性の公爵は私に向かって手を差し伸べる。
「初めましてロザリア公爵。お出迎えどうもありがとう」
ロザリア公爵の生きた年数だけ皺が刻まれた手を取り、私は馬車から降りた。
ヴァレンツィア帝国は、他国と比べて比較的新しい国にも関わらず経済に恵まれており、とても栄えている国だった。
ヴァレンツィアの皇帝はとても知性に恵まれた人で、政治で右に出るものは居ないと聞いたことがある。そして、そんな父の優秀さを受け継いだと言われているのが、私の夫となるアルセイン・ディ・ヴァレンツィア皇子だ。
歴史あるテレジアン王国が同盟を結ぼうとしたのも、経済が潤っているヴァレンツィア帝国からの支援が欲しかったから。そして、まだ設立されてから日が浅いヴァレンツィア帝国は古くから存在するテレジアン王国の後ろ盾が欲しかった。
その同盟を結ぶための道具として、姫と皇子を結婚させる。
至って普通の、互いに利益を求めた国同士の政略結婚だ。
つもり私は、ヴァレンツィアからの経済力を求めた父によって、テレジアンより献上された貢女というわけだ。
「皇帝陛下は中でお待ちでございます。それまでは私が案内を務めさせていただきます」
「公爵直々にだなんて、光栄ですね」
「当然でございます。テレジアン王国の姫君が我がヴァレンツィア帝国へ嫁がれてきたこと。これは、ヴァレンツィア帝国民皆の喜びです!」
「なんだか照れますね、ありがとうございます」
「エヘヘッ」とあざとく笑ってみると、ロザリア公爵は私を上から下まで舐めまわすように見た後、「ほっほっ」と自身のあごひげを触りながら微笑んだ。
ハハッ、今、私を品定めしたのね? バカな姫がやって来たとでも思っているのでしょう?
それでいいわ。せいぜい私のことを見下していてちょうだい。そっちの方が、こちらとしても動きやすいもの。
「皇子殿下はとても素晴らしいお方です。右肩下がりだったこの帝国を大帝国とまで言わせたのは、皇帝陛下のお力もありますが、やはり皇子殿下のお力があってのことでしょう。まだ若いというのに、彼にはそれだけの力がある」
「公爵は陛下と皇子を尊敬されているのですね。私もお会いするのがとても楽しみになってきました」
「ええ、そうでしょう! それになんといっても、皇子殿下は非常にハンサムなお方です! きっと姫様も気に入るでしょう!」
「まあ! ふふっ、それは楽しみですね」
ロザリア公爵がどれほどまでにヴァレンツィアの皇帝と皇子を尊敬しているのか、その計り知れない忠誠心の深さがこの少ない会話で手に取るように分かる。
長く続く廊下に聳え立つようにして存在する大きな扉の前まで来ると、ロザリア公爵はピタリと足を止める。
「陛下、イシス・ロザリアでございます。ルクレティア・フォン・テレジアン姫をお連れいたしました」
公爵の声が響いてすぐに、扉の向こうから「通せ」と静かな声が聞こえた。恐らく、皇帝陛下の声だろう。
「姫様」
「ええ」
扉の前に立っていた衛兵によって、ギィイーと音を立てながら開く扉。私は足を進めて、スカートを優雅につまみ上げると、礼を取った。
「ヴァレンツィア帝国の太陽にご挨拶申し上げます。お初にお目にかかります、陛下――」
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