幼鳥、異国に翼を休める
上空に翼を広げる鷹の姿を見上げるたびに、シャヒーンはどうしようもない羨望に囚われたものだ。
鷹と名付けられながら、彼は翼を持たない。故郷はもはや遥か遠く、どれだけ山を隔てているのかさえ分からない。彼が本当に鷹だったなら、山や谷や河や砂漠を越えて、故郷に辿り着くことができるのだろうか。
──あるいは、彼には故郷など始めからなかったのかもしれないけれど。
主の心ひとつで売り買いされる奴隷に、帰るべきところなどない。
父や母はいたけれど、二度と会うことはないだろう。身体に取り返しのつかない傷を負わされた身を受け入れる集落があるはずもなく、彼はどこまでも愛玩されるモノでしかない。
(東の帝国だと、この髪と目の色は珍しがられるって……)
月の光の銀の髪と、宝石を嵌めたような青い目。シャヒーンの値段を吊り上げ、かつ彼の身体に刃物が入れられる理由になったそれらの色が、薬で染めたものではないかどうか。念入りに調べられた時に言われたことがせめてもの希望だった。
どうせ飼われる身の上なら、主は富裕なほうが良い。できることなら価値を認めて可愛がってもらいたい。
牛や馬、駱駝──その時々によって違う獣に曳かれる車に揺られながら、シャヒーンは身体を内から食い尽くしそうな不安を必死に宥めた。
長い旅路の果てに彼が運び入れられた東の帝国の宮殿、その壮麗さは目を灼くばかりだった。けれどやはりシャヒーンの安住の地ではなかった。
宮殿の主であるはずの皇帝の姿は見えず、妃たちの豪奢な衣装も衣擦れの音を聞くばかり。眩く輝く屋根を戴く殿舎には立ち入ることが許されず、彼が寝起きするのは見るからに簡素な使用人のための建物だった。
どうやらこの国の皇帝は死んだばかりで、新しい皇帝は華美を嫌う人柄だということだった。つまりは、変わった毛色の奴隷は、もはや用がなくなったのだ。
シャヒーンがどうにかそのようなことを理解するのに、数か月が必要だった。
* * *
異国の宮殿においても、シャヒーンの定まった家というものはなかった。
毎日の仕事が終わった後に身体を休める寝床は何となくあっても、果たして彼が本当にいて良い場所なのかどうか確信が持てない。
そもそも、仕事が終わったかどうかもよく分からない。虫でも追い払うような仕草をされるか、何かしら彼には分からない不始末を理由に棒が振り降ろされるのが止むか。そうしたら手を止めて良いのだろう、と判断しているというだけだ。たまに外れているようで、余計に打たれたりも、する。
その日は、とりあえず休むことは許されたか黙認されたようだった。
(服、早く脱ぎたい……)
彼と同じような身体の者たちが着る黒衣の着方もまた、シャヒーンは今ひとつ理解できていない。まずもって着心地が悪いし、殴られる理由のひとつに着付けがなっていない、というものもあるらしいのには気付いているが、誰に教えを乞えば良いのかもわからなかった。
少なくとも、夢の中では彼は慣れた服を纏い、理解できる言葉で語ることができる。束の間の安寧を求めて、シャヒーンは自室──らしき部屋──に転がり込もうとした、のだが。
「西方から献上された宦官というのはそなただな」
「大人、は……?」
倒れ込もうとした身体は、長身の人影に受け止められた。どうにか覚えた目上の者への呼び方を呟くと、月を思わせる眼差しが彼を見下ろしている。答える声も、銀の弦を張った楽器を爪弾いたかのように耳を蕩けさせる響きがあった。
「身辺の世話をする者を探していたのだ。ぜひともそなたに頼みたい」
* * *
シャヒーンは、月のような人に連れられて別の建物に招き入れられた。精緻な彫刻で飾られた門構えに中庭を備えた、高位の使用人というか官の住まいだろう、と思われた。
温かな食事を供されながら聞いた話もまた、シャヒーンの推測を裏付けた。
彼がいまだかつて見たことのない美貌、聞いたことのない美声、かつ、異国に辿り着いて以来もっとも明瞭で聞き取りやすい発音の人は、楊霜烈と名乗った。
楊霜烈は、何とかいう──シャヒーンには聞き取れなかった──役職に抜擢されて、相応の生活をしなければならなくなった。この住まいも立場に伴って与えられたものだし、手入れをする者、雑事をする者を傍に置かなければならないのだとか。
「ほかの者に仕えたことがあると、何かとやり方の違いがあるであろう。この際、一から覚えてもらうほうが話が早い」
「はあ……」
たいそうありがたく、かつ不可解な申し出に、シャヒーンは曖昧に頷いた。
楊霜烈の説明はもっともらしくはあったけれど、特に決まった主、あるいは庇護者のいない幼い宦官はこの後宮に多くいる。
(なぜ、わざわざ私を……?)
意思疎通もままならない異国の子供の何が良かったのか、という当然の疑問に、美しい人は丁寧に答えてくれた。
「異国で天涯孤独なのだから、仕事を与えれば励むであろう」
「あの、でも私は──」
逃げ場がないから安心だ、という趣旨に聞こえてシャヒーンは少し震えた。それに──楊霜烈の期待に応えられるかどうか、分からない。
この人は、今のところは主として願ってもない慈悲を彼に見せている。けれど、毎日のように責められ殴られる使えなさを知っているのだろうか。一度優しくされた後で放逐されるのは、辛いままよりなお怖い。そう、思ったのだけれど。
「言葉も文字も分からぬのなら、叱られて当然。迎えるからにはどこに出しても恥ずかしくないように育てるつもりだ」
美しい声は、ごくあっさりと宣言した。楽器の調律を思わせる飾らなさだった。
つまりは、何ら技巧なり欺瞞なりを弄したものではなく、弦を弾けばその音が出るように、当たり前のことを告げただけ、と聞こえた。
(……本当に?)
瞬くシャヒーンの前で、楊霜烈は軽く首を傾げた。そして、やけに真剣な眼差しで、囁いた。
「そなたが、人の顔の覚えが悪いと言われているのも聞いた。が、それは異国の者の目にはこの国の者の見分けがつき辛いということだろうと考えたのだ。……私の顔も、ほかの者と大差ないように見えているか?」
彼の心の天秤は、すでに警戒よりもこの人に拾われたい、のほうに大きく傾いていた。よって、シャヒーンは慌てて首を振った。
「いえ。仕える人の顔を見間違えたりはしません」
指摘された通り、確かに彼の目には黒い髪に黒い目、同じ髪型に似たような装いの宦官たちの区別は難しい。けれど、この人を見失う恐れはないだろうと思えた。
目の色の深いこと、ただの黒という言葉では括れない。底の知れない深い淵を思わせる、誘い込むような闇の色。染みひとつない肌は象牙のようだし、目鼻の配置も唇の形も、一分の歪みもなく整っている。
(国を越えても、美しいものは美しいんだ……)
正直言って、たまに位高い女たちを垣間見ても、衣装や宝飾の豪奢さに感嘆しこそすれ、顔かたちの美醜はよく分かっていなかった。
それが、この人については迷わず美しいと判断できる。新たに知った事実は、感動さえ覚えるものだった。
間髪入れずに頷いたというのに、けれど霜烈の表情は翳った。月が雲に隠れたように、室内の灯りさえ衰えるよう。
「そうではなく──何か特別に見えるかどうか、という話をしている」
「特別です。とても。見たことがない……月のよう、輝いて──真珠、金、えっと、光る……」
「分かった。もう良い」
シャヒーンが知る少ない語彙を駆使した賛辞は、霜烈の気に入らなかったらしい。月は隠れたまま──美貌は曇ったまま、妙なる演奏の余韻のような溜息が零れた。
(どうしよう。機嫌を損ねた……?)
彼の心臓は、氷の手に掴まれたように跳ねたのだけれど。夜の淵の目は、じっくりとシャヒーンを捉え、そして何かしらの結論に至ったようだった。
「とにかく……そなたに異存がなければこの殿舎に移って欲しいのだが。どうしたい?」
問われたことへの答えは、とうに決まっていた。故郷の神に祈りを捧げる時のように、床に身体を投げ出しながら、シャヒーンは恭しく述べた。
「どうか私を拾ってください。輝かしい人。私に、仕えさせてくださいますように……!」
興奮と喜びのあまりに、どうやら彼は故郷の言葉を使っていたらしい。霜烈は怪訝そうに首を傾げた。が、表情や口調から内容を察してくれたのだろう、すぐに眩しい笑みを見せてくれた。
* * *
鷹、という名を聞いて、新しい主は新しい名を考えてくれた。ひどく複雑な文字を使うこの国での名だ。
「音を取るなら、夏因──髪の色から夏銀でも良いか。あるいは、鷹の字を入れるか」
紙に並ぶ文字を指さして教えられても、それらを構成する線と意味と音はまだ彼の頭の中で結びつかなかった。ただ、美しい人が綴る文字は美しいのだろうと、幾何学模様を眺めるつもりでうっとりと見て──そして決めた。
「夏銀、と。これからはそうお呼びください」
ほかの者たちが彼を呼ぶときにしばしば銀、という音を使っていたのは髪の色に由来するのだと、やっと得心した。これなら分かりやすいだろうと思ったのだ。
その後、霜烈は夏銀にすべてを教えてくれた。服の着付けかた、髪の結い方、立場に相応しい作法に、後宮の造りに茶や食事の供し方。
発音を正すのに唇に触れさせてくれたり、舌の動き方を見せたりしてくれるのは、畏れ多いことですらあったけれど──
「私も多くの人に助けられて生き延びた。後進に返すことができるのは喜ばしいこと」
霜烈が満足げに微笑むのを見れば、恐縮することこそ非礼のようで。夏銀はこの人の役に立とうと心に決めた。異国で行き場のない身に、確かな巣を与えてくれた恩に報いなければ、と。
そうこうするうちに言葉が上達すると、最初の時の霜烈の不可解な問いかけの理由も知れた。
霜烈は、どうやら夏銀の青い目には人の美醜も違った風に映るのではないかと期待していたらしい。月のごとき神々しいまでの美貌ではなく、黒髪黒目黒衣の群れの中に埋没するていどに見えるのでは、と。
「それは無茶なお考えだと思います」
「……そうだろうか」
「たとえ目の色が違っても、月や星を見て美しいと思わない者はいないでしょう」
「そうなのか……」
今や師とも父とも仰ぐ人は、夏銀の言葉を聞いて軽く絶望したようだった。まことに贅沢な悩みだ。けれど霜烈にとっては切実なことなのは理解できるから、夏銀は大いに同情した。
若くして抜擢された霜烈は、ただでさえ妬まれやすい立場なのだとか。職掌である秘華園とかいう役者の園も、扱いについて賛否あって立ち居振る舞いが難しいらしい。
さらに加えて、身近に置く者に劣情を抱かれる心配などはしたくないだろう。この国では去勢のことを身を浄めるとも言うそうだけれど、情欲も切り落とせるとは限らないこと、夏銀も多少は知っている。
夏銀については、異国の出身かつ子供ということでおそらく大丈夫ではないだろうかと信じたい、というのがあの時の結論だったらしい。その信頼に応えるべく、主の不安を除くべく、見蕩れるのも褒め称えるのも密かに礼拝するのも、ほどほどにしなければならないだろう。とても難しいことではあるけれど。
まあ、崇拝めいた敬意が真っ先に来るだけ、夏銀はおそらくかなりマシな部類だ。月に手を伸ばすような不敬は冒さない。──霜烈は、そもそも月と仰ぎ見られることを望んではいないのだろうが。
(だから燦珠さんが特別なのかなあ)
言葉や習慣を理解できるようになると、不思議と後宮の住人たちの区別もついていった。中でも特に見分けやすい、よく通る声と明るい笑顔の少女がいる。
霜烈の美貌に見蕩れる感性があるいっぽうで、見上げることなく真っ直ぐに見つめて語らうことのできる──夏銀とそれほど年が変わらないようなのに、常人離れした胆力の持ち主だと思う。この国の者には奇異に映るであろう彼に対して、平然と話しかけるあたりも普通ではない。霜烈とは違う種類の光で周囲を輝かせる──太陽のような熱と眩しさの少女。
──その少女の声が、今日も門から響く。
「おはよ、夏銀! 楊太監はいる? 隼瓊老師から書類のお使いなんだけど」
「ええ。今は、書を認めていらっしゃるかと。お茶を淹れるので、少しお待ちくださいね」
歌うように語る少女の声に、輝くばかりの笑顔に。夏銀は目を細めて微笑んだ。
「お構いなく。渡したらすぐに帰るから」
「ちょうど麻花をもらったところなんです。ふたりでは食べきれないので、手伝っていただけると」
「そうなの? じゃあいただこうかしら。ありがとう!」
夏銀は、忠実な従者に徹することに決めた。だから主について深く詮索しようとは思わない。
あの人がなぜ後宮にいるのか。容姿だけでなく、立ち居振る舞いも言葉遣いも発音も、たいそう品良く洗練されているのはどうしてか。古参の役者や宦官に、やけに丁重に接せられる経緯。夏銀に故郷の西方のことをしばしば尋ねる理由。
考えることは色々あるけれど、口にしてはならないのだろう。
夏銀がするのは、霜烈の日々の暮らしを整えること。彼を拾い上げて安心して眠れる場所を与えてくれた人に、同じことを返さなければ。
眩しい少女を引き留めるために茶菓子を切らさない、というのもその一環だ。何しろこの少女は芝居が第一で、放っておくと用を済ませるや否や風に舞う花びらのように軽やかに去ってしまうのだ。
(だって、燦珠さんが来ると明らかに機嫌が良いし……)
主の機嫌が良ければ下の者も何かとやりやすいし。霜烈の目元や口元が柔らかく笑む様を横から見るのは、眼福というものだし。気を利かせるのは良いことのはずだ。
燦珠が勧めた椅子にかけたのを確かめてから、夏銀は主を喜ばせるべく太陽
の訪れを報せに向かった。