燦珠、港街に発つ
秘華園の大庁のひとつに、戯子たちが詰めかけている。
燦珠を始めとした若い娘たちが幾重にも列を作って並ぶのに対するのは、隼瓊と霜烈だ。性を超越した美貌のふたりが並ぶ見ごたえある光景に、あちこちで感嘆の溜息が漏れている。燦珠も例に漏れず、遠慮なく見蕩れては頬を緩めている。
(隼瓊老師と楊太監が一緒にいると、やっぱり豪華!)
神々しいとさえ思える眩さを前にすると、伏し拝みたくなるほどだ。寿命も延びているのではないかと思う。
とはいえ、戯子たちは眼福にあずかるためだけに集まっているのではない。この場は、次回の公演に向けた配役を発表するためのものなのだ。
隼瓊の、磨き上げた玉のような艶のある声が、涼やかに響く。
「曙港にて披露する演目は《太監征海》、栄和の威光を知らしめるのに相応しかろう」
演目については、かねてから燦珠たちも予想していたものに相違なく、異論の余地もまったくない。戯子たちが頷くと、髪を飾る花や簪や巾がそこここで揺れて、華やかな色彩がさざ波を起こす。
(やっぱり、それしかないものね!)
曙港は、栄和の東方の沿岸に位置する港街。朝貢の使節が海を越えて来訪することを許された、数少ない都市のひとつでもある。
栄和の徳を慕って臣下の礼を取らんと訪れる彼らの労を手厚くねぎらってこそ、天下の中心に君臨する大国の威を示せるというもの。この度、秘華園は曙港を訪れる使節団の前で演じるように命じられた。朝貢国に下賜される封号や衣冠、絹や磁器や宝飾品と同格の扱いとも言える、たいそう名誉な役目なのだ。と、霜烈が言っていた。
《太監征海》は、時の皇帝の命を受けて、大船団を率いて諸国を巡った太監──宦官の黄惇将軍の活躍を描いた演目だ。栄和の国が最も勢力を誇った時代の物語でもあるし、まさに将軍に朝貢を促されて栄和に従った国もあるというから、演じるとしたらそれだろう、とは誰もが思いつくことだ。
問題は、誰がどの役を演じるか、になるのだけれど──
「将軍役はこの私、宋隼瓊が務める。天妃役は、黎姸玉に」
黄惇将軍は、華劇では臉譜を施した浄役として表される。隼瓊なら、きっと威厳と品格を兼ね備えた美々しい武将を演じるに違いない。
(ああ、早く見たい……!)
天妃は、航海する者を守護する海の女神。黄惇将軍の時代から変わらず、今も、漁師や船乗りの間では篤い信仰を集めている。華劇の筋書きでも、要所要所で将軍に助けを差し伸べる役どころだ。高貴な女神とあって、打よりも唱の比重が大きいから、姸玉には適役だろう。
「光栄です。頑張ります」
隼瓊との絡みも多い役に、本人も気合十分なのだろう。よく通る声を響かせた姸玉の頬は赤く染まっていた。若い娘役からの熱い眼差しを、にこりと笑んで受け流してから、隼瓊はさらにいくつかの配役を述べていく。
「金波公主は──」
と、燦珠の視界にちらり、と輝きが閃いた気がした。
輝きの正体は、霜烈の寄こした流し目だ。ほかにも大勢の戯子がいる中で、あからさまに燦珠だけを見つめたりはしないけれど。彼の容貌はあまりに整って美しいから、控えめな笑みを一瞬向けられただけで雲間から陽光が射したかのような眩しさを感じるのだ。
(……もしかして!?)
金波公主は、天妃の眷属の仙女だ。公主とつくのは龍王の娘という説もあるからで、青衣の役どころではない。それどころか、天妃の命のもと、将軍の旅路を妨げる海の怪物を退治し、まつろわぬ蛮夷の兵を蹴散らす、派手な打が見せ場だ。
正直言って、燦珠には合った役だと思うし、できるものならやってみたい。
市井の茶園と同様、秘華園でも年功序列や主の力関係によって、配役に何かと気を遣うものだとは聞いているけれど──霜烈の目配せは、そういうこと、なのだろうか。
燦珠が身を乗り出したのに気付いたのか、隼瓊が宥めるような苦笑を浮かべた。そしてすぐに告げてくれる。公主を演じる、戯子の名を。
「梨燦珠に」
「──っいやったあああぁああ!!」
燦珠が思わず上げた歓声は、大庁に響き渡った。隼瓊と霜烈と、それからその場の戯子全員の注目を浴びて、慌てて口を手で塞ぐ。
(す、すみません……)
何度も声を出すとかえって悪目立ちしてしまいそうだったから、燦珠は手を口にあてた格好のまま、身体を縮めることで謝意を表した。戯子たちが漏らす忍び笑いは、呆れだけでなく微笑ましさも入っている気がするから救われる。
隼瓊も、無作法は咎めず、なかったことにしてくれたようだった。冴えた輝きを放つ玉を思わせる声と眼差しが、集った戯子たちを撫でる。
「──衣装などの輸送は鐘鼓司にて手配するが、身の回りの品は自分でまとめておくように」
曙港までは船での旅になること。船上で練習することもあるだろうけれど、安全のため、霜烈や船員の指示に従うこと。公演は、使節の受け入れと朝貢品の管理を司る役所、市舶司で行われること。
今後の予定の概略を伝えたところで、隼瓊はこう締めくくった。
「後事は藍芳絶に任せる。行く者も残る者も、各々、秘華園の品位を貶めることがないように心せよ」
尊敬すべき老師からの命令に、戯子たちはいっせいに是的、と応えた。
* * *
ほかの娘たちに混ざって大庁を出ようとする燦珠の背を、耳慣れた友人たちの声が追いかけてくる。
「燦珠、抜擢おめでとう」
「燦珠の金波公主、見たかったなあ」
率直な祝福は、喜燕から。残念そうな溜息は星晶のものだ。いずれもとても嬉しい言葉だから、燦珠は振り向きながらにこりと微笑んだ。
「ありがとう。そうね。私も見て欲しかった……! こっちにいるうちに、あるていどは練習するんでしょうけど」
「衣装があるのとないのとでは、だいぶ違うものねえ」
先ほど隼瓊が呼んだ中に、喜燕と星晶の名は入っていなかった。
秘華園の戯子がすべて、曙港に発つわけではない。妃嬪の無聊を慰めるのも大事な役目だし、後宮しか知らない娘が長旅を不安に思うなら無理強いはしない、というのが隼瓊と霜烈の方針だった。
そのほか、星晶は華麟が手放そうとしないし、喜燕も香雪の傍についていたいと望んだ。芳絶については、秘華園の監督のほか、周貴妃鶯佳が我が儘を言い出さないかにも目を配ってもらう必要もある。
(人数が限られるから、私が大役をもらっても大丈夫だったんでしょうね)
金波公主の役に相応しい花旦は、燦珠だけではないだろう。でも、ほかの娘たちは曙港行きを良い考えだと思わなかったらしい。
海の物語を海の近くで演じるのは素敵なことだと思うのに不思議なこと──でも、燦珠にとってはこの上ない僥倖だった。
「評判が良かったら、別のところでもやったりしないのかしら。もっと近いところとかで」
「そうなると良いけど。華麟様もお供なさるような行幸で──ってことになれば、私も行けるんだけどね」
そうだ、遠征に行かない理由も色々だった。喜燕も星晶も、女主人と一緒なら知らない場所でも喜んで演じるだろう。貴妃が後宮を出るとしたら、確かに皇帝の行幸に同行する形になるのだろう。
(天子様が、それくらい秘華園を認めてくださったら良いなあ……!)
それには、霜烈の働きも大きく関わってくるのではないか、という気がする。
何しろ彼は、このたび市舶司太監なる役を拝命したというから。朝貢の品の交易に関わる不正や、沿岸を寇しているという海賊の取り締まりまで期待されているらしい。芝居が好きなだけの人なのに、とても気の毒だと思う。
(偉くなってしまうと大変なのね……)
思えば、曙港行きを初めて聞かされた時、霜烈の美貌は深い憂いに翳っていた。
『──秘華園育ちの娘たちは、長旅を恐れ厭うかもしれぬ。そなたは、一緒に来てくれるか? 黄惇将軍が征き、天妃が見守り金波公主が駆けた海だ。そなたは興味があるのではないかと思うのだが』
いっぽうで、彼が語り掛ける声は常にも増して耳に心地良く燦珠を酔わせ、涼やかなはずの眼差しにも熱がこもってもいた。その理由は、分かる気がする。
この大役を果たせば、先帝の御代以来、秘華園に纏わりつく汚名のいくらかを払拭できる。霜烈の表情の硬さは、緊張ゆえでもあったはず。栄和の威光を示す舞台を成功させつつ、新たに課された任務も全うしなければ、という。
『……その──』
燦珠の返事を待つ間、霜烈が不安げな気配を漂わせたのは──彼が思い描く舞台に、彼女の唱や舞が必要だったから、だろう。嫌だと言われたら、戯子の数を揃えるのに苦労するかも、と恐れたのだ。
『海を越えて集まるのは異国の商品だけでなく、歌も舞も芸も、新たな刺激が得られるであろう。食べ物も衣装の流行も、都とは違って──』
『もちろん、行きたいわ!』
地上に落ちた月のように美しく、しかも華劇に関しては恐ろしいほど目の肥えた人に望んでもらえるなんて、何という名誉、何という光栄だろう。感動に打ち震えたことで返事が遅れてしまったのを取り戻すべく、燦珠は食いつくような勢いで快諾した。
『延康を離れた余所のところでも、芸が通じるか確かめたいもの。ほかの国の人にはどう見えるのか、知りたいわ!』
『そうか。良かった』
そうして、嬉しそうに微笑んだ霜烈の美しさは目が眩むばかりの輝かしさで。そんな笑顔を間近に見せてもらった以上、期待に応えるだけの演技を見せなければ、と燦珠は奮起したのだ。
──そういう経緯だから、練習場に向かう足取りもいつも以上に軽く、跳ねるよう。その浮かれようは傍目にも明らかなようで、星晶がおかしそうに笑う。
「燦珠、楽しそうだね」
「だって私、延康を出るのは初めてだもの。それも、芝居のために、だなんて! 隼瓊老師も楊太監もみんなもいて、後宮の外の人にも唱や舞を見てもらえるのよ? 楽しいでしょう!」
弾む心を、抑えることができなくて──言い切ると同時に、燦珠は回りながら高く跳んだ。
カクヨムコンテスト受賞記念に書いた、予告的な番外編でした。
新章の構想はあり、準備中でもありますが、管理の都合上、以降のエピソードはカクヨムオンリーとさせていただきます。
第一部までの書籍版は、2025年1月24日角川文庫より1、2巻同時発売です。大幅に加筆・改稿しておりますので、よろしければお手に取ってください。