3.霜烈、打たれる
皇帝と皇父の御前であることも忘れて、燦珠は声高く叫んだ。
「なんでそうなるの!?」
彼女の頭の中で、納得と怒りと恐怖が同じ強さで渦巻いている。
(やっぱり! 絶対何か言い出すと思った!)
霜烈がやたらと畏まる時は、そうなのだ。前回は、《偽春の変》の後、正体を明かして皇帝に死を願った時のこと。あの時だって、燦珠がいなかったらどうなっていたことか。
今回は、死ぬ、とはっきり言ってこそいないけれど、だからといって安心できない。ことは、科挙の不正に関する嫌疑なのだ。いったいどれほど厳しい罰がくだされるものか、分かったものではない。
「そなたが新しい鐘鼓司太監か。皇帝の寵を笠に着ての専横は聞こえておるぞ……!」
ほら、興徳王だって。霜烈の登場に注意を逸らされてくれたのはほんの一瞬だけ、皇父の怒りは、むしろいっそう激しく燃え盛っているように見える。
激しい怒気を浴びせられて、燦珠も、香雪でさえ息を呑む。居並ぶ妃嬪たちはなおのこと、彼女たちが叱責されているかのような悲鳴が聞こえ、慌ただしい衣擦れの音が沸き起こる。
「皇帝の量刑に口を挟むのは甚だしい僭越である。しかも、論点をずらして罪の在り処を誤魔化そうとは。どうせ打たれることはないと高を括っているのであろうが──」
「量刑に口を挟んでいるのは父上でしょう。ここは、私にお任せを」
平伏する霜烈に、興徳王の糾弾はいつまでも浴びせられそうだったけれど──皇帝の声が遮った。父君に対しては意外なほどの鋭い声音に、興徳王は驚いたように目を見開き、燦珠の胸には希望が灯る。皇帝が、彼女のほうをちらりと見た気がしたからなおのこと。でも──
「楊太監の言はもっともである。杖刑三十を申し渡す」
皇帝の判決は、冷たく無常に響き渡った。
「そんな。どうしてですか!?」
「翔雲。今、何と言ったのだ……?」
燦珠と興徳王の声が重なり、皇帝の視線が、もう一度燦珠を撫でる。わずかに揺らいだその眼差しは、後ろめたさゆえだったのかどうか。それでも、役者に対しては過分の配慮だったのかもしれない。彼が応じたのは、父君に対してだけだった。
「己の職責に対する見事な覚悟かと。確かに罰せずに見過ごせることではございませぬ。──妃嬪たちも留まり、見届け自戒せよ。後宮の秩序と風紀が守られるべきということ、改めて心するように」
皇帝が言い終えると、杖を携えた宮衛の宦官たちが進み出て、燦珠と香雪を押しやった。まだ床に伏せたままだった董貴妃仙娥も、慌てて立ち上がって妃嬪の列に戻る。
「楊太監……!」
玉座の前の空間は、今や刑場になろうとしていた。腕を取られて引き起こされる霜烈の姿に悲鳴を上げるけれど、誰も聞いてくれそうにない。目の前で杖刑が行われると聞いて、妃嬪たちも平静を失っている。後列に下がろうと押し合う者、早々に失神した者、それに引きずられて倒れる者──狐に襲われた鶏小屋を思わせる騒ぎの中、当の霜烈だけが美しい微笑を保っていた。
「賜服を汚す訳にはいかぬ。脱いでも良いか?」
霜烈の申し出に、宦官たちは軽く顔を顰めて顔を見合わせた後、小さく頷いた。蟒服に施された金銀の刺繍と玉帯が煌めいて、霜烈から剥ぎ取られる。
(防具になるような厚みじゃないわ、分かってるけど……!)
絹服一枚を着ているか否かで、傷や痛みはさほどは変わらないだろうとは、思う。でも、上衣を脱ぎ去った霜烈の姿は頼りなく見えて、燦珠の胸は締め付けられる。衆人環視の中で、そんな格好で跪かされ、両腕を別の宦官に固定される屈辱はどれほどのものだろう。
傍で見れば、宮衛の宦官が振り上げる杖は恐ろしいほど太くて。それが振り上げられて──
「燦珠、目を閉じていなさい。見るものではないわ」
硬い木が人の骨と肉を打つ、嫌な音が響いた瞬間に、燦珠の背中の生地がそっと引っ張られた。
耳元に囁いてくれたのは、華麟の声だ。燦珠と香雪を、妃嬪の列に紛れられるようにさりげなく誘導してくれたらしい。その配慮は、とてもとてもありがたいけれど。燦珠は無言で首を激しく振った。
(私のせい、だもの。目を逸らすなんて……!)
霜烈は、悲鳴も呻きも上げなかった。それでも、噛み締めた唇や、杖が背や腰や腿に打ちおろされる度に顎に力が入るのが見えるから、苦痛に耐えているのが分かる。美しい人は何をしても美しい、だなんて、普段だから言えることだ。いくら綺麗でも、痛みと屈辱に歪んだ顔なんて見るに堪えない。でも──これは燦珠の招いたことだ。
(私が、翠牡丹を失くしさえなければ)
秘華園の役者が翠牡丹を悪用した、だなんてことが起きては絶対にいけないのだ。調べれば、燦珠も香雪も無実が証明されるはずだけど、それでは興徳王が引き下がってくれそうになかった。誰かが、ひとまずは罪を被らなければならなかったのだ。
盗んだ者が悪い、とか。背後にいたであろう仙娥のせいだ、なんて言えはしない。霜烈が来てくれなかったら、打たれているのは燦珠だったもしれないのだから。だから、果てしなく長い恐ろしい時間を、しっかりと見て、聞かなければ。それによって霜烈の苦痛を肩代わりなんてできないのを、分かっていても。
玉座の高みからは、興徳王の苛立ちの声が聞こえてくる。
「これで終わりにするつもりではなかろうな。科挙の不正に関わるのだぞ……!」
「無論」
父君に応じる皇帝の声が、依然として苦々しい苛立ちに満ちているようなのが、唯一の救いだった。皇帝にとっても進んで下した罰ではないのだと、信じることができる。何より、燦珠は自身の潔白を知っている。
「後宮の風紀を正す姿勢は見せました。これで、外朝への面目も立ちましょう。香雪──沈貴妃や梨燦珠の調査はもちろん、会試の出題も、受験者のこれまでの答案も精査します。それで異論はございますまい」
興徳王が黙した後は、ひたすら恐ろしい杖刑の音だけが響いた。
そしてその音がようやく止んだ時、霜烈はひとりでは立ち上がれない有り様だった。 駆け寄って助け起こしたかったけれど、燦珠には許されなかった。これから取り調べを受ける者が、勝手な動きをしてはいけないから──というか、足が震えて動くことができなかっただ。




