燦珠、青い眼差しに会う②
垂花門を入ったところにある廂房一棟が、霜烈に割り当てられた新しい住まいということだった。中庭の四方を建物と回廊が取り囲むのが、後宮の殿舎に限らずそれなりの規模の邸宅の基本的な造りだ。だから燦珠が案内された房室も、陽光が明るく降り注ぐ中庭を臨んでいた。
夏銀というらしい銀髪の少年宦官が、茶器を温めた湯を茶盤に零している。その静かな水音を聞きながら、霜烈は語り始めた。
「夏銀は西域からの献上品だったのだ。ただ、ちょうど先帝が薨去されたころに皇宮に到着したため、正式な役職を与えられないままになっていた」
「そう……ひどい話ね」
人間を献上品扱いするのも。宦官に仕立てておいて、役目を与えないことも。
そこまでだけでも燦珠は眉を顰めたのだけれど──茶葉を入れて湯を注ぎ直した蓋椀を燦珠の前に置きながら、夏銀はさらりと述べた。
「仕方ないノデ下働きをしていましたガ。言葉もしきたりも知らないカラたくさん打たれマした」
「え──」
「それを、師父が拾ってくださっテ」
霜烈を見つめる夏銀の青い目には、感謝と尊敬の念が熱く燃えていた。それこそ子供が親を見上げる眼差しにも似ているし、あるいはいっそ、主人に尻尾を振る忠実な犬の姿が見える気もした。
その熱い眼差しが照れくさいのだろうか、霜烈はすらりとした手指で蓋椀を弄んだ。中では茶葉が開いて躍っているのだろう、良い香りが漂い始めている。
「……出世した宦官は、後進を育てるものだ。身の回りをさせる者が必要になることもあるが、親も子もないのが宦官だからな。礼儀作法を教えて面倒を見たのと引き換えに、老いた時の世話や死後の供養をしてもらおうと考えるのだ」
だから大したことではない、と彼は言いたいようだった。けれど、夏銀は燦珠のほうを向いて熱心に訴えてくる。
「師父に学びたイという者は、大勢いるでしょうニ。よりによって私を選んでくださっテ。神はおわすもノだと思いマした」
「打算だ。目立つ容姿の者を傍に置いておけば、人目を逸らせることができるかもしれない、と考えただけで」
「ふうん?」
打算だ、と言い張るのはまったくの嘘ではないだろう。霜烈自身が述べたこと以外にも理由がありそうなのは、燦珠にだって想像がつく。
(異国の人は、『陽春皇子』を知らないから、なんでしょうね……)
霜烈の栄達は、それ自体はおめでたいことだ。
けれど、隼瓊や段叔叔といった限られた人たちとだけ接していれば良かったこれまでとは、立場が変わってしまうのは事実。まして、身の回りの世話をさせるくらいに近くに召し抱えるとなれば、何かの切っ掛けで彼の正体に気付かれないとも限らない。
この国の言葉も歴史も知らない夏銀は、霜烈にとってちょうど良い存在だったのだろう。でも──それもまた、理由のすべてではないと思う。
(お茶の淹れ方の復習、って言ってたもの。色々教えてあげてるのよね?)
異国の者に作法を教えるのは同じ国の者に対してよりも手間暇かかるはずで。それをあえてするのは、打算だけではあり得ないと思うのだ。
(当たり前だけど、私の知らないところで色んなことをしているのよねえ)
何しろ、霜烈は人並みにものを食べたり息をしたりといった、ごく普通の営みをしているか怪しいのでは、と思ってしまうくらいの美形だから。私生活らしきものを垣間見ることができると、何となく安心するのだ。
何か言いたげな霜烈に微笑んで。ほど良い飲みごろになった茶の味と香りを味わってから、燦珠は夏銀に応じた。
「良かったですね。楊太監はとても優しい人だもの。それに、声も発音も綺麗でしょう? どこからどうやって声を出してるのかしらって、私も知りたいくらいなんです。教えてもらえるなんて羨ましい……!」
夏銀の青い目がぱあっ、と輝く様は、太陽が雲間から現れた時の空を思わせた。それは嬉しそうな表情で、銀の髪の少年は燦珠のほうへ身を乗り出した。
「ハい! それハ丁寧に教えてくださるのデす」
「ちなみにどういう感じなんですか? 戯子にも参考にならないかしら」
霜烈の授業について、色々と聞きだしたかったのだけれど。夏銀が教えてくれるよりも、霜烈が咳払いで割って入るほうが早かった。
「そこだ。燦珠の発音も訛りのない正統な宮廷語であろう? というか、華劇の役者はそう訓練されるものだが。しかも、燦珠はそなたの目や髪を見ても構えなかった」
ひと息に述べたのは、まずは夏銀に対してだった。次いで霜烈は、燦珠のほうにも目を向けた。
「先ほど、やり取りを漏れ聞いていた時に思いついたのだ。たまに夏銀の話し相手を務めてくれぬか? そなたなら年も近いし気安いのではないだろうか」
「あ、話ってそういうことだったの」
そういえば、霜烈は顔を見る前から、燦珠が来たのを声で聞き分けてくれていた。発音の明瞭さや正確さを評価してもらえたなら、たいへん光栄なことだった。
「もちろん、構わないわ! 違う国の人と友達になれるのは嬉しいくらいだもの」
宝石のような、空の色のような目に映るのは、いったいどんな世界なのだろう。数は少ないけれど、華劇の演目には異国を舞台にしたものもあるし、遥かな地の風物はきっと演技の参考にもなるだろう。
「よろしくね、夏銀」
「──ハい。こちらこそ、梨大姐」
夏銀に微笑みかけると、彼も嬉しそうに頬を緩めてくれた。
(楊太監の側仕えなら、秘華園のことも知っていないと、よね? 色々教えてあげようっと)
教わることが多かった若い燦珠にとって、誰かに何かを教えるという考えは心浮き立つものでもあった。
* * *
──そんな出会いから、数か月。科挙が無事に終わったころになって、燦珠が気付いたことがある。霜烈が夏銀を選んだ理由は、まだほかにもあったのではないだろうか。
今では燦珠は、夏銀とふたりでお茶を楽しむこともあるくらいに親しくなっている。夏銀は遣いで秘華園を訪れることもあって、顔なじみの戯子も増えたようだけれど、霜烈直々に「よろしく」された仲はやはり少し特別だった。
それに、今日は彼とこっそり話したいことがあったのだ。
例の中庭に卓を出して、ふたりは初夏の空の下のささやかな茶会を楽しんでいた。茶を淹れるのは夏銀で、菓子は、燦珠が秘華園から持ちだしたのを提供している。
「西域までは、とても遠いですよ。山もあれば谷もあって。何日もの間、どこまでも砂だけが続く中を進むこともありました。目にも服の間にも砂が入り込んで、そのまま埋まってしまうのではないかと思ったほどでした」
この間に、夏銀の言葉はかなり流暢になっている。銀髪青眼の容姿を見なければ、語っているのが異国人だと、耳で聞き分けることはできないだろう。
燦珠たちとの会話も、彼の上達には一役買っているはず。けれど何より大きな役割を果たしたはずの、霜烈の指導については夏銀は内緒だと言って教えてくれないから謎のままだ。
それは、ともかく。西域への旅路の過酷さを聞いて、燦珠は深く溜息を吐いた。
「そう。大変なのね。嫁いだっていう公主様も、あの人たちも。あ、もちろん夏銀もだけど」
「私はまあ、一応は献上品扱いなので自分の足で歩くことはあまりなかったので。公主様も同様でしょうが、今回の人たちは──辛いかもしれませんね。女性もいますから」
「そう、だよねえ」
後宮にいると、高い壁に囲まれた外の世界に想いを馳せる機会は少なくなってしまう。父が住まう延康の街でさえ遠く思えてしまうのだから、まして遥か地平の彼方、長城を越えた向こうのことは、これまで頭を過ぎることさえなかったかもしれない。
(でも、その地まで旅しなければならなくなった人たちがいるのよね。昔話じゃなく、つい最近の話で……)
燦珠自身が、西域に旅立った者たちを見送ったばかりだ。死を賜って当然の罪人に対して、その処置自体は慈悲であるとは分かるのだけれど。実際にかの地を知る夏銀の話を聞くと、あらためて彼らが無事に辿り着けるのかどうか、懸念は止まない。
浮かない顔の燦珠を、夏銀は不思議そうにのぞき込んで来た。
「燦珠さんも危ないところだったのに。追放された人たちのことをずいぶん気にするんですね?」
「うーん、私は、結局無事だったから。実際に会ったことがある人たちは無事でいて欲しいと思う、かな……」
罪があるとしても、少しでも関わった者たちの不幸を望んだりはしない。
それに、何より──追放された花兄妹は霜烈の甥と姪でもあるというのだから。彼らの姉君が数年前に西域に嫁がされたのも、ずいぶん理不尽でひどい話だったと聞いた。奇しくも同じ険しい道を進むことになったきょうだいたちが、無事に再会できると良いのだけれど。
(公主様とは遊んだこともあるって──楊太監も、ずっと気になってたんでしょうね……)
西域から来た夏銀が後宮にいるのを知って、霜烈はかの地のことを知りたいと考えたのではないか、と思う。嫁いだ公主が、どんな人に囲まれてどんな暮らしをしているか──側仕えに取り立てた少年の話を通じて、少しでも安心したかったのかもしれない。
「師父も同じようなことを仰っていましたが。燦珠さんといい、とてもお優しいですね」
「え、ええ。楊太監も、可哀想だと思ったんだと思うわ!」
だから、夏銀が漏らした言葉は、予想通りではある。主であり師でもある霜烈を尊敬しているらしい彼のこと、何も怪しんでいないようなのも良かった。
それでも、罪人にやけに肩入れする理由を深く考えられたらあまりよろしくなさそうだから、燦珠は強引に話を纏めようとした、のだけれど。
「でも、燦珠さんに何かあったらそういうわけにはいかなかったと思います。あの時は、突然飛び出してしまわれて驚いたんですよ。若い女性なのだからもっと自重してください」
「……あの時は、翠牡丹が見つかるかも、って必死だったの」
霜烈を尊敬するあまり、夏銀は言うことも彼に似て来たから、少し困る。
(あの時飛び出したから、長公主様を助けられたんだけど……)
そんなことを言える立場ではないのは分かっているから、燦珠は大人しくお叱りを受けた。あの時、夕闇の中でも、夏銀の見開いた目の青さはよく印象に残っている。ああして別れた相手に何かあれば、とても気に病むなることになるのは、言われればさすがに理解できる。
「でも、心配かけてごめんなさい。あの……気を付け、ます」
「燦珠さんなしでは、師父は生きていけないと思うんです。なので本当にお願いします」
真剣そのものの色を浮かべた青い目を、燦珠はしげしげと眺めた。
(そんなはず、ないでしょう?)
燦珠が霜烈と出会ったのは、たかだか一年と少し前のことだ。彼はそれまでも多くの人に助けられて生きてきて、立派な大人になっている。最近の身の回りを世話しているのは、ほかならぬ夏銀なのだし。
「生きていけない、って──西域でそういう言い回しがあるの? お芝居とかで?」
もしもそうなら教えて欲しい、と思ったのだけれど。夏銀は意味ありげな笑みを浮かべて首を振った。
「いいえ。私がそう思うだけです」
「大げさだと思うわ?」
「そんなことはないと思いますよ?」
夏銀の口振りは、そんなことはあるだろう、とはとても言わせぬ確信に満ちていた。神秘的な容姿と相まって、異国の神仙の託宣ででもあるかのような。
(大げさだと、思うんだけど……?)
燦珠としては、まだ腑に落ちていないのだけれど。青い目を笑ませて茶器にまた湯を満たす夏銀は聞く耳を持たないようだった。
なので燦珠は、勧められるままに二煎目の茶を干して、疑問を呑み込むことにした。