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燦珠、秘密を知る

 その日、秘華園ひかえんに高貴な御方からの差し入れが届いた。

 喉に良い蜂蜜を可愛らしい彩色の器にいれたもの。舞の練習で皮が剥けたり硬くなったりした足に塗る軟膏。絹の艶も鮮やかなくみひもで髪を結えば、気分も華やぐだろう。


 どれも、役者としてはありがたい品々なのだけれど──


「遠慮しないで使って良いのよ。下々に気を配るのがわたくしの役目ですもの!」


 得意げに胸を張るのがしゅう貴妃きひ鶯佳おうかだと、燦珠さんじゅとしては素直に喜んで良いものか分からない。


燦珠」

「は、はい」

よう太監たいかんと仲良くしても良いわよ? 芳絶ほうぜつに嫉妬しておかしな真似をしなければ、だけれど。後宮の秩序を乱すのはいけないことですものね!」

「……はい」


 しかも、何だかよく分からないことを言われるからなおのことだ。


(何か誤解なさっているの……?)


 何しろ貴妃の仰ることだから、大人しく頷くしかできない。それでも内心で首を捻っていると、柔らかく艶のある声が燦珠の耳をくすぐった。


びょうへの供物もあるんだ。持っていくのを手伝ってくれるかな?」


 蜜の香りを湛える花のように、酔ってしまいそうな色気を漂わせて微笑むのは、鶯佳が言及したばかりの芳絶だった。濃紺のほうという地味な出で立ちでも、そこにいるだけで空気を華やがせるのはさすがとしか言いようがない。


 優れた男役も、幼い貴妃にとっては侍女のひとりとさほど変わらない扱いらしい。何やら箱を持たされて苦笑する風情の芳絶に、燦珠は張り切って頷いた。


「はい、もちろん!」


 驪珠りじゅまつられる廟を整えるのは大事なことだ。それに、芳絶のしっとりとした目は、どこか悪戯っぽい表情を湛えていた。


 鶯佳の不思議なほどこしについて教えてくれることがある、と──無言のうちに伝えることができるほど、芳絶は視線での演技も巧みなようだった。


      * * *


 芳絶に預けられた箱は軽かったから、手伝えというのは口実に過ぎないのはすぐに分かった。

 事実、秘華園の片隅にある廟に向かう道すがら、人気ひとけが少なくなるとすぐに、芳絶は口を開いた。


楓葉殿うちの貴妃様も、渾天こんてん宮に参上したんだ」

「あ──はい。そうですよね……」


 そうだ、妃嬪は順番に皇帝の閨に侍ることになったのだ。鶯佳も貴妃のひとりである以上は、もちろん寵を受ける権利がある。


(あんなにお小さいのに……)


 でも、鶯佳はほんの子供だ。

 嫁に行くことがまったくあり得ない歳でもないけれど、生々しい話に触れるとまず痛ましさを感じてしまう。香雪こうせつだって、あの小さな貴妃様に対しては嫉妬よりも気遣いを覚えるのではないだろうか。


 燦珠の声が陰ったのを聞き取ったのだろう、芳絶は星が流れるような綺羅綺羅しい眼差しを寄こした。


「といっても、畏れ多くも陛下に寝かしつけをやっていただいたようなものだ。いくらかおしゃべりをしただけで、鶯佳様は眠ってしまわれたとか。ほんの少しだけどお酒を召し上がったということだしね」

「そうだったんですね」


 言われてみれば、あの皇帝が幼い子供に無体をするはずがない。明婉めいえんにもとても甘い様子だったし、もしかしたら歳の離れた兄妹の語らいのようだったのかも。

 そう思うと、とたんに微笑ましく思えるから不思議なものだ。


 芳絶も、その場面を思い浮かべているのか、穏やかに微笑んでいる。


「それでも、陛下とふたりきりで御言葉を賜ったのは光栄なこと。だから、お言いつけは()()()実行することになさったようだ。つまりは、年長の貴妃様がたを敬い、下々には寛容に慈悲深く、と」

「なるほど……!」


 鶯佳は、どうやら偉い人の御言葉は素直に聞くということだった。後宮どころか国で一番()()皇帝に直々に言われたことなら、翌日から実践するのは当然だ。


(とても普通のことだけど。でも、良いことだものね!)


 思えば、新帝の即位以来、ふたりの貴妃が立て続けに罪を得て後宮を追われている。

 皇帝だってこれ以上の混乱は望まないだろうし、鶯佳だって瑛月えいげつ仙娥せんがの轍を踏みたくないだろう。燦珠たち下々にとっても、後宮の平和と平穏が保たれるのは願ってもないことだ。


「あと、妃嬪同士は嫉妬せずに仲良くすべし、との仰せでもあったからね。──だから、楊太監についてもあんなことを思われたらしい。妻だけでなく、恋人の話にも通じると思われたのかな」

「……なるほど……?」


 謎はひとつ、解けたけれど──でも、芳絶が続けたことの意味は今ひとつ分からなかった。


(なんで私と芳絶さんが楊太監を取り合ってるみたいになったんだろう?)


 人間関係の中心に据えるなら、圧倒的な色香と美貌と、しばしば皇帝役を演じる貫禄を備えた芳絶だろうに。いや、そもそも燦珠と霜烈そうれつの関係は()()()()()()ではないのに。


 供物の箱を抱え直すと、香でも入っているのか、良い香りがふわりと漂った。廟に備えるものだから、甘さのない乾いた香りだ。でも、芳絶の微笑とともに接すると咲き誇る花が目の前に見える気がするから恐ろしい。


「そういう訳だから、私も彼とは()()()ことにしたよ。鶯佳様が役者に無茶を言うこともなくなるだろうからね。怪しまれないていどに、少しずつ距離を置いて行こうと思う。君には心配をかけたね」

「心配……というほどでもないんですけど。お似合いだったのにもったいないですね……」


 芳絶の笑みと囁きに、なぜか鼓動が早まるのを感じながら、燦珠はほう、と溜息を吐いた。


 霜烈と芳絶が並んだところは、それはもう絵になっていたのに。

 衣装も音楽もなくても、美しい芝居の一幕が間近に繰り広げられるのだ。眼福がんぷく、という言葉を体現したかのような、贅沢で幸せなあのついは、ではもう見られないのだろうか。


「そうかな」


 燦珠は、心から惜しんでいたのだけれど、芳絶はまた別の感慨があるようだった。声がほんの少し低くなって、苛立ちのような感情が滲んで、薔薇にも棘があることを思い出させる。


「とても下手な相手役で苦労させられたから、私としても安心している。もっとこちらを見ろ、もっと近づけと何度も言ったのに」

「それは──大変でしたね……?」


 そういえば、ふたりが並んでいる時は、芳絶のほうから霜烈に迫っているように見えた、だろうか。年上の芳絶に翻弄されるような彼の姿もとても貴重でとても良かった。

 確かに恋人同士の演技にしては不自然だったし、内幕を聞くと芳絶は苦労したのだろうとは思うけれど。燦珠にも分かるくらいだから、まああの時の演技は下手だと言われても仕方ないのかもしれないけれど。


(芳絶さんが相手役だから、照れてたんじゃないかなあ?)


 霜烈の歌も殺陣たても見たことがある燦珠にしてみれば、芳絶との演技のほうが例外だと思うのに。というか、芳絶だって彼の素晴らしい歌を聞いているはずだ。


「あの、でも《月翔花ユエシャンファ》──」

「愛しい相手を想った歌に情感がこもるのは当然のことだろう」


 霜烈を庇うつもりでおずおずと口にしてみると、あっさりとばっさりと斬り捨てられた。


「誰が相手でも同じことができるのが役者というものだ。まあ、彼は役者ではないし、想う相手がいるのに無理を頼んだのは私だからしかたないが」


 恐らくは自身も優れた役者であるからこそだろう、芳絶の評価はやはり厳しかった。それでも言い過ぎたと思ったのか、後半の口調は柔らかく、愚痴めいた調子に留まった。


(今、何て!?)


 霜烈の評判を回復できなかったのは残念だった。でも、それよりも聞き捨てならないことを聞いてしまった。箱を落とさないようにしっかりと抱え込んでから、燦珠は背伸びして芳絶の耳元に問いかける。


「あ、あの! 楊太監は、好きな人がいるんですか!? 秘華園ひかえんの役者に、ってことですか!?」

「……彼から聞いていないんだ? というか、気付いていない?」


 小声にしたつもりだったけれど、うるさかったのだろうか。芳絶は柳眉を顰めて燦珠を見下ろしてきた。その目には、何か奇妙なものを眺める時の驚きと、好奇心のようなものが宿っている気がする。


(私、信用されてないのかな……)


 聞いていないのを意外に思うていどには、芳絶から見ても、燦珠と霜烈はそれなりに親しいと見えるのだろう。にもかかわらず、燦珠は何も聞いていないし気付いていない。

 信用されていないなら寂しいし、色恋の話をしても無駄だと思われているなら──こちらもとてもありそうだ──花旦むすめやくとしてどうなのだろう、とも思う。


「はい……何も……」

「……では、私から教えることはできないな。いずれ分かる時が来るだろう。来る……と、思う」


 肩を落とした燦珠に、芳絶が慰めるような声をかけたところで、ちょうど廟に到着した。


 秘華園の役者にとっては神聖な場所だけに、そもそも乱れなく清められて参拝する者も絶えない。それでも、亡き人たちへの敬意を表して燦珠は燭台に火を点し、紙銭しせんをくべ、香を焚いた。


 芳絶と並んで跪きながら、祈りを捧げる。いつもは、芸事の上達について願うけれど──今日は、死者に届けたい思いもある。霜烈の母君である、驪珠に教えて差し上げたいことができたのだ。


(楊太監は、好きな人がいるみたいです。あんなに綺麗な人に想われたら、誰だって頷いてしまうんじゃないかしら。だから──きっと想いは叶うし、幸せになれると思います!)


 霜烈もしばしば廟を訪れているようだし、隼瓊しゅんけいも彼から聞いて、亡き友に伝えているかもしれない。だからまあ、余計なお世話なのかもしれないけれど。


 喜ばしいことなのだから、何度も聞かされても驪珠が気分を害することはないだろう。

 いずれ、霜烈のお相手のことを報告できたらなお喜ばしい。


(だから、教えてくれると良いんだけど……!)


 もちろん、強引に聞き出すような無粋で失礼な真似はできない。だから、霜烈の様子をそれとなく見ていなくては。燦珠はそう、心に決めた。

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