霜烈、呼び出される
その日、霜烈は後宮を出て外朝は文昌閣に参上していた。
文昌閣は、官僚の頂点にあって皇帝を補佐する大学士たちが執務を行う場だ。秘華園を含めた後宮の芸事を職掌とする彼には、本来無縁のはずなのだが、とある人物のたっての願いで招かれたのだ。
(いったい何の用なのだか……)
霜烈の主観では、招待というより強引に呼び出された、と言ったほうが良い。それも、最初は私邸に招きたいと言われたのをどうにか断って、譲歩してもらってこれ、なのだ。
その人物の目的は彼の容姿なのか、あるいは皇帝に近しいと見られる宦官の立場なのか。いずれにしても警戒せずにはいられなかった。
「卑しい身が政の場に足を踏み入れること、まことに恐縮でございます」
「ああ──よく参った」
表情を消して恭しく揖礼した霜烈を前に、彼を呼び出した人物──首輔は穏やかに破顔した。
「我が屋敷の庭を見せたかったのだが。まあ、ここの眺めも悪くはなかろう」
「恐れ入ります」
後宮ほどの贅沢かつ大規模な庭園でなくとも、外朝にも景観の美しい一角は随所に設けられている。霜烈が招き入れられた一室も、蓮が浮かぶ広い池に面していた。皇帝や高官が気分転換もできるように、ということなのだろう、中州に設けられた四阿の瑠璃瓦が陽光に煌めいている。
ただし、その美しい庭は、精緻な格子窓の向こう側だ。外を通りがかった者がいるとして、室内で誰が何をしているかを覗き見ることはできまい。
(完全に密談の体ではないか)
静かに警戒を強める霜烈の胸中を知ってか知らずか、首輔の機嫌は良いようだった。ただ、にこやかに細められた目が、彼の顔を不躾なほどに見つめているのが気にかかる。
「何、大した用件ではないのだが。先日の件では改めてそなたに礼を言わねばならぬと思ったまで」
下官が入室して茶を淹れたかと思うと、慌ただしく退室していった。扉を固く閉ざす音が届いて、密室にふたりきりになったことを知らされる。首輔は、室内でのやり取りを余人に聞かせる気はないようだ。
霜烈の脳裏には、なぜか彼の手を握ったまま離してくれなかった礼部尚書の記憶が蘇り始めていた。
「そなたは長公主様の恩人だ。長公主様のご無事も、科挙が無事に終わったのも。すべて、そなたあってこそであった」
「陛下のご厚恩を賜る身であれば、微力を尽くすのは当然のことでございます」
とはいえ、首輔の用件とは割と普通のことだったから、霜烈はわずかに肩の力を抜いた。──抜きかけた。
「とりわけ見事であったのは、長公主様が連れ去られた殿舎を言い当てたことであった。宦官とは、後宮の殿舎の配置と特徴、それに逸話を逐一覚えているものなのか?」
だが、ごく柔らかな口調で斬り込まれて、油断するのは早かったと思い知る。
一品を現す仙鶴の補子を胸に飾る首輔の年ごろは、五十代半ば辺りだろうか。
先帝の御代のいずれかの科挙で状元を勝ち取ったのだろう。あの先帝の治世のもとで着実に出世を重ね、今上の皇帝を即位させ──皇父の興徳王との間には何らかの駆け引きか取り引きがあったに違いない──、今は官僚の頂点にあって皇帝を支え、時に指導している。
つまりは、切れ者でないはずがないのだ。
(疑われているな)
彼の出自、正体のことを。
先日の騒動で顔を合わせたのはほんの短い間だったし、今上帝のもとで首輔を務める者が、父帝に気に入られたはずはない。つまり、この高官は彼の幼いころの姿を間近に見たことはないはずだ。だが、容姿と年ごろ、後宮や皇族に関する知識と併せれば、突飛な発想でもないのだろう。
あの時のあの場での言動について、確かに霜烈も疑いを招かぬように、などと気遣う余裕はなかったのだから。だが、だからこそ言い訳も考えてある。
「嘉祥公主様のことは、下々も痛ましいことと噂しておりましたから。文宗様のご聖断に、畏れ多いことではございますが。そもそもの、父君──慶煕王殿下のことも。ですからとりわけ印象に残っておりました」
用意していた台詞を述べる時に、声と表情を翳らせたのは演技ではない。彼にとっては血を分けた兄と姪のことなのだから、心を痛めないはずがなかった。
そしていっぽうで、先帝──父の判断に眉を顰める者が、身分を問わずに多かったのもまた事実。首輔が何をどう疑っていようと、この点を覆すことはできないはず、だったのだが──
「なるほど。──慶煕王殿下のことも嘉祥公主のことも、確かに忘れがたいことであった。私も文宗様をお諫めしようとはしたのだが、当時の立場では耳を傾けていただくことも、同志を募ることも叶わなかった。……陽春殿下がご存命であれば、と願うことさえあったものだが」
あくまでもにこやかに、かつさりげなく、首輔は霜烈を追い詰めてくる。彼の前の名をあえて口にして、動揺を引き出そうとしてくる。
「なぜ、そのようなことを……?」
「文宗様はあの御方のことを目に入れても痛くないほど寵愛なさっていたと伺ったゆえ。陽春殿下が我らの訴えに心を動かしてくださればあるいは、と──埒もないことではあったが」
あるいは、彼は糾弾されているのだろうか。生きているならなぜ名乗り出かったのか、父の暴挙を止めなかったのか、と。そう思うと、首輔の目は口調ほどには穏やかではなく、霜烈を睨んでいるようにも思えた。
確かに彼が姿を見せれば、父はこの上なく喜んだだろう。そして、彼の望みを何でも叶えてくれたはず。兄の助命も、姪の、追放のような輿入れを取りやめることも。
(考えなかったはずはない……!)
だが、考えたからこそ、その次に何が起きるかも思い描いてしまったのだ。
父への願いを携えた者たちが、彼のもとに殺到するのだ。正当な献策も、妬み嫉みによる讒言も区別なく、父に取り次げと迫られていたことだろう。
成人もしていない子供の言葉に、国の行く末や多くの人命を託されることになるのだ。彼に個々の請願の当否を判断する能力はなく、父にはその気がまったくないのは明らかだったろうに。正気の沙汰とは思えない。
(私を通して父を操ろうとしたような方なのか……?)
そして、彼の正体を察した今、改めて利用しようというのだろうか。
首輔の気質に多少の不安と不信を覚えながら、霜烈は慎重に言葉を選んだ。とうに死んだ皇子のことにはこれ以上触れず、相手の「今」のことに話題を限定しなければ。
「とはいえ今は首輔にまで上られていらっしゃいます。ご栄達は、国のためにも慶ばしいことかと」
「今上の陛下は寛大な御心をお持ちで諫言も容れてくださる。我がことなどより、そのほうがよほど慶ばしい」
「まことにごもっともと存じます」
霜烈の相槌に、首輔は我が意を得たりとばかりに身を乗り出した。
「であれば、そなたも陛下の御代の平らかなることを願うな? 我が身など顧みずに?」
ここに至って、ようやく相手の意図が掴めた、と思った。
(あくまでも陛下の御為、ということだったか)
首輔は、やはり志ある官と信じて良い人物のようだ。
英明な新帝の治世がようやく始まったというのに、先帝の遺児が実は生きている、と知れば不安になるのは当然のこと。回答や振る舞い次第では亡き者にせねば、と考えることも、また。
「はい。無論」
少し前までならばまだしも、今は霜烈も好き好んで死にたくはない。新帝のもと、秘華園が健やかに栄えるのを見たいと思っている。
だから力強く頷くと、首輔は嬉しそうに笑い、座り直した。
「それを聞いて安心した」
霜烈は安心できなかった。
(……本当に?)
疑いや懸念を持って呼び出しておいて、言葉ひとつで信用するはずがない。もっと問い詰めたり揺さぶったりして、本心を確かめようとするものだろう。
だから、首輔がゆったりと茶器を持ち上げ、目を閉じて香りと味を楽しむ間も霜烈は片時も気を抜かなかった。
「実は、そなたを市舶太監として差遣するよう、陛下に進言したのだ」
「──は?」
だが、茶器を置いた首輔がさらりと述べたことは、死角からの奇襲に等しかった。
朝貢に訪れる他国の使節を受け入れ、献上された品を検め、返礼の下賜品を管理する役所を市舶司という。市舶太監というのは、市舶司の業務を監督するために派遣される宦官のことだ。……という名目で、施設の接待および朝貢品の売買に関連して発生する賄賂を貪る者が多い、という噂は聞いている。
(……なぜ、私に?)
もちろん、首輔が皇帝に進言したとなれば、本来の職務を果たすことを期待して、ということなのだろうが。
「私は──すでに鐘鼓司太監を拝命しておりますが」
「内廷に仕える者が、一時的に特命を帯びるのはよくあることだ」
霜烈が問おうとしたことには答えないまま、首輔は事実を端的に述べて彼の反論を封じた。
首輔の目は静かに凪いで──けれど同時に鋭く、霜烈を貫いている。その言葉も、もはや判決のような重々しさをもって彼に圧し掛かる。
「そなたのような者には、末永く陛下の傍にお仕えして欲しいもの。ゆくゆくは司礼太監も務まろう。そのためには、今のうちに経験と功績を積んでもらわねば」
司礼太監は、後宮における皇帝の最側近。外朝と後宮を繋ぐ、非常に重い役目でもある。現在その地位にある隗太監は、先帝時代から私腹を肥やしていることで有名だから、皇帝は機会があれば更迭したいと考えているはず。
(ならば、陛下は首輔の進言を喜ばれただろうな……)
首輔は、すでに彼の正体を確信していたのだ。その上で、利用し尽くすことも決めていた。この分だと、皇帝が彼に抱いているらしい後ろめたさにも、気づかれていそうな気がする。
「そのような大役は──」
今日の席は、単に決まっていたことを通達するためだけのものだったのだ。外堀を埋められていたことを悟りながら、霜烈は力なく抗おうとした。が、瞬時に反問される。
「私人の好みで職務を選り好みできるとは考えておるまいな? 国のために尽くす機会があるのは喜ぶべきことのはず。そなたにとっては償いにもなろう。秘華園で安穏とするだけで良いと思っているのではなかろうな?」
父帝を諫めなかった埋め合わせをしろ。先帝の傍で見聞きしたすべてを今上帝のために役立てろ、と。言外の言葉は聞き間違えようもなく明らかだった。
「何を、仰っているのか──」
その上で惚けることができるほど、霜烈は厚顔ではなかった。彼が絶句したのを確かめたのだろう、首輔は満足げに頬を緩めた。
「そう、そなたが鐘鼓司太監であることに変わりない。秘華園の戯子たちも引き連れて赴任することも陛下には申し上げた」
「戯子たちを、何のために……?」
市舶司が置かれた港湾の地名は幾つか浮かぶが、いずれも延康の都からは遠く離れている。彼ひとりのことならどうとでもなるが、同行する娘たちを選び、旅程を整え、さらに主の妃嬪たちの許可を得るとなると──想像するだけで頭が痛くなる。
「華劇の美は、陛下の威光を示す手段になり得る。先日の祝宴でよく分かった。他国の使節に対しても大いに効果が期待できよう」
「さようで、ございますか……」
「それに、市舶司が不正を行っているという話も聞くし、海岸では密輸や海賊も横行しているとか。信頼できる者からの報告は陛下も喜ばれよう」
「は──」
とてつもなく重い任務を笑顔で乗せられて、霜烈は頬を引き攣らせた。
他国の者に見せるなら、戯子だけでなく演目も慎重に吟味しなければならない。考えることが突然、かつ急激に増えて、頭を抱えたい思いだった。
ただ──確かに、やりがいのある務めではあるのだろう。秘華園の名が海を越えて広まるかも、と思えば心が躍る。それに、何より。
(……燦珠は海を見たがるかな)
あの眩しい娘は、後宮で大人しくしている器ではない。外に羽ばたく機会があれば、きっと飛びつくのではないだろうか。
燦珠がより多くの称賛を浴び、名声を得るところを見る──それは、霜烈にとってもこの上ない喜びだ。皇宮にあって地位を得ることよりも、よほど大きな。
その喜びのためなら、押し付けられた大役にも応えて見せようと思えるのだ。
今話で第二部完結後の後日談は終わりです。ご覧の通り、第三部では港街を舞台に燦珠たちが歌ったり踊ったり、不正や海賊と戦ったりする予定です。まだ詰めてないので要素は増えたり減ったりするかもしれません。
第三部の公開は2024年の春以降になるかと思います。ゆっくりお待ちいただけると幸いです。
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