秘華園、宮市に酔う①
第一部の直後のモブ視点のエピソードです。全2話。
その日、後宮の婢や宮女や宦官に、銀紙でできた花が配られた。彼女自身の名を表すようなその紙細工を握りしめて、小花は同輩の婢たちが囁くのを聞いた。
「宮市で、銭の代わりになるんですって」
「宮市って?」
「妃嬪のどなたかの発案で、秘華園で市の真似事をするんだって」
「屋台を建てて、役者の方々に売り子をさせて──」
「それは、貴妃様がたのお楽しみのためでしょう?」
「でも、ほら。市といえば賑やかなものだから」
「ああ、背景が必要ってことね」
秘華園は、後宮の最奥にある役者の園だ。
男だけが舞台に立ち、女役も男が演じる市井の芝居とは逆に、後宮では男の役も女が演じる。凛々しい男役も、彼女たちを引き立てる優美な娘役も、妃嬪に劣らぬ美形揃いで、歴代の皇帝や皇后を魅了してきたという。小花たちのような身分低い使用人にとっても、舞うように軽やかな足取りで後宮を行き来する役者たちの姿は憧れの的だ。
「背景でも良いじゃない。秘華園に入れるなら」
だから、誰かのうっとりとした呟きに、ほかの者たちはうんうんと頷いている。
秘華園には皇帝その人のための劇場もあるし、庭園のいかなる一画も、趣向に応じて舞台になるように造られているとか。つまりはどこをとっても美しく整えられた場所だから、婢や宦官でさえ見た目が良くない者は入れないとまことしやかに言われている。
実際は貴人の目に入らないところでの雑務は色々あるのだけれど、秘華園の壮麗さも華劇の絢爛さも、基本的には小花たちには無縁のものなのだ。
夢のような空間に足を踏み入れられる。さらには、美しい妃嬪や役者たちを間近に見ることができるかもしれない。その想像が眩しいのは小花にも分かる。けれど、何より彼女の心を捉えたのは違うことだった。
(好きなものを買って良いって……お菓子も食べ物も揃ってるって……!)
生まれてこの方、小花は自分のために買い物をしたことはなかった。生家は貧しく、生活に必要なもの以外を買うことは思いもよらなかった。十三で後宮に仕えるようになってから三年、この間の給金もすべて実家に送っている。
ごくまれに、何かしらの慶事に合わせて下々にまで金品が賜与されることもあるけれど、それも小花の手元に残して良いものではない。
でも、この度の宮市では話が違う。
この催しは裕福な妃嬪の思い付きであって、商売ではない。後宮の中で金を儲けるのは憚りがあるからか、秘華園に金などという卑俗なものは似合わないからか、通貨の代わりに紙の花まで用意されているという凝りようだ。
この花は、宮市の間に使い切らなければただの紙切れになる。残していてもどうしようもない。だから──小花が好きに使って、良いのだ。
(こんな、夢みたいなことがあって良いの……!?)
実は何もかもが都合の良い夢であって、目を覚ませば狭く固い寝台にいるのではないか。密かに疑っていた小花は、恐る恐る秘華園に足を踏み入れた瞬間、さらに目を疑うことになった。
彼女の目の前に広がるのは、延康の都の一角さながらの「市場」だった。
即席で建てられた屋台から漂うのは、菓子の甘い香り、肉の脂の香ばしい香り。そこに、南海から渡ってきた果実や香辛料、西域から砂漠を越えて献上された香木の芳しい匂いが混ざる。
色とりどりに並べられたのは、食べ物だけではない。装飾品も、木を彫った素朴なものから、小さいとはいえ真珠や珊瑚、翡翠や瑪瑙をあしらったものまで様々に取り揃えられている。広げられて、後宮の建物の華麗さにもまけじと青空にはためく布は、各地方に特有の模様や刺繍の美を競い合っている。
四海四方のすべての産物が集まる、栄和国の都の賑わいが、後宮の最奥──秘華園に再現されている。
妃嬪や侍女たちの華やかで軽やかな笑い声。身分低い使用人たちの歓声や驚きの声。それらが混ざり合って織りなす騒めきも、市井の街角ととても似ている。
違うのは、さすがに生の肉や魚は売られていないし、生きた豚や鶏が行き来することもないことくらいだ。それに──小花はこの賑わいから目を背けて足早に駆け抜けなくて良い。たっぷり一掴みももらった銀紙の花を差し出せば、何でも贖えるのだと聞かされている。
(どうしよう……何から──どこから見れば良いの……?)
あまりの情報量に圧倒されて、呆然と目を瞠る小花の前を、仲睦まじげに寄り添うふたりが通り過ぎていった。
「わたくし、あの揚げ菓子が食べてみたいわ! その次は、簪を見立ててちょうだいね、星晶」
はしゃいだ声を上げながら屋台のひとつを指さすのは、満開の牡丹を思わせる華やかな雰囲気の美姫だった。裕福な商家のご令嬢、くらいの装いは、後宮にあっては質素なほうかもしれないけれど、きっと身分高い妃嬪の変装だろう。言葉遣いも所作も品良く優雅で下々とはまるで違うし、何より、その美姫が微笑みかけるのは、目の覚めるような見目麗しい少年だったから。
「喜んで、華麟様」
その美少年の声は水晶の鈴を転がしたよう。美姫を見下ろして微笑む眼差しの煌めきは星のよう。花街をひやかす良家の子息のお忍び、といった風情だけれど──もちろん想像であって、小花が実際見たことがあるわけではないけれど──、秘華園の男役に違いない。
(世界が、違う……!)
星の輝きが人の姿になったような、眩しいほどに綺麗な人がいるなんて。その人を侍らせても見劣りせず、堂々と笑っていられる人がいるなんて。
背景としてでさえ、自分のようなみすぼらしい者は秘華園には相応しくないのではないか。気おくれしてよろめきかけた小花を、今度は耳からの刺激が襲った。
「糖葫芦、糖葫芦はいかが? 甘くて赤くて美味しいの。飴がたっぷりかかって──ね、綺麗でしょう?」
歌うようなその声は、宮市の喧騒の間を縫ってよく響いた。伸びやかで明るくて、自然と赤い色を思い浮かべるような。良い匂いと綺麗なものが溢れるこの空間でも、思わず振り向いてしまうような──不思議な魅力の声だった。
小花が首を巡らせると、可愛らしい少女が満面の笑みで糖葫芦を差し出していた。その溌溂とした笑顔の眩いこと、つい、引き寄せられてしまうほどだ。
(ほんと、綺麗……)
糖葫芦は、山査子の実を串に刺して飴をかけたものだ。赤く小さな果実は、飴を纏うと魅惑的にきらきらと輝く。見たことのない宝石というのはああいうものなのだろう、と。幼い小花はその色と艶めきと、知らない甘さに焦がれていたものだ。手が届かなかった甘味が、今、目の前にある。
「え、っと。じゃあ……ひとつ……」
「ありがとう!」
おずおずと答えて紙の花を差し出すと、少女はいっそう晴れやかに破顔した。糖葫芦をこちらに渡す時に、串をくるりと回すと、赤い艶めきが美しい弧を描く──と思うと、小花の手に収まっている。呼び込みの声が歌のようなら、手渡すだけの仕草も舞のように華やかで鮮やかだった。
(この人も秘華園の……娘役、なのかな?)
売り子を務めるのは役者だというし、この少女は男役にしては華奢だし。仕草のひとつひとつに華があって見ごたえがあるのは、さすが、尊い方々を満足させるだけの芸を持っているからこそ、なのだろう。小花とさほど変わらない年ごろに見えるのに、なんて眩しい存在だろう。
華やかな声と笑顔で、少女は次々に糖葫芦を売り捌いていく。そのお手並みに見蕩れながら、小花はそっと山査子の実に歯を立てた。
透明な飴がぱりっと砕け、中の果実はしゃりっとして甘酸っぱくて──けれど、小花がその味を堪能しきる前に、また新たな眩しさが近づいてきた。
「そなたの声はやはりよく響くな、燦珠」
「楊太監! お疲れ様、仕入れとか大変だったでしょう? 糖葫芦、食べていく?」
糖葫芦売りの少女の明るさと物おじのしなさは、もはや恐ろしいほどだった。
(それは、この子もとても綺麗だけど! どうして、こんなに──)
こんなに、圧倒的に美しい存在に、気軽に話しかけられるのだろう。
太監、と呼ばれたからには彼は宦官のはずだ。男でなくなったからこそ、髭も生えないし声変わりもしないし、身体つきも華奢さを残しているのだ。小花の身近にも、そんな不思議な存在はいくらでもいる。
でも、男でも女でもないということは、必ずしも美しさを約束するものではない。それどころか逆の結果になることも多いはずなのに。
(……人間? 本当に生きてる? ものを食べたり飲んだりするの?)
先ほどの美姫も、男役の美少年も、眩しい笑みの少女も。秘華園で出会った方々は皆、見蕩れるほど綺麗で華やかで優雅だった。でも、それでもこの宦官には敵わないのでは、という気がする。
顔かたちが整っているのはもちろんのこと、染みも皺もない白い肌の輝かしさも、深い淵のように底知れぬ黒さの瞳も──どこをとっても神々しくて、光輝くようにすら感じられる。
「また、後で。今は謝貴妃様を捜しているのだ。星晶を少しは売り子に回していただかなければ」
それに何より、声の色気が凄まじい。美しい宦官が語りかけているのは役者の少女だというのに、傍で聞いているだけの小花の肌がなぜかざわついてしまうほど。楽の調べのように美しく滑らかな声は、鼓膜だけでなく、聞く者の身体をも愛撫していくかのようだ。
地上に現れた神仙を前にしているのでは、と思ってしまうくらいなのに──
「さっきお見かけしたけど、とてもお楽しみのようだったから……星晶を離してはくださらないんじゃないかしら」
「謝貴妃様は最大の出資者だから、あるていどは致し方ないが。市の賑わいのためには──ああ、畏まらないでおくれ」
この世のものとは思えぬ綺麗な人が、不意に小花のほうを向いた。彼女がひれ伏そうとした気配を感じたらしい。
「後宮を支える、そなたたちの慰労のための催しでもあるのだから。身分も位階も気にせず、楽しめば良い」
どうやら彼は、小花が太監──高位の宦官──の肩書や、絢爛な刺繍の袍を恐れたと思ったらしい。そうではなく、単純かつ純粋に、尊いほどに美しい存在を伏し拝まなければ、と思っただけなのに。
「い、いえ、そんな……っ」
冷や汗まみれの小花が、もつれる舌でどうにか紡ごうとした弁明は、けれど甲高く耳障りな怒声に遮られた。
「楊太監! 楊太監はどこにいる!?」
宦官に特有の怒声は、小花の日常にはつきものだった。思わず身を竦ませながら声の源を求めて見回すと、人波の間から綺麗な人が纏うのと似た絢爛な袍が近づいてくる。
「この儂に何の断りもなく勝手な真似を──若造め、《偽春の変》の変で少しばかり上手く立ち回り、陛下に取り入ったからと増長しておるのか!」
纏う衣装の絢爛さでは同等でも、その宦官はとても綺麗とは言えない──それどころか真逆だった。加齢に伴って皮膚が弛むのは宦官にはよくあることだけれど、さらに暴食暴飲も重ねているのではないだろうか。足を踏み出すたびに揺れる脂肪を萎びた皮膚が覆う姿は蟾蜍めいて見えた。
誰かが隗太監だ、と呟くのが聞こえて、小花は跳び上がった。
(隗って──司令監太監の!?)
司令監太監といえば、皇帝の私的な秘書を務める宦官の長、豪奢な衣装も、贅を極めた暮らしぶりが窺える体型も納得というものだ。
でも、そのとても偉い人が怒っている楊太監とやらは、小花に優しく声をかけてくれた綺麗な人ではないだろうか。
「お呼びでしょうか、隗太監。私にいったい何の御用でしょう」
事実、一気に張り詰めた空気をものともせずに、とてつもなく美しい宦官は悠然と
そうでないほうの同輩の前に進み出た。小花は見たことがないけれど、芝居の主役というものは、このように堂々と、注目を一身に浴びて登場するのだろう。
どこまでも整った唇が、耳ばかりか魂までも洗い清めるような玲瓏たる声を紡ぐ。
「思えば、着任以来ご挨拶もしておりませんで──非礼をご容赦くださいますように」
「貴様が楊太監か。ずいぶんと派手な催しを企んだものだ! これで妃嬪がたや役者の機嫌を取ったつもりか!? 後宮の風紀を乱したと、陛下に訴えてやる。必ずお叱りがあるであろう……!」
怒りに顔の脂肪を震わせる隗太監の罵倒に、小花を含めた婢や宦官の多くは縮み上がった。
即位したばかりの新帝は、奢侈を好まないのを思い出させられたのだ。先帝の御代にて莫大な財をつぎ込まれた秘華園で行われる、大規模な騒ぎ──そういえば、皇帝の気に入るものではないのかもしれない。
(お叱りって……私たちも……?)
不安に駆られた身分低い者たちが一斉に騒めき、華やいでいた宮市の空気を翳らせた。けれど、月の光は垂れ込めた暗雲を貫いて地上を照らすものなのだ。
「ご心配無用。陛下の許可はいただいております」
楊太監の微笑は月のように美しく眩しく、そして頼もしかった。
「な──」
小花は、絶句した隗太監のことが、少しだけ羨ましくなった。
天上の住人のように美しい人に、正面から微笑みかけてもらえるなんて。うっとりと聞き惚れる声に、語りかけてもらえるなんて。隗太監が絶句して震え出すのも当然というものだと思えた。
月のように美しい人は、その輝きを惜しみなく見せてくれた。隗太監の怒声に集まってきた野次馬を見回して、ひとりひとりに目を合わせて微笑んでくれたのだ。
「民の生活を知れば、妃嬪様がたもいっそう慈愛の御心を持たれましょう。それに、下々にも羽根を伸ばす機会は必要です。陛下のご慈悲でこのような場を設けたと知れば、ますます精勤することでしょう。──そう進言したら、ご快諾いただけました」
「そなた──貴方様は……」
楊太監の声に、それが語る皇帝の慈悲に聞き惚れていたいのに。隗太監の罅割れた声はひどく耳障りで邪魔だった。
(秘華園は、こんなに綺麗な人ばかりなのに)
的外れな糾弾だったと分かったなら、さっさと帰って欲しい──自身の平々凡々な容姿を棚に上げて、小花が勝手なことを考えていると、楊太監はさらに足を進め、長身を屈めて隗太監の耳元に唇を寄せた。
この上なく綺麗な人が、そうでない人と間近に並ぶ光景に、野次馬から悲鳴のような溜息が漏れた。
「これが月とすっぽん……」
糖葫芦売りの少女が思わず、といった調子でこぼした呟きは、その場の全員の想いの代弁だっただろう。あまりにも「そのまんま」な諺の体現を目の前にすると、ある意味感動すら覚えてしまう。
とにかく──楊太監は、ひれ伏したくなるような美しい笑みを口元に湛えて、囁いた。
「陛下は何もかもご承知です」
「ひ、ひいいぃいっ」
情けない悲鳴を上げた隗太監が、歪な鞠が転がるように逃げ出したのは、楊太監の美貌と美声を正面から受け止めることができなかったからだろう、と小花は自然に信じた。あの顔とあの声が間近に迫れば、彼女だって畏れ多くて居たたまれなくなるに決まっている。
「──宮市の賑わいは、陛下も嘉されるところ。心行くまで食べて飲んで、楽しんでおくれ」
月の光のような輝き──それくらい眩く見える綺麗な笑顔──を振り撒きながら楊太監が言ったのは、まさしく天の声だった。嫦娥を思わせる麗人の美声が、天から玉座を預かる皇帝の言葉を伝えるのだから。
だから、宮市の客はいっそう沸き立って歓声を上げたし、小花も天の声に従って思う存分食べて飲んだ。
紙の花が宙に踊る様は季節外れの雪のようで、白銀の花弁が降る中で、興が乗った役者たちが舞い始めるのも夢のような光景だった。
糖葫芦売りの少女は、声でなく舞も素晴らしかった。
舞台に立つなら纏うであろう絢爛な衣装がなくても、彼女が回れば花が咲いたし、伸ばした指先には蝶が止まった──と、見えた。宙に跳ね上げた爪先の高いこと、そのまま天に翔け上ってしまいそうだったし、回転の合間に目が合うと、眼前で虹色の火花が散った気がした。
軽やかに、そして生き生きと舞う少女を、いつの間にか糖葫芦を手にした楊太監が目を細めて見入っていたりして。うっとりするような美貌の人が、うっとりとした表情をしているのも見逃せなくて、小花は目も首も忙しく動かすことになった。
そして、夢のような一日が終わった後──小花は、ひとつ残しておいた紙の花を大事に懐にしまい込んだ。同輩の中にも同じことをした者は結構いたようだ。
(だって、忘れたくないものね……)
市が終われば、無用のものになるとは知っていても、すべて手放してしまうのは惜しかった。常の務めは辛くても、時おりこの花を取り出して眺めれば手荒れやあかぎれの痛みを忘れることもできるだろう。
彼女たちの仕事も、どこかで秘華園の絢爛を支えているということ。そして、彼女たちの働きを、労ってくださる方もいるのだと、知ることができたから。