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【書籍1、2巻発売中】煌めく宝珠は後宮に舞う  作者: 悠井すみれ
第二部 四章 悪意の蛇、絡みついて牙を剥く

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4.燦珠、耳をそばだてる

 渾天《こんてん》宮に召されてから数日、燦珠《さんじゅ》は秘華園《ひかえん》の自室に閉じこもっていた。これだけ長い間、華劇《ファジュ》の練習をしていないのは、彼女の人生で初めてかもしれない。風邪を引いても怪我をしても、できることをやろうとしては止められるのが燦珠だったから。


 でも、さすがに今は歌や舞に励む気にはなれない。狭い自室ではできないというだけでなく、彼女は品行正しく謹慎していなければならないのだ。練習が品行悪(・)い(・)かどうかは別として、そのように見せなければ。


 寝台の上で膝を抱えて、燦珠は隼瓊《しゅんけい》にことの次第を報告した時のことを何度となく反芻している。秘華園に戻ってすぐに、彼女は師であり、霜烈《そうれつ》の親代わりでもある方の前に跪いて詫びていたのだ。


『申し訳ありません! 私のせいで、楊《よう》太監《たいかん》が……あの、段《だん》太監にも謝りたくて──』

『あの子は秘華園を守るためなら何でもする。そなたでなくても同じことをしただろうから、落ち着きなさい。私たちも、分かっている』


 隼瓊は、燦珠を宥めようとしてくれたのだろう。誰よりも長く、かつ身近で彼を見守ってきた人の言うことだから、説得力も十分にあった。でも、燦珠は落ち着くことなんてまったくできなかった。


『秘華園全体の話に、なりますか……!? 《探秘花《タンミーファ》》が取り止めになったりは──』


 後宮の倣いや政治の機微に通じている隼瓊の目から見て、どれだけ厳しい状況なのか、気になって仕方なかった。役者の不祥事が問題視されるとして、疑いがあった段階でもう終(・)わ(・)り(・)なのか、まだ希望はあるのかどうか。


(皆、練習して来たのに……!)


 これで公演は中止となれば、外朝《がいちょう》や興徳王《こうとくおう》は、秘華園とはやはり不正の巣窟だと考えるのだろう。そんなことにはならないと、隼瓊に言って欲しかったのだけれど。


『そなたと沈貴妃様の潔白は、信じている。陛下も証明してくださるだろうとも。……あとは、そなたの翠牡丹《ツイムータン》を盗んだのが、せめて役者でなかったことを祈るしかないが』


 年経りてなお美しい役者は、安易な慰めを口にしてはくれず、むしろ燦珠にまた新たな懸念を気付かせてくれたのだった。


(科挙の不正に関わった者が、合格者を祝福するなんて、いけないわよね……)


 膝を抱えたままの格好で、ころりと転がりながら。燦珠は考え続けている。彼女自身の潔白が証明されても、秘華園自体が無罪放免となるかはまだ分からないのだ。溜息混じりの呟きが、頼りなく褥《しとね》に零れる。


「銀花《ぎんか》殿の子たちと、話せたら良いんだけど……」


 隼瓊の前から辞した後、様子を窺っていたらしい黎《れい》姸玉《けんぎょく》と鉢合わせたのも、燦珠の胸に刺さっていた。公主役の、声が綺麗な役者は、けれどその声をひと言も聞かせてくれなかった。燦珠と目が合うなり愛らしい頬を強張らせて素早く踵《きびす》を返してしまったから。


(董《とう》貴妃《きひ》様はあの子のご主人だものね。どう、思っているんだろう)


 科挙の競争相手を出し抜くべく、主従揃って不正に手を染めた、と思われていてもおかしくない。仙娥《せんが》の演技とも言えない演(・)技(・)を見てくれていれば話は変わってくるだろうけど、あいにくあの場にいた役者は燦珠だけだった。それに──


(……見ていても、それはそれで気まずい、わよねえ)


 仙娥の嘘を認めるということは、香雪を陥れようとしたと認めるということでもある。では、例の問題流出に使われたと(・)い(・)う(・)こ(・)と(・)に(・)な(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)翠牡丹《ツイムータン》は、いったいどこから出て来たのだろう。


(役者は翠牡丹《ツイムータン》を悪用しないと思うんだけど……)


 公主役に抜擢されて、やる気を燃やしていた姸玉を思い出して、燦珠はころころとのたうち回った。

 姸玉本人はもちろん、銀花殿の役者たちだって、仲間のことは応援したいだろう。だから、危ない橋は渡らないと思いたい。悪いのは仙娥とその取り巻きだけで、役者たちは一切関わっていないということになれば良い。でも、皇帝はいったいどこまで明らかにしてくれるのだろう。


(私は、まだ尋問もされてない……香雪《こうせつ》様からってこと? どんなお気持ちだろう。それに……楊太監は?)


 被疑者同士が接触できないのは当然として、霜烈の容態も聞こえてこない。華麟《かりん》を筆頭にした妃嬪《ひひん》が何人か、そして役者からも見舞いを送った者がいるというけれど、誰も本人に会えていないとか。そんなに具合が悪いのか、弱ったところを見せたくないのか、謹慎のつもりなのか。──何も分からないから、不安だけが募っていく。


 燦珠が、枕に向かって溜息を吐いた時、扉を叩く音と共に、とても甘(・)い(・)声が響いた。


「燦珠、今、良いかな?」

「──芳絶《ほうぜつ》さん?」


 扉越しにも良い香りが漂いそうな声の主は、顔を見るまでもなく、分かる。慌てて髪と服の乱れを整えてから燦珠が戸を開けると、藍《らん》芳絶の香り立つような美貌が、今日も艶やかに微笑んでいた。


「息が詰まるだろう。私と一緒に、散歩に出よう」

「でも、私──」


 芳絶の声と笑顔の前では、たいていの者は花に惹かれる虫と同じだ。一も二もなく頷いてしまうだろう。でも、今の燦珠はさすがにそこまで軽々しくなれない。


「楓葉殿《うち》の貴妃様と沈《しん》貴妃様には何の接点もない。よって、私が君を庇う理由もない。誰も責めたりしないさ」


 優しく言い聞かされてなお、燦珠は首を振るつもりだった。でも、芳絶は彼女の耳に唇を寄せて、抗えない呪(・)文(・)を囁いた。


「──楊太監のことだよ」


      * * *


 燦珠《さんじゅ》の手を引いて、芳絶《ほうぜつ》は秘華園のはずれの一角へ足を向けた。長身の芳絶は手指も長く、包み込まれて絡め取られるようで体温が上がる。


(やだな、掌に汗が……)


 芳絶に気付かれませんように、と思いながら、燦珠はおずおずと口を開いた。ちょうど、ここまでくれば人の目も耳も気にして良いだろう、という奥まったところに辿り着いていた。


「あの、楊太監に会えたんですか? お見舞いに行っても誰も会えなかったって──」

「ああ、私は特別だから」


 勇気を出した直接な問いに、思った以上に直接な答えが返って来て、燦珠は声を詰まらせた。


「それは……あの、どういう……!?」

「恋人同士、とは思わないのかな? うちの貴妃様も大方の役者も、そう思っているようだけど」


 悪戯っぽく微笑む流し目には、どこか探るような試すような含みもある、気がした。そう、確かに。とても似合いの綺麗な対《つい》だと見蕩れた上で、燦珠はふたりが想い合っているとは思っていなかった。ただ──それは、気付いて良いことだったのだろうか。指摘したら、失礼に当たらないだろうか。でも、気になって仕方ない。


「芳絶さんは──」


 さっき以上の勇気を振り絞って開こうとした燦珠の唇は、けれど芳絶の指先によって縫い留められた。


「ごめん、ちょうど時間みたいだ」


 何の時間かは、尋ねることができなくても明らかだった。


 秘華園をほかの区画と分ける壁を越えて、天から妙なる調べが降ってくる。虹や彩雲《さいうん》を音にしたらかくや、というような美しく煌めくような声。乾いた大地に染み入る慈雨《じう》のように聞く者の心を潤わせ、空を仰いで感謝を捧げたいとさえ思わせる、天の恵みのような歌。


 燦珠の脳裏に、不意に後宮の地図が浮かび上がった。芳絶が連れてきたこの場所が、いったいどこにあるのか、ようやく分かった。


(そうだ……ここ、楊太監の住まいに近いんだ……!)


 霜烈が、唄っているのだ。今、この時に。後宮の殿舎の建物や壁を隔てても、すぐそばで。詞は、切れ切れにしか聞こえてこない。でも、ほんの何文字かでも聞き取れれば、全体を思い起こすことはできる。



 水月為鏡 映影美人  水面に映る月は貴方を映す鏡

 噪蛙驚鳥 落葉破月  蛙の声に驚いた鳥が葉を落とし月影を乱す

 至風上天 飛花列辰  天高く吹く風が花を星にまで舞い上げる

 翔向月亮 許落在爾  花に倣って月に跳べば 貴方のもとに下りられるだろうか



 《月翔花《ユエシャンフア》》──水面に映る月に恋人の面影を見て、空の月を見上げては、遠い恋人のもとに繋がっているのではないかと思う。美しくも悲しい歌だ。燦珠が空を見上げて聞くことを想定して選んだに違いない。会えないけれど、会いたいと思ってくれているのだと、彼は歌を通じて伝えてくれている。


「彼がね、今日のこの時間に唄うから君をここに連れて来いって。何を言っているのかと、思ったものだけど。──燦珠?」


 芳絶の指が触れて初めて、燦珠は頬が濡れているのに気付いた。恥ずかしくて拭っても、後から後から涙が溢れてどうにもならない。だって、霜烈は無事だったのだ。少なくとも、唄える状態ではあるのだと確かめられた。


「すみません。……あの、私っ、安心したから……ありがとう、ございます……っ」


 嗚咽で詰まった濁った声でとぎれとぎれに訴えると、芳絶は優しく燦珠の頭を撫でてくれた。そして、いまだ聞こえる霜烈の歌を妨げないようにだろう、ほとんど唇を動かすだけの囁きで、燦珠に伝える。


「彼からは伝言も預かっている。いくらでも唄ってやるから大人しくしているように、と」


 霜烈の声の最後の一音とその余韻、さらには芳絶経由の伝言を、燦珠は噛み締めた。燦珠は、できることなら毎日でも霜烈の歌を聞きたいと思っているし、彼もそれを知っていて恐れている。その彼がいくらでも、というのはよほどのことだ。


「大人しく……?」

「董貴妃様に食って掛かったりしないように、じゃないかな」


 芳絶に言われて、燦珠は大きく目を見開いた。


(そうだ、その手があったわ!)


 燦珠が浮かべた笑みに、握った拳に。何か不穏を感じたのだろう、芳絶が長身を軽く屈めて彼女の目を覗き込む。


「燦珠、聞いてた?」

「はい! ちょうど、ぜんぶ董貴妃様がやったことなら良いなって思ってたんです!」

「燦珠」


 聞いていなかったのか、と暗に圧をかけられても、燦珠の勢いは止まらなかった。


「董貴妃様に食って掛かっても、認めてはくださらないですよね。分かってます、ちゃんと。でも──」


 霜烈が釘を刺してきたのは、燦珠の性格と実(・)績(・)を知っているからだ。《偽春《ぎしゅん》の変》では偽皇子の身辺を探り、皇太后の前で亡き驪珠《りじゅ》を演じて誤りを悟らせた。──そう、あの時の燦珠は、事態を座視するだけではなかったのだ。


(調べられるのを待っているだけじゃ、駄目なのよ。役者のほうで、正しい行動を示さないと!)


 あの時よりも、今のほうが秘華園は厳しい立場に置かれているのだ。自ら疑いを晴らすくらいでなくては、胸を張って祝宴に参加することなどできはしない。被疑者である燦珠だけでは難しくても、芳絶の協力が得られるなら、もしかしたら。


「翠牡丹《ツイムータン》について、気になってたことがあるんです。もしかしたら、そこから董貴妃様を揺(・)さ(・)ぶ(・)れ(・)る(・)かも……!」

「へえ……?」


 燦珠の熱意と必死さを汲んでくれたのだろうか。芳絶の目が、興味深げな色を湛えて煌めいた。

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2025年1月24日 角川文庫より1、2巻同時発売!

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