霜烈、相談する
第二部開始前のエピソードです。
隼瓊の前に席を占めるなり、霜烈は挨拶もそこそこに切り出した。
「藍芳絶と──その、恋人の演技をすることになりました」
「ああ。芳絶からも聞いている」
隼瓊があっさりと頷くと、彼女の大切な教え子は整った──整い過ぎた眉を微かに顰めた。憂いに満ちた美姫さながらの表情は、けれど単に拍子抜けしただけなのだ。付き合いの長い隼瓊にはよく分かる。
「そう、なのですか」
たぶん、霜烈は経緯の説明や言い訳を長々と考えてきたのだろう。用意して来た台詞を述べることができなくて、残念そうな風情を漂わせてさえいる。
どこかしょんぼりとした表情の霜烈に、隼瓊は柔らかく微笑みかけた。
「そもそも彼女はまず私に話を通していたのだよ。鐘鼓司太監と秘華園の戯子、しかもあれほど目立つ子との関係は、配慮が必要なことだろうから」
実のところ、芳絶が隼瓊に許可を求めた理由はそれだけではないのだろうが。
隼瓊が、見目麗しい鐘鼓司太監とかねてから親しい風情なことに気付いている者は、それなりにいるだろう。だが、その多くは単に美貌や美声を愛でているか、歳の離れた恋人を囲っているといったことだろうと納得しているはず。
だが、たぶん芳絶はもう少し深いところまで見通している。あの薫り高い大輪の花のような女生は、隼瓊のことを霜烈の保護者だと認識しているのだろう。
お宅の子と交際しても良いか、と──普通ならば問うのも問われるのも男の側だろうが、芳絶も隼瓊もそこらの男より男らしいのだ。
「……はい。人目を惹くのは間違いないでしょう。ですが、それこそが狙いということで──」
年ごろの娘のように扱われたことなど露知らず、霜烈は首を傾けた。地上に落ちた月のような美貌を持ちながら、この子はそれをとやかく言われるのを嫌う。
彼と芳絶が並べば、若い娘たちが悲鳴と歓声を上げるのは確実だ。想像するだけでも頭の痛いことではあるだろう。
「なので、秘華園のためには受けるのが良いと考えました。では、老師も賛成してくださるのでしょうか」
「周貴妃様のご気性のことも聞いた。戯子の言葉を聞き入れていただくためには良い案だと思う」
「そう言っていただけて、安心いたしました」
できれば、彼女に反対されるのを期待していた節さえあるのに。それでも恭しく頷く様は、確かに恋人よりは孝心篤い息子のほうがしっくり来る。芳絶はよく見ているということだ。
そして、隼瓊にはかつて伴侶と呼んでも差支えのない相手役がいたのも、間違いない事実だ。
姸玉の唱、玲雀の舞、燦珠の華──すべてを兼ね備えた、あるいは彼女たちのすべてを越えた、天からの祝福のような花旦が。
彼女の子なら隼瓊の子も同然だ、と──知る者が知れば当然のように考えることだろう。
(芳絶も敏い子だ。驪珠を見たこともある──が、迂闊なことを言わないのも賢さのうちというものだ)
陽春皇子はとうに亡くなったのだと決められた。
不敬な疑いを口にしたところで利はないと、芳絶ならば分かるはずだ。何しろ、秘華園の現状を見渡し、仕える貴妃の気性を鑑みて、最良の手を探ることができるくらいなのだから。
だから、芳絶に口止めをする必要はない。下手なことを言えば藪蛇になってしまうだろう。
そう結論付けて、隼瓊は婢が淹れた茶の味と香りを堪能した。気の利く婢は、霜烈に見蕩れながらも素早く退出し、彼女たちをふたりきりにしてくれる。
霜烈も茶器を干したところで、隼瓊は短く、そして悪戯っぽく問うた。
「まだ、何か?」
「……燦珠に言っておくべきかどうか。こういう時はどうするものか、と──」
言いたいことがあるのではないか、と暗に促すと、霜烈は思いのほかに素直に口を開いた。
(二十歳をとうに越えた子は、親にはやすやすと恋の話を打ち明けたりはしないだろうに。こういうところはまだ子供だな)
彼女自身も男女の恋の経験はろくになく、まして子を持ったこともないのに、隼瓊は知った風なことを密かに思った。
傍目には、霜烈はどう見てもあの眩しい娘に恋をしているとしか見えないのだけれど。まだ気付いていないのか認めていないのか、あるいは何かしらの理由で諦めようとしているのか。
芳絶との演技の恋を、反対して欲しそうな素振りだった辺りで語るに落ちていると思うのに。幼いころから利発を謳われた子の割に、煮え切らないことだと思う。
「こうすべき、と簡単に言えるほどよくある機会ではないだろうね。ならばそなたの好きにすれば良いだろう」
「好きに……」
はっきりとした指針が与えられなかったことに、霜烈は不満そうだった。親代わりの師としては、頼られるのは嬉しいけれど──いつまでも手を引いてやるわけにはいかないのだ。
(こういうことは、自分で考えるものだ)
陽春と呼ばれていたころから、この子の容姿はあまりに抜きんでて輝かしく美しかった。
亡き文宗帝も、皇后だった霓蓉も。そのほかの妃嬪たちも女官も戯子も宦官も。文宗帝に格別に愛された末の皇子を警戒していた皇族たちでさえ、この子の美貌に目が眩んで愛し、憎み、妬み、執着した。
驪珠亡き後の文宗帝の暴挙は別格としても、危うく不埒な真似に及ぼうとする者たちに、何度ひやりとさせられたことか。
長じて後は、美貌や美声を利用する術を覚えたようでもあるけれど、そのぶん霜烈は人に心を許すことがなくなった。むろん、正体が知られぬように、という用心を怠ってはならないのだけれど。
(この子が、恋で悩む日が来るとは)
好きな娘に嫌われたくない、どう思われるか気になって仕方ない。けれど、気にすることこそ図々しい気がしてならない。
霜烈が、そんな卑俗極まりない感情で頭を悩ませることができるようになったのは、もろ手を挙げて喜ぶべきこと、かつ面白いことだった。
「……では、言わないことにします。燦珠は──戯子のひとりに過ぎないのですから」
だから、ややあって結論を下した霜烈に隼瓊は優しく頷いた。
「そなたがそれで良いと思うなら、良いのではないかな」
「良い──と思いますが。言ったところで燦珠も困るだけでしょう」
ならば、どうして伝えることを検討したのか──聞き出そうとしては、さすがに嫌がられるだろうから、隼瓊は我慢した。理不尽な心の迷いの理由は、いずれ彼が自分で見つけることだろう。
(困る、というか──燦珠は不思議がるかな)
あの娘はあの娘で、恋の機微に疎いようだから。唱や舞の技量の割に、今ひとつ艶や色気がないのは、これから指導していかなければならないだろうが。
「──では、《探秘花》の配役はこれでよろしいですね」
「ああ。皆、早く知りたいことだろう」
その後、科挙の祝宴の配役や演出、芝居の筋の切り抜き方について相談した後、霜烈は辞していった。
「燦珠は端役になってしまいますが。事前に話を通しておきましょう」
浮かれた風情の霜烈の微笑は蕩ける蜜のように甘く、それでいて隼瓊の目には可愛らしかった。燦珠と話す口実ができるのがよほど嬉しいだろう。
(燦珠のほかにも、星晶や喜燕も案じなければならないだろうが……)
若い娘というものは、こういうことに非常に敏感だから。燦珠と親しい娘たちは、霜烈が芳絶に浮気したと思ったらさぞ険しい目で睨むだろう。
とはいえそれもまた経験のひとつ。練習に差し支えるようなら、隼瓊から釘を刺せば済むことだ。
若者たちの瑞々しい感情を見守るのは、老いた者にとってはまたとない楽しみだった。
2024年1月24日、角川文庫より1、2巻同時発売です。
新規エピソードの加筆もありますので、Web版と併せてお読みいただけますように。